09 乙女心の諸問題
――ロランが外へ出て行ってからしばらく時間が流れ、廃墟に差し込む陽が、少しずつ傾きはじめた頃。
最大のピンチが私を襲った。
……どうしよう。
めちゃくちゃトイレ行きたい……。
椅子から立ち上がり、そわそわと部屋の中を歩き回る。
両手を縛っていたロープなら、ひとりにされてすぐ、さっさと解いてしまった。
思っていたとおり緩すぎて、ちょっと手首を動かしただけで取れたのには助かった。
立ち上がった私はすぐに室内を調べ回ったけれど、ロランが出て行った扉にはしっかり鍵がかけられていて、当然開けることはできなかったし、二つある窓はどちらも頑丈な鉄格子が嵌められていて、抜け出すなんて到底、不可能だった。
そのうえ、この部屋にはトイレがついていない。
……ロランを呼んで、トイレに行かせてほしいと頼むしかないのよね。
でも男性に、そんな生理現象を打ち明けるなんて、恥ずかしすぎる。
けっこう図太い神経をしている私だけれど、こういうところは人並みに乙女だった。
そんなことを考えた直後。
ブルッと寒気がして、私を襲う尿意レベルが明らかに増した。
だめだ。
恥ずかしいとか言っている場合じゃない。
このままでは漏らす。
しかたない……。
――ドンドンドンドンッ。
「ロラン! ねえロラン!」
拳で扉を打ちつけ、彼の名前を叫ぶと、すぐに錠を外す音がして、ロランが姿を現した。
「アデリーヌ! ついに決意を固めてくれたんだね! それじゃあすぐ結婚承諾書にサインを――あれっ、ていうかロープは?」
「違う、決意なんて固めてない! それよりもっとのっぴきならない事情なのよ!」
「のっぴきならない事情、それは大変だ。僕が必ず解決してあげる。さあ、打ち明けてみて」
「……の場所を……教えて……」
「え? なんの場所?」
「あーもうだから、トイレ! 漏れる!」
真っ赤になって、涙目でそう叫ぶと、ロランがハッとしたように目を見開いた。
何よその反応。
私だって、この恥、かきたくてかいたわけじゃない。
「あ、えっと、廊下の突き当たり」
指を差し、もごもごと教えてくれたロランの横を、無言でダッと通り過ぎ、トイレに駆け込む。
そして。
……。
……ふう。
……危ないところだった。
ホッとして一息ついたところで、究極に狭まっていた視野が開けてきた。
悪臭の立ち込めるトイレの壁には、そこかしこに蜘蛛が巣を張っている。
床には、おそらくネズミのものと思しきフンが落ちていた。
すうっと血の気が引いていくのを感じた。
今日一番、心の中が静か。
感情のさざなみひとつ立たない状態で、こう思った。
なんだこの状況、と。
なぜ私はトイレを極限まで我慢した揚句、男性にその事実を打ち明け、ネズミのフンが転がった場所で、用をたすなんて目にあっているのだろう。
「……」
相変わらずとても静かな心のまま、トイレを出て、つかつかとロランの元に向かった。
戻ってきた私を見たロランは、ひどく焦った様子で、私の傍へと駆け寄ってきた。
「本当にごめんね……! アデリーヌ! 君の体の生理的諸問題について、安心と安全を保証していなかったこと、心から後悔している……。ここにはお風呂もないものね」
「家に帰してください」
死んだ目でロランを見つめ、瞬き一つしない。
ロランはますます慌てた。
「あ、あのね? こんな場所に連れてくるなんて、本当にどうかしていたって、申し訳なく感じているよ……」
「家に帰してください」
「強引に城へ連れて行ってしまうより、薄汚れた廃墟のほうが、監禁されている感がでると思ったんだ……。ちょっと危ないやつっぽく迫れば、ドキドキして、僕に恋をしてくれるかなって期待したんだ……。僕が馬鹿だったよ……」
「家に帰してください」
「……」
「家に帰してください」
「わ、わかったよ……。今回は諦めるよ……。それじゃあとりあえず、帰る前にこれにサインだけ……」
すっと差し出されたのは、結婚承諾証。
「帰る!!!!!!!!!」
***
こうして監禁事件は幕を閉じた。
――そして翌日。
ロランは私の暮らす邸へ、のこのこと謝罪にやってきた。
こっそり窓から覗けば、神妙な顔をした彼の姿が見えた。
何よあの顔。
まったく似合わない。
手には大きな花束を抱えている。
ものすごく派手で場違いなものを。
当然門前払いにしてやった。
もちろん花さえ受け取らなかった。
それでもロランは門の前に立ったまま、夕刻までまんじりともしなかった。
そんなことが数日続いた。
頭のおかしい犯罪者であっても、ロランはこの国の第二王子。
『たしかに王子のなさったことは許しがたい。でも、さすがに会わずに帰すのはまずいよ、お父様の顔をたてておくれよ、アデリーヌ。毎日仕事で登城するたび、気まずいったらないよ……』とお父様は訴えかけてきたけれど、ギッと睨みつけて追い払った。
あんなひどい目に合わされて、私は怒っているのだ。
お父様の立場も、ロランの身分も、知ったことではないのだ。
監禁されて、汚ったないトイレで用を足した私の気持ちを、みんなもうちょっと慮るべきなのである!
と、プリプリしていたものの、ロランの謝罪訪問が始まって五日目の朝。
困った事態になった。
その日は明け方から、ひどい雨が降り続けていた。
雷が鳴り、強風が吹き荒れ、横殴りの雨が窓を叩きつける。
さすがに今日はこないだろう、そう思っていたのに。
ロランは外套を身にまとい、花束を手に、いつもどおり訪ねてきたのだった……。