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本編

  “あの館には近づいてはいけないよ。たとえ、どんな理由があろうとも決して。さもなければ、すべてを失うことになってしまう。”

そう、幼いころから言い聞かされてきたのに。あの時思わず足を踏み入れてしまったのは男の獰猛そうな瞳の奥に何か別のものが見え隠れしていたからだろうか。


 人を見下したような鋭い眼光はその紳士めいた外見と相まって見る者に警戒心を抱かせずにはいられまい。痩せた体、右頬だけ歪んだ口角。いかにもやり手であろう風貌からは本人がその気にならずとも人を威圧するだけの力がある。そして、何か、寂しさとも哀しさともとれる色が奥に宿っているように見える。それが、男…ロベール・ドオネイを初めて間近で見た時の私の感想である。


 街はずれにある品の良い洋館。

自然なままにされているようでいてそれぞれの良さを損なわないように適度に整えられた花壇。乗っているところを見たことがないといわれる豪奢な4頭立ての馬車はいつも磨かれている。ほとんど門戸を叩く者はいない筈だが門にはきちんと油が差され、鋭い屋根の上で誇らしげな風見鶏も手入れがされているようだった。

そんな一見したところ何も問題がなさそうに見える、いや、寧ろ問題がなさそうなところが問題であるかのような外観を持つ館がこの度の私の奉公先だった。


 しかしながら、そんな明るいイメージを持つ外観の傍ら、内情については好ましいとはお世辞にも言えない様々な噂が付き纏っていた。

あの人は彼の秘密を知ったせいで呪い殺された、その人は彼に睨まれただけで仕事を失っただとかいうものはまだ可愛い方で、彼が夜しか外出しないのは彼が吸血鬼だからであり、夜な夜な若い女の血を求めて彷徨っている、なんてものまである。しかもそれが実にまことしやかに囁かれ続けている。

そんなもの馬鹿馬鹿しいと思う人も中にはいた。その真偽を確かめてやろうという豪胆な人もいた。しかし何故かそういう人が近づこうとするたびに何かしらの力が働いているのか、作為的なものなのか、必ずといって良いほど天罰のようなものを蒙って帰ってくる羽目になる。そのことが余計に噂に信憑性を持たせてしまい、今では“館に近づくな”とまで言われるようになってしまっていた。


 さて、話を戻そう。何故、そのような、いわくが掃いて捨てるほどついている館に私のようなまだ若くて愛らしく、気も利き利発な娘が近づいてしまったのか。

それは単なる好奇心に他ならない。

そう、ことの起こりは数日前に遡る。


 その日はいつものように奉公先、今の私からだと前の勤め先に当たる、での頼まれごとのためにロベール邸の近くの森の中に来ていた。

頼まれごととはいえ、本来の私の職務であるメイドという立場から離れ、薬草摘みである。理由は単に厨房にも医療班にも館を恐れていない者がいなかったという情けない消去法だったりする。その職に就いているという自負があるのならばその職人根性を見せて欲しいとも思ってみるが、まぁこれはこれで気に入っているので特に苦情を申し上げようとは思わない。片や必要としている薬草が怖い思いをせずに手に入る、片や少々森の中で午睡をしたり、雑貨屋の噂好きのおかみさんと立ち話をしたりして帰ったとしてもお咎めを受けることはない。これほどの利害の一致が他にあるだろうか、いや、ない。

とりあえず、そんな複雑怪奇な大人の事情によっていつものように森の中にいたのである。

木イチゴを摘み、香草を嗅ぎ分け、食べられる木の実を探し。渋々ながら頼まれていた薬草を見つけ出そうとだけし。どういう訳だかさっきあんなに探していた四つ葉のクローバーは全然まったく見当たらなかったというのに、薬草は探さずともそれこそ群生地という感じであっさり大量に見つかってしまって落胆し。これまた渋々ながらやる気も仕方もなく摘めるだけ乱獲し。そして、休憩と称した僅かながらの睡眠を得ようとする、そこまでは、普段の行動だった。しかし、突如どこからともなくふっと名案が浮かんだのだ。あの、綺麗に手入れされている花壇の傍の樹の下で寝たらどんなにか気持ちが良いだろうと。


 敷地内に這入ったことで後に街の噂にはなるかもしれないが、背に腹は換えられない。女には女としてやらねばならない時がある。それがそう、たとえば今あるこの、如何に快適な休暇を得るかどうかという時だったりする。女というのはどうも男に比べて甘く見られがちだが決してそうではない。大切なものの順序が違うだけなのだ。

