六日目 ゆるして
六日目 ゆるして
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その患者の第一印象は、「魅力的な老人」だった。
末期癌で、半月前からうちに入院している。
その患者はよく身の上話をした。いわゆる裏社会の人間ではないが、いろいろと汚いことに手を染めてきたのだという。自分の末期が近いことを悟っているのか、医師である私に何でもよく話した。
ある時、その人物を見舞いに来たという人物がいた。
立派な僧衣を着た住職で、数珠を持って両手を合わせ、神妙な様子で話していた。その方は何度か病院を訪れた。
聞けば、その患者の菩提寺の住職であり、僧として位の高い人物なのだという。
ある機会に、私はその見舞客と患者とで、三人で雑談をする機会があった。この患者は話し上手で、誰とでもすぐに友人になれるような快活さがあった。
「○○さん、貴方のことは昔からよう知ってます。悔い改めんさい」
住職はそう言って両手をすり合わせる。
「迷惑をかけた方々に償うとです。私んとこの寺に喜捨しなさいとは言いません。慈善団体に寄付するとか」
「ははっ、真っ平ですわ、あれはわしの金じゃけん、身内にすべて相続させます」
聞けば、海外に不動産を持っていたり、愛人の店に投資する形を取るなど、様々な形で相続税を逃れる手はずは打っているらしい。
医者だったら知っとかなあかんで、と私にまで節税の話をしてきた。
「○○さん、死んでから地獄に落ちてもええんですか? 地獄には様々ありますけどな、強欲や偸盗、つまり盗みを犯した者は」
「住職はん、わしは地獄なんぞ信じてません。人は死んだら無や、なんにもない、生まれ変わりもないし閻魔さまの裁判もない、ただ消えてなくなるだけや、サッパリしたもんですわ」
彼が悪行を重ねてきた人間なら、こんな爽やかな笑い方ができることに感心する。
それとも、やはり神経が図太い人間でなければ悪いことはできない、そういうことだろうか。
「お医者はん、あんたもそう思いますやろ、死んだら無やと」
「地獄はどうか知りませんけど、死後の世界はあるんと違いますか」
私がそう答えると、患者は少し意外そうな顔をする。
「はあ、インテリかと思うとったけど、信心深いんですなあ。大丈夫ですかいな、手術の前に神棚とかパンパンしはるんでっか」
私が違う意見だったことに少し不満を覚えたのか、若干いやみったらしくそう言う。
住職が重ねて言う。
「○○さん、いいですか、悔い改めることです。せやないとホンマに」
「ああ、もう帰ってくんなはれ、お布施やら墓の事やったら家のもんに任せてますから」
住職はため息をつき、立ち上がって一礼してから部屋を出ていく。
「心配してるような口ぶりでっけどな、カネのことしか考えてませんねん、みんなそうですわ」
親指で入口の方を示してそう言って、もそもそと上着を捲り上げる。
「ほら、回診の時間ですやろ、頼みますわ」
「そうですな、では失礼して」
私は首に下げていた聴診器を患者の胸に当てる。心音異常なし、呼吸音に乱れ。まあ末期癌だから当然のことだ。
「背中向いてくれますか」
患者はベッドの上で回れ右をする。
背中を打診、異常なし。
「……?」
すると、妙なものを見つける。
右の肩甲骨の下。少し皮膚が裂けているように見える。
何だろう、できものの影か、あるいは褥瘡の一種か。
顔を近づける。
それは長さ2センチほどの裂け目。
闇一色の深い穴。それが穴だとするなら、見えるはずの肋骨や肺がない。ただ穴だけが開いている。
裂け目の上下に、白いものが。
それは歯だ。鉛筆の先ほどの小さな三角の歯が、裂け目の上下に並んでいる。
――て
その裂け目の奥から、声が。
――ゆるし、て
――ゆる、して ゆるし、て
――ゆるして ゆるして ゆるして ゆるして ゆるして
ゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるして
まばたきを一つ。
すると、裂け目は跡形も無く消えている。
最初から存在しなかったかのように。
「……」
この患者は、地獄に落ちるのだろうか。
魂が許しを乞うているのに、脳味噌はそう考えてくれない。
それは不幸で、救いがない話だ。
そして彼が魂の存在を。
死後の世界を、地獄の存在を知るのは、死んでからになるのだろうか。
私はなるべく、魂の囁きに注意を払いたいものだ。
そのように思った。