五日目 おぼえられない
五日目 おぼえられない
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それが誰なのかわからないのです。と彼女は言った。
医師になって5年と少し、妄想じみたことを言う患者は多いけれど、彼女は特に奇妙だった。
「私、顔を焼かれたんです」
包帯の巻かれた顔で、彼女は言う。
「私はひどいいじめに遭ってて、それである日、とうとうこんな目に」
「でも、もう恨んでいないんです」
「顔はいずれ治せますから。それより、警察沙汰になって、前科を背負ったあの子のほうが、この後の人生、よっぽど辛いでしょうね」
くすくすと、どこか上の空のような笑いを見せる。
「でも、一つだけ、分からないことが」
「毎日、私を見舞いに来る人がいるんです」
「女ということは分かるんですけど、何を話したのか、どんな顔だったのか」
「何も思い出せないんです」
「先生、あの人、受付に名前を書いてませんか」
私はその人物の名前を告げる。この患者に毎日会いに来ている人物だ。
「そう、その……」
「やっぱり名前が入ってきません。何度聞いても忘れちゃう……」
「たぶん、それは私をいじめていた女ですね」
「私に許してもらおうと、毎日訪ねてくるんでしょうけど」
「私はその子の事なんか考えたくもない、だから、頭が記憶してくれないんです」
このやり取りも毎日同じ。
彼女は思い出せないことには困惑しつつも、それなりに説得力のある理屈を思いつき、それで決着としている。
私はもう一度言う、彼女を訪ねている人物の名を。
「そう、その名前……ああもう、頭に入ってこない」
変わりなし、と私は手元のカルテに記入する。
私は彼女に自分の名札を見せる。
「はい、○○先生ですね。いつもありがとうございます」
ただ読むだけなら、発音できるようだ。
私は彼女の耳元で囁く。
――何度でも、
――何度でも、話してあげる。
――あなたは、いじめる側だった。ひどいいじめを繰り返した。
――あるとき、あなたは復讐された。
――顔を焼かれ、四肢の腱を切られた。
――あなたは身動き一つできないことが認識できていない。
――復讐した子は、罪を背負ったけれど。
――それはもう償って、今は社会人として働いている。
――そう、この病院の、医師として。
その患者は、包帯を巻かれたままの顔で、びくびくと身を震わせる
この話をすると、いつもこのような痙攣が見られる。彼女の脳が混乱するためだろう。
数十秒の混乱、その後は、ただ茫洋と私を見るだけの彼女。
都合の悪いことは何も記憶できない。それはきっと、彼女に与えられた罰だろう。
もう誰も、私とあなたの関係を知らない。
あなたも覚えていない。
でも大丈夫、私はずっと覚えている。
あなたが思い出すまで、私がずっと面倒を見てあげよう。
その患者はぼうっとした表情のままで、確認を求めるようにこう言う。
「先生、思い出せないことや、記憶が書き換えられることなんて、あるのが普通ですよね」
そうだね。
私も仕事に戻ろう。最後に彼女の体に布団をかけて。
がり。
と、音がした。
病床の彼女が首を起こし、私の手首に、噛み付い――
血が、噴き出し――
「じゃあ○○、あなたの記憶は正しいのかなあ」