そう、あくまで軽い決心をすると、指紋が残せそうなほど、いや実際残ったほど、いっそ神経質なまでに綺麗にされていた門を引き、勝手ながらもお邪魔させて頂くことにした。

そして運悪く出くわしたのだ、悪評高い館の主に。


 あれこそ、蛇に睨まれた蛙。いや、鷲に睨まれた雀かもしれない。とって喰われることがなさそうでありながら、身の危険をほんの少しばかり感じたからだ。

「何の御用ですかな?うちには見ての通り必要なものは揃っていますゆえ。必要ならばお金はお渡し致しますからお引き取り願えますかな。」

「え〜と、その、あれですね。別に、館を探検しようなんてこれっぽっちもそれっぽっちも微塵も思ってたりなんかしませんから。ちょっとお邪魔してみようなんて、少しも。速やかにお引き取りされますので、どうぞごゆっくり…」

「いや、お待ちなさい。我が館を見たいとは…実に豪気なお嬢さんだ。その制服はカスペ家か。

ふむ、器量は並。少々好奇心が強すぎる気はするが悪くはなさそうだ。能力に関しては分からないが、まぁ、良いだろう。

それほどまでに館に興味があるのならここで働くと良い。こそこそ嗅ぎまわられるのは実に不愉快なんでな。ただし、何が起ころうとも私に訊ねてはいけない。全て、自分で考えることが条件だ。カスペ家には私から君が望むのであれば譲って欲しいとの連絡を入れておこう。あとは好きにしなさい。」

そんな急に言われても、とも思ったがウチの旦那様のこと。きっと上手く断って下さるだろう。明るい未来が見えた気がした。



  …そうは問屋が卸さない、そういう格言があった気がするけど、これってどうなのだろう。

「ちょっとおいで、セリア。実はさっきドオネイ家から葉書がきてね、かくかくしかじかなんだよ。いや〜、先方がどうしてもセリアが欲しいって話だからさ。行っておいで〜良いねぇ、玉の輿っ!」

話が違うっ!誰だ、ウチの(昼ドラ大好きでかなり世間知らずの)旦那様に余計なこと吹き込んだ奴っ!あの、ドオネイ家?誰が見たって妖しさ満載のあの家に?なのにそこに快く送り出すってどうなのっ!?

「あの、旦那様。私はまだここで働かせて頂きたいのですが。まだ、拾って頂いた御恩もお返ししておりませんし。」

「そんなの大丈夫ー。だってセリア、よくメイドサボって寝てるし。メイドの仕事だって数年経っても出来てないし、寧ろ他のメイドの仕事増やしてんじゃん。だからウチとしては損失でも何でもないんだよねー実は。」

ば、バレていらっしゃる…ここまで正論を持ち出されては流石にぐうの音も出ない。異論はあるか、とばかりに構えている旦那さまを見て覚悟が決まった。


 「いってらっしゃい、辛くなったらいつでもおいで。話くらいは聞いてあげるから。あ、ホラー関係は抜きでね。」

過剰なくらいに祝って送り出して(追い出して)くれた皆を尻目に仕方なく外から門扉を閉めた。分かってる、悪気がなく皆が送り出してくれたことは。ふと、最近本当はカスペ家の財政が厳しいのだと耳を掠めた噂を思い出していた。きっと、私の分の給料やドオネイ家の援助を鑑みればこれが最善の道なのだろう。明るく振る舞っていい話だと見送ってくれる皆の温かさに少しだけ感謝しながら歩を進めた。

「結婚式は呼んでねっ!」…何故か聞こえる野次には固く耳を塞ぎながら。



 そんな訳で、私は今、ここにいる。ドオネイ家の門扉の前に。恐る恐る呼び鈴を鳴せば涼やかな音が辺りに響き渡った。これまた磨きあげられ、年期も入っているようだが、その舌が叩いているであろう場所には少しの擦れも見当たらなかった。本来なら、たくさんの細かな傷があるだろうに。それだけこの鈴は鳴らされることが少なかったのだろう。そう思うと、何だか悲しい気がした。幾分か待たされて、扉が開いたかと思うと、御者さんが玄関からこちらを手招いていた。そうですよね、この無駄に長いお庭を突っ切って行かなきゃいけませんよね。前途を考えてしまい思わずため息が漏れた。


 「お初にお目にかかります、セリアでございます。本日よりこちらにお仕えさせていただくことになりました。未熟者ではございますが、何卒ご指導のほど、宜しくお願い申し上げます。」

