テンサイボンサイコミュニケーション
うわあ、もう、めっさ疲れたー。
偉智能秀は、堅いコンクリートでできた屋上に倒れ込んだ。文字通り、大の字である。何の受け身もとらなかったせいで、痛いと表現すべき鈍い音が鳴る。そしてやはり偉智能は痛がっていた。
偉智能秀。
天才。彼の名を出したら、右にも左にも出る者はいない。天才中の天才。ゆえに変人であり、変態である。天才なんていない、だなんて、世の努力家は語るが、それを彼の前で口にできるものは恐らく一人していない。これは別に、努力家を非難しているわけではない。勿論、純粋たる、1%の才能と99%の努力で世界に名を轟かせた者もいるだろう。しかし彼は、99%の才能と1%の無駄でできていた。
そんな彼が、ぼくの友達であることこそが、1%の無駄に入ってしまうのだと思う。自虐的に見えるが、しかしこれは他虐であると断言しよう。
「ねえねえ。俺様に翼が生えたのだよ。ねえねえ」
「へえ、中々興味深いな。それはどうして生えたんだ?」
「簡単さ。鳥と一つになればいい」
鳥と一つになることがはたして簡単がどうかは、この場合ぼくにとって、どころか世界にとって難解で、彼にとって簡単なだけであったと言うだけなので、もはや議論する必要はなかった。
「それじゃあ、飛んでみてくれよ」
「いやいや、いやいやいや、飛べないよ。飛べるわけないじゃないか。だってこの翼、ペンギンの翼だもん」
「…………」
なんて意味のない動物と一つになったんだお前は。
簡単というならば、どうせなら鷹あたりに、せめてツバメとか……。
「というわけで、嘆字について考えよう」
「うむ。何の脈絡もなくそういう話をするのは別段、問題もなければ文句もないのだが、まずはその、”くちへん”が”さんずい”であることから直そうか」
正しくは、漢字。
「じゃんじゃかじゃーん。というわけで、今日の言舌是貢はずばり当て字だ!」
「その”わだい”と読めそうなものが、当て字というテーマに近くて実に洒落ているが、それを言うなら”言舌是頁”だ!」
「そうですた」
言舌是頁。
話題。
当て字。
天才といっても、漢字は苦手なやつ。そのわりに、漢字を使いたがるやつ。
「で、当て字というのは、例えば?」
「ほいほい、よくぞ聞いた。誉めてつかわす。というのも、最近話題の綺羅綺羅ネームというやつだ」
その言葉って、そんな中二っぽい感じだっけ――いや、漢字だっけ。
ぼくの記憶では確かカタカナで、あえて文字に表すとキラキラネームだった気がするけれど。
「ああ、あれね。確かに当て字だらけだな、あれは」
「真面目な話、あれは別にいいと思うのだ」ほうと、ぼくが相槌を打つと、偉智能はなぜか誇らしげに顎をあげた。「ようはだな、日本における漢字などというものは、十年も百年も前から、とうの昔のとっくの疾うに当て字だらけだというわけだよん」
「ん? そうなのか?」
「へへん。貴殿はそんなことも知らないのか? 愚かナリ愚かナリ。ふふーん。だったら、ここでクイズです。”怪異”――さてさて、何と読むでしょう」
そんなもの、どうやったって、ああ読むしかないじゃないか。
いや待て。
ここは、どうも当て字の問題らしい。
そうなのであれば、ここは当て字なのだろう。だとすれば――
うむ。おいおい。当て字なら、分からない場合、適当にいくしかないじゃないか。
「……も――”モンスター”」
我ながらこの返事は中々、的を得ていると思った。
「は?」ただただ純粋に首を傾げる偉智能。けれどすぐに、それは笑いに変わって、文字通り笑い転げていた。「”モンスター”って何? モンスター! モンスター。モンスター? モンスターなら、”イヒ午勿”だし!」
ものすごく馬鹿にされて、いや、天才にしてみれば皆馬鹿に見えてしまうのかもしれないけれど、漢字に関して言えば、こいつに馬鹿にされるのはなんだか癪だった。
さらにいえば、”イヒ午勿”ではなく、”イヒ牛勿”――というか、”化物”が正しいはずなんだけれど、ここでぼくがツッコミを入れても、どうせ馬鹿にされるに違いないので、とりあえずスルーした。
