おまけのサンライズ
ふざけんなクソ男が。こんなにボロボロにしやがって。
何年振りかに花純に会った髙倉は、内心でそう毒づいた。あんなに、あんなに毎日きらきらした笑顔で踏ん張って頑張って駆け抜けていた花純が、傷だらけで縮こまっているだなんて。
自分のようなガサツな男子に、アイロンをかけたハンカチを貸してくれるような女子だった。そう言えば、花純の性格がよくわかるのではないか。
実際、プリントで指を切った髙倉に小花柄の綺麗なハンカチを差し出したことがある。恥ずかしさもあったが、そんなハンカチを汚すなんてできるわけがなくて、いらねぇとつっけんどんに突っぱねてしまった。
男女混合である剣道部に所属していたからか、異性とも健全な意味で仲がよかったと思う。気取らず、明るく素朴なところが壁を感じさせないのだろう。
かといって、お嬢さんでとっつきにくいかというと、そうでもない。いや、お嬢さんな雰囲気は持っていたことは否定しないが、お高くとまっているわけでもなく、声がかけにくいわけでもない。ただ、なんというか髙倉にとっては高嶺の花だった。
同じクラスで席が近くなったとき、一緒に日直をやって、話すようになったのが始まりだった。
どう考えても近寄りがたく、周りに煙たがられていた髙倉相手によろしくねと笑った花純。あのときの驚きは、今でも忘れがたい。素っ気なく返事をするのが精一杯で、思わず赤くなった顔を机に突っ伏した自分は、まだまだ青臭かったわけだ。
プリントを回すたびに両手で受け取って、体育のときはさらさらした黒髪をひとつにくくり、マーカーを引くときは定規をあてる。すっかり引出しにしまっていたはずの記憶が、あの再会を機にぽろぽろとこぼれてくる。
印象がよかったわけもないのに、花純は髙倉を怖がることも避けることもなかった。普通のクラスメイトとして接してくれた。花純はよく話すようになれば、あっという間に仲のよい女友達の立ち位置にいた。怒ったふりして居眠りを注意してくれたときは、毎回悪い悪いと謝るのだが、すると花純はしょうがないなあと眉をさげて笑うんだ。
たぶん、花純にとっても髙倉は仲のよい男友達ではあったと思う。バレンタインにはチョコもくれた。義理だったけど。友達に配っているのと同じものを、よかったらと髙倉にもくれた。そりゃあ、うれしかったさ。家に帰ってこっそり食べた。
くるくる表情を変え、よくとおる声でしゃべり、花が咲くみたいに笑っていた制服姿が今でも鮮明に思い浮かぶ。落ち込んでいたとき話を聞いたこともあったが、自分の非を認めてから素直に前を向いて歩きだしたのを見て、髙倉のほうが励まされたのを覚えている。
いいな、と思っているうちに部活仲間の男子と付き合い出したと聞いた。そのときの衝撃も今でも忘れない。けれども、そうかと納得した自分もいた。自分が付き合えるとは思っていなかったし、仲のよい男子とならば必然的だっただろう。
ふたりが廊下で話している姿や、一緒に帰っているのを見たことがある。はずかしそうに頬を染めて、瞳を輝かせているあの横顔。髙倉にはそれがまぶしくてまぶしくてたまらなかった。
ああ、好きなんだなと見ていればわかる。相手だって、花純をからかったり軽く小突いたりしていたが、またあとでなと言う声はやわらかい。そんなふたりだから、よかったなと思えた。
きっと進学しても、就職しても、花純の周りはきらきらしたあたたかな日が続いていくんだろう。山あり谷ありを彼女なら一生懸命乗り越えていって、それを支える誰かもいて、大丈夫だ。勝手にそう思っていた。そうだったらいいなと、思っていたのだ。
そんなこと、花純にしてみたらいい迷惑だとは思うが。髙倉にとって、花純はそういう存在だった。
それが実際にはどうだろう。隈のある青白い顔で、控えめに笑う花純を思い浮かべて、髙倉はくわえていた煙草を灰皿へ押しつける。
「わたしも悪かったから。もうこればっかりはどうしようもないよ」
そう言って諦めた顔で笑った彼女に、自分が言える言葉などたかが知れている。
食事をしながら言った言葉は、果たして適切だっただろうか。もっと気の利いた、花純が求めているようなことがほかにあったのではないか。自分の言葉が、逆に追い詰めるものになっていないだろうか。考え出したら切りがない。
花純はその恋人にも職場にも未練があるわけじゃなくて、とにかくもう疲れ切ってしまっていた。疲れて足も動かないのに、なんとか踏み出そうとして、踏み出しかたがわからなくて、わからない自分に苛立つ。そうしてもっとボロボロになる。そんな悪循環のなかにいるように思えた。
見た目も痩せたというよりやつれている。こんな姿を見た彼女の家族だって、さぞかし驚いただろう。
「でもね、髙倉くんに話を聞いてもらえて、すごく落ち着いたから。大丈夫、ちょっと休んだらまた頑張れるよ」
そう言われて、髙倉のほうがほっとしてしまった。
酔わせてしまった翌日のことである。店に顔を出して礼を言った花純は、仕事探しと称してハローワークまで散歩を日課にする、と笑った。家にいるだけでは体を動かさないから、家族にも心配をかけてしまうし、と頬をかく姿には前日のような悲壮さはなかった。
それから有言実行すべく、毎日同じ時間に花純が店に顔を出すようになった。近所の人たちにも、あら帰ってきたの? お父さん喜んだでしょう、なんて言われて馴染んでいる。
父親か。髙倉はその顔を思い浮かべる。酔った花純を送っていったとき、髙倉も顔を合わせたのだ。酔わせてしまいました、すみません。そう頭をさげると、彼女の父親は送ってくれてありがとうと丁寧に礼を述べてくれた。ふんわりした花純からは想像できない、厳格で落ち着いた雰囲気だったから内心でとても驚いたのだけれど。怒られることを覚悟していただけに、帰り道では大きなため息がこぼれてしまった。
花純の家はここから歩いて十分くらいだから、店の客たちも彼女のことをよく知っていた。
「髙倉くん、ありがとう」
はにかんで笑ってまた明日ねと店を出て行くのを、見送ることが最近の髙倉の日課になっていた。
日に日に、顔色がよくなっているように見えて髙倉はそれもうれしかった。もっと時間がたてば、彼女らしい明るい笑みが見れるといいのだけれど。
あのときは、まぶしくて理想を織り交ぜてながめていた花純。今、彼女は等身大の姿で自分の目に映る。今度は、歩み寄ってもいいだろうか。支えてやれるくらいの男になっているだろうか。
時計を見上げると午後一時半。そろそろだ。
煙を長く吐きながら、火をもみ消した。吸い殻がたまった器を隣の部屋に引っ込める。窓を全開にして煙を逃がすことも忘れない。
どっかりと椅子に戻って新聞を広げたものの、時計とおもてばかりが気になってしまう。記事が頭に入ってくる気配がなくて頭をかくのもいつものことだ。一面に映っている政治家の顔を睨んだところで、がらりと扉が開く音が響いた。
こんにちは、と続く声は待っていたもの。
入り口からのぞく相手に手を上げて、髙倉は大きく息を吸い込んだ。