鋒鋩の態で辿り着いた私のまずやることはご挨拶だった。旦那さまには前に不本意ながらお会いしているものの、屋敷の他の人は知らない。全員を集めたという食堂には4人の人間がいた。私を含めて、この屋敷に仕えている人は4人。執事さん(兼御者さん)、厨房をまかされている料理長さん、そしてこの広い庭を一人で整備しているという庭師さん。うち、料理長さんと庭師さんは通っているため、自然この屋敷に住まうのは執事さん(名前はレイモンドさんだそうだ。レイと呼んでくれとフランクに言っていた。)と私、そしてドオネイ様となるらしい。今まで館のことをどうしていたのかと聞くと、レイさんがこれまた兼任してやっていたという

。正直、この館でも私のやることってないんじゃないだろうか。

「いえいえ、貴女にはシェヘラザートになって欲しいのですよ、セリアさん。旦那様のお気持ちに沿って行動して頂きたい。勿論、メイドの仕事もお願いしますが。」

レイさんはそう、満足げに笑ったのだった。


 部屋は旦那様のお隣、私を呼び出す際のベルは二回と定められた。朝は4時起床、夜は仕事が終わるまでなら何時まででも。そしてお給料はやはり前にいたところに比べ、格段に良い。まぁ、同僚もおらず、サボれないことを考えるとその待遇も良し悪しだが。


 そして私の新しい毎日が始まった。


 ガシャンッ

「セリアさんっ!お皿割ったの、これで何度目ですかっ!どうして貴方はメイドだというのにこんなに仕事が出来ないんですか。庭師さんの方がまだいい仕事しますよ?」

「すみません、レイさん…私、向こうで内勤任されたの最初の数回だけだったので。」

「…分かりました、それでは私の代わりに買い物へ行って来て下さい。リストはこれです。仕方ないですね、後は私の方でやっておきますから。」

「分かりました、それでは行ってきますね。」

「あ、くれぐれも廊下は走らないよ…」

ガラガラガシャーン

「…ああ、もう良いです。丁度床も磨かないといけないと思ってたんですよね。別に絨毯の染み抜きが増えたことなんて何とも思ってませんとも。くれぐれも気をつけていってらっしゃい。」


「ちょっと、セリアちゃん。どうだろ、この庭木はこんな形で良いかい?やっぱり切る時も愛情を持って切ってやらないとねぇ。木が拗ねちまうから。」

「う〜ん、何だか私には木が新しい形を求めているように見えるんですよねー。もう少し右を刈って。そうそう、そこです。そして左下を大胆にっ!そう、その調子ですよー。更に上の方をジグザグに切り揃えたら…どうでしょう?」

「そうか、そうか。俺には美的センスはないからなぁ。セリアちゃんの意見を参考にさせて貰うのは助かるよ、ありがとな。」

「ちょ、ちょっと、アルノーさんっ!なんでウチの庭がそんなことになってるんですかっ!美しい英国式庭園だったのに…それでは極東の島国の文化と同じですよ。修正効かないですし、どうするんですか…」


「あ、ちょっとセリア。味見ていって。なんだかスープの味が納得いかないのよ。」

「こんにちは、ミレーユさん。…んー、刺激が足りないみたいですね。香辛料をもっとキツくして、味を際立たせるべきです。」

「ミレーユさん、貴方が抱えている瓶はなんですか?そんな大量のスパイスなんて入れたら旦那様が食べられませんよ。どうしたんですか、一体。」


「セリア、何か飲み物を頼む。」

「かしこまりました、ドオネイ様。ブランデーでよろしいですね?」

「いや、こんな陽の高い時刻からアルコールは受け付けないからな。普通にお茶で良い。」

「分かりました、では、先日入荷したばかりの薬草茶を淹れてみますね。」

「もういい、自分でやろう。おまえも今日は疲れただろう。早く自室に帰って少し休みなさい。」

「はい、何かあったらお呼び下さいませ。」

…チリンチリン。

「ゴホッ、ゴホ…何で砂糖壺に塩が入っているんだ。」


 レイさんの言っていたシェヘラザード、その意味が分からなくて私はその晩中々寝付けなかった。誰かのことを暗示しているようだが、もしや吸血鬼に血を吸われた女の代名詞なのかもしれない。私は歴史などの小難しい話を聞くと眠くなる質なので確証はないが。

毎晩、旦那様は自室におらず、どこかに行っているようだった。勿論、レイさんも。

私の夜中の言動については釘を刺されることもなく、自由気ままにしていて良い、とのことだったので部屋を見て回らせてもらったが(その数おおよそ50以上)、特に何も見つからなかった。これだけ広いお屋敷なのでどこかに隠し部屋の類があるのかもしれない。けれども、本当に奇妙なほど何も見つからないのである。ここまで何もないと逆に疑いたくなるのが人間の性だと思う。これ以上考えると明日の朝が辛いので今日は考え事はここまでとした。明日、ドオネイ様に聞いてみれば良いだろう。


