目的地は……
心地よく揺れながら夜の高速道路を走っていたバスが、突然大きく揺れた。頬杖をつき、窓に寄り掛かるようにしてうとうととまどろんでいた私は、窓のさっしに顎を軽く打ち付けてしまった。驚いて車内を見回すと、他の乗客も驚いた表情をしている。小刻みな揺れがなくなったところを見ると、どうやらバスが止まってしまったようだ。
「おい、どうなってんだよ!」
すかさず響いた怒号。野太い声は若い男性のものだろう。
運転席から、説明のアナウンスはない。車内は静まり返っている。
嫌な沈黙が車内を包んで初めて、私は違和感の正体に気付いた。――高速道路のはずなのに、やけに静かだ。
慌ててカーテンを開け、ついでに窓も開けてしまう。見えたのは高速道路ではなく――得体の知れないどろどろとしたものが混じりあったような、とにかく気持ちの悪い景色だった。
「……なに、これ……?」
私は思い切り窓を閉めた。見てはいけないものを見てしまったような気がして、背筋に冷や汗が伝う。見ると、手がカタカタと震えていた。
まだ夢の中にいるのだろうか。そう思わせるくらい、窓の外の光景は現実離れしていた。試しに頬をつねってみると、やはり痛い。紛れもなく現実だ。
「何も言わねえのか!? 説明くらいしやがれ!」
先程と同じ声が、運転席に向かって怒鳴り散らす。他の乗客も同じ気持ちだからか、彼を止めようとする人はいなかった。
『……――えーっと、これでいいのかな? はーい、どうもっ! 良かったあ、ちゃんと聞こえてるね』
突然能天気な男の声が車内に響き、私は体を強張らせた。この声はどう考えてもバスの運転手の声ではない。運転手は、軽く見積もっても五十は下らない中年の男だった。しかし、この声は確実に若い男のものだ。あまり考えたくはないが――バスジャックに遭ったと考えるのが自然だろう。
『あれ、みんな戸惑ってる? そりゃそうか、まだ自己紹介してないし。俺の名前はジャック。ふふっ、ジャックがバスジャックするなんて笑っちゃうねえ! ま、これはバスジャックじゃないけど』
ころころと表情の変わる声色。何が面白いのか、男はひとしきり笑ったあと、不意に冷え切った声で言った。
『さっきすごく怒ってる子がいたから、先に説明しておくよ。信じてもらえないだろうけど、俺はテロリストなんて可愛いモンじゃない。あ、でもそっちの説明はあとで。まずは現在地の説明だね』
すると、運転席の方から赤毛の男がゆらりと現れた。
年齢は二十代前半だろう。猫科を思わせる金色の瞳。赤毛は自毛だろうか。鼻筋はすっと通っており、かなりの美形だ。しかし、肌は何処か青白く、不健康そうな印象を与える。赤いタキシードを完璧に着こなしているが、それが逆にこの場で浮いていることが皮肉といえば皮肉だった。
彼は大げさに両腕を広げ、整った顔に柔和な笑みを浮かべた。
「やあどうも、乗客の皆さん。俺がジャックだよ。初めまして」
一切無駄のない動きで洒落たお辞儀をする青年・ジャック。顔を上げると、彼は怪しく笑った。
「さて皆さん、このバスの行き先はご存知ですか? 知るわけないって顔だねえ、結構結構。驚かずに聞いて…って無理か。驚いてもいいから聞いてね。このバスの目的地は――あの世でございます」
ぞっとするような声色で、そんな馬鹿馬鹿しいことを告げた。車内には笑い声が溢れかえる。
「そんな訳ねえだろ! お前、頭イカれてんじゃねえの?」
「そうだねえ、イカれてるのかもしれないねえ。でも、それが仕事だからさ。――殺人未遂で不起訴された小西征吾さん」
途端、凍り付く車内の空気。小西征吾と呼ばれた男は、顔を真っ青にしてジャックを見つめていた。
「お前……何でそれを……?」
「愚問だね。本当は分かってるだろ? ここにいる乗客さんは、全員過去に犯罪歴がある。それも、証拠不十分に不起訴になって、ちゃんと裁かれてない。俺達の仕事は、そういう人間共を抹殺すること。まあ、抹殺するのは俺じゃなくて……」
その時、突然パンッ、という小さな音が空気を引き裂いた。慌てて音がした方を見ると、小西の額に赤い円が刻まれていた。彼は赤い液体を撒き散らしまながら前向きに倒れ、ピクリとも動かなくなった。
「……や、いやあああああああああああああああああああああ!!!」
響き渡る絶叫。狂ったように悲鳴を上げる乗客。私は頭が痛くなった。
ジャックはというと、愉しそうに笑っている。
「だから、いきなり撃つなって。俺の話、まだ終わってないだろ? え?『どうせ全員死ぬから問題ない』? あのねえ、そういうところはマナーの問題だよ。君は乱暴なんだから。『集中しているから話し掛けるな』? うわっ、冷たい! おにいちゃん本当に泣くからね!?」
一人で会話しているのだろうか。にこにこ笑うその姿が、今はただただ不気味だった。
車内には相変わらず銃声が響いている。今ならまだ逃げられるかもしれないが、窓の外に行く勇気はない。時間稼ぎ程度に椅子の下に隠れようか。いや、それとも――
コツン、という小さな音が背後から聞こえた。反射的に振り返ると、奈落に続く穴が見えた。
銃口を向けているのは、ペストマスクをつけた黒づくめの男。黒革の手袋に覆われた指がためらいなく引き金に添えられる。
「あ、あのっ!」
もうダメだ、と思った時程大きな声が出るものだ。男は驚いたように動きを止めた。
「こ、殺さないでください、何でもしますから!」
すると、男は空いている左手をコートのポケットに突っ込んで、小さな紙を取り出した。
『なら、大人しく死ね』
どうしようもない死刑宣告。私が何か答える前に、引き金は引かれていた。
パン、と響いた銃声は、何処か遠くで聞こえた気がした。額が熱い。視界が暗い、何も見えな――
***
「終わった?」
そう声を掛けると、彼はようやく振り返った。身につけている黒衣はところどころ黒ずんでいる。ペストマスクのせいで、表情は全く分からない。
『終わった』
掲げられた紙切れには、丁寧な文字。毎度のことながら、予知能力でもあるのだろうか。いまだに彼と〝会話〟が噛み合わなかったことはない。
「思ったより手間取ってたね。そんなにあの子が気になったの?」
茶化すように笑うと、彼はそっぽを向いた。
『違う。驚いただけだ』
「へえ、君でも驚くことがあるんだあ?」
『当たり前だ』
少し怒らせてしまったかもしれない。彼はそれだけ見せると、すたすたとバスから降りていった。
「ちょっ、待ってよ! これどうするつもりなのさ!? また俺がやるの!?」
本当に釣れない奴だ。まあ、ついて行っているのは俺の方だから、文句は言えないか。
血まみれのバスの車内を歩き、まだ血が流れきっていない死体を探す。腹が減っていては仕事も出来やしない。
お目当ての死体を見つけ、徐に首筋に噛み付く。生温く錆びかけていたので、あまり美味しくはなかった。
口元の血を拭い、タキシードの懐から手榴弾を取り出す。それを車内に置き去りにし、俺はバスから降りた。
「ほら、全部やったよ! お願いだから置いてかないで!!」
爆発音を聞きながら、俺はすっかり姿が見えなくなった〝相棒〟を追いかけた。