 「どうだ、あの娘は。」

「館の被害は凄まじいですが、やはり貴方様の眼に狂いはないかと。全て順調に進んでおります。」

「そろそろ仕掛け時だな。あの芝居を打ってみろ。」

「かしこまりまして。仰せの通りに致します。」


 コンコンコンコン

「ドオネイ様、いらっしゃいますか。」

「ああ、開いている。何の用だ。」

「聞きたいことがあって。どうしてこの館には女の方がいらっしゃらないんでしょうか。ドオネイ様も良い年ごろですし、奥様がいらっしゃらないのかと思ったものですから。」

「セリア、最初に勧告した筈だ。何も答える気がないとな。知りたければ自分で探せ。」

「探したんですけど、見当たらないんですよね。」

「そんなことをわざわざ言いに来たのか。仕事はどうしたんだ、とっとと仕事をしなさい。」

「それが…今日のお仕事は皆レイさんがやってしまわれて。私の仕事がないんです。」

「よく分かった、レイを呼んで来てくれ。彼に話さなきゃいけないことがある。」

不機嫌なその後ろ姿には聞いて欲しくないという意思が表れていた。


 「…レイさん、ドオネイ様がお呼びです。」

「どうかしましたか、セリアさん。」

「この館のことが気になっているのに何にも分からなくて。思わず旦那様に聞いてしまいました。それで旦那様が…」

「ああ、そういうことですか。私も詳しくは存じ上げませんが、旦那さまには人には話したくないほどの辛い過去がおありなようです。どうやら女性関係だとは私も掴みましたが、それ以上は…。セリアさんが気にする必要はありませんよ、どうか今までどおりになさっていて下さい。」

「そうだったんですか、私ドオネイ様になんてことをっ!お暇を頂かせてはくれませんか?」

「いえ、だから貴方は何も聞いてないように振る舞ってさえいれば良い。探しても良いとおっしゃられているのならドオネイ様は知られるのを恐れてはいない。ただ、自分からお話になるのが辛いだけなのですよ。」

「…分かりました。ありがとうございます、レイさん。少しだけやらなきゃいけないことが見えた気がします。

知ったところでドオネイ様ご自身を救うことは出来ないかもしれません。ですが、それでも私はあの暗闇から解き放ってあげたいんです。世間で言われているほど、ドオネイ様は悪いお方ではありません。だから、世間の皆にもそのことを分かって欲しいんです。すぐには無理かもしれないけれど、少しずつでも。」

「それはそれは…雇い主に恋でもしちゃいました〜?頑張って下さいね、貴方ならもしかしたら出来るかもしれませんね。

では、私は旦那様に呼ばれていますのでこれで。」

思わず顔が赤くなって(ただ、夕日が当たっていたからであって、断じて、自分の言ったことに後から気付いた訳ではない)いると、レイさんは微笑みながら綺麗なお辞儀をしたあと、優雅に立ち去っていった。

でも、けしてあの言葉はウソではなかった。初めて見た時の哀しい瞳は私が覚えている。


 




 コンコン

「…失礼します、旦那様。セリア嬢と話していたら遅くなりました。」

「ああ、気にするな。…いえ、気にしないで下さい、レイモンド様。」

「それで、首尾の方は?」

「多分上手く嗅ぎまわってくれるでしょう、私の周囲を。」

「まぁ、あのあと私からも言っておいたからな。恐らくお前を気にしているだろうよ、あのお嬢さんは。しかし、もう少し何とかならなかったのか、あの態度では彼女、自分の失態だと嘆いて暇を貰うと思い詰めていたぞ?あんまりいたぶってやるものじゃない。」

「そう言われましても、レイモンド様。貴方が下さった設定ではありませんか。」




『ロベール・ドオネイ《Robert D'Aunay》。出身はフランスのモンマルトル。特技はボクシング。フランス語、ドイツ語、ラテン語の三ヵ国語を話し、ギリシャ語も少しだけ解する。』


『世間での吸血鬼だという噂、またその政治的影響力からも恐れられている。』


『吸血鬼、レイモンドの―――隠れ蓑として存在する男』


よもや、誰が疑うだろう。吸血鬼として名高い彼の側近こそが真の吸血鬼だなどと。


「全く愉快だな、ロバート。世間の目も、あのお嬢さんもお前が吸血鬼だと思っている。しかし、その男はひとりの女を愛したばかりに吸血鬼に囚われたただの人間なのだから。

さぁ、夜は長い。今宵も我らが活動を始めようではないか。」

 

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