「じゃあ、何なんだよ」
「”かいい”だけど」
そのまんまかよ――
心の中で叫んだ。どうやら深読みするのがいけなかったらしい。いや、あるいはこの天才、ぼくが深読みすることを見通して、その上でああいった問題を出したのかもしれない。
「で、本題なんだけど、”殺陣”――ではこれは、何と読むでしょう」
ん? それは案外、何と読むか知らないな。
普通ならば、”さつじん”と読んでしまいたいところだけれど、しかし偉智能が”本題”と言った以上、今度こそ恐らくは、当て字の問題だろう。
否。
待て。こいつは天才。だとすれば、本題と言いつつも、そういった先入観を思い込ませて、本当はただ単に、再び単純な問題の可能性がある。
否。
待て。こいつは天才。だとすれば、ぼくがそう読み取るのもすでに読み取っていて、先読みを先読みしている可能性もある。
…………。無限ループもいいところだな。
とはいえ、二者択一。
「”さつじん”」
結局こっちを選んだわけなのだが、かといって特に理由があるわけでもなかった。
個人的に、またもや恥ずかしい当て字を言ってしまうよりかは、こうやって間違えた方がダメージとしてはまだマシな方がした。
そして実際、偉智能の溜め息から、やっぱりぼくは間違えていたのだと分かった。
「”たて”だよ。本題ってわざわざ大ヒントまであげたのに、せめてみずでっぽうでもいいから当て字を言いなさいよ」
水鉄砲?
「ああ、それを言うなら当てずっぽうな」
やっぱりこいつは、80%くらいしか才能がない気がしてきた。いや、それでも充分すぎるくらいに、天才なんだけれど。
「ともかく、”たて”だよ。”たて”だよ? おかしくない? どうやって”殺”を”た”と読んで、”陣”を”て”と読むのさ。俺様は世界中ありとあらゆる方法を使ってその読み方を探したけれど、どう手掻いても見つかんなかったし」
足掻いても――とでも言いたいのだろうけれど、まあ、いい。
「うむ。そう言われれば、それはそうだな」
「だろ? だろだろん? 他にも”とどろき”。これ、地名だけれど、”二十六本”とか、”等々力”とか、ふざけているの? まったく読めない。読めない読めない読めない!」
「うむ、それは言われてぼくも思い出したけれど、正しくは”二十六木”だな」
「だからさ、そんなこと言っているんじゃなくて、そもそも”二十六木”が例えば”にじゅうろっき”であれば、つまり本来あるべき読み方であれば、俺様だって間違えないって言ってんの」
先程までの間違え方を考えると、どうもそうは思えないけれど、しかしこの場合、そこはツッコむところではないだろう。
「ちょっと待て。それがはたして最初のキラキラネームとは、一体全体どう繋がるんだ? あれだって、お前の言う本来あるべき読み方を全くといっていいほど、そう読んでいないわけだけれど」
「だからね、俺様は、当て字なんて古来からいっぱいあるくせに、どころか人の名前にすら昔から当て字はあったくせに、ここぞとばかりに目くじら立てるのはおかしな話だ――と言いたいわけですぜ」
「…………」
成程。これは確かに、そうかもしれない。
「いや、でも、今それが問題だと言われているのは、当て字の方ではなく、その当て字の読み方なんじゃないか? 誤解を恐れずに悪い言い方をすれば”友人にいじられて、社会に出たときに困る”読み方が多いのが問題なんじゃないのか?」
「そうかもしれないけれど、その問題はそういうものが流行ればすぐに解決されるわけで、ほら、だって、例えば携帯電話――ん、今はスマホかな? あれだって、一世代前までは中学生は持っていない人の方が多くて、持っていないことが当然で、持っている人はいい意味にも悪い意味にも注目を浴びていたわけだけれど、今となっては中学生のほとんどが持っていて、持っていることが当然で、持っていない人が珍しいくらいになっているじゃん。つまり時代の変化なんだよ。社会人になれば困るっていうのは、大人が生み出した苦し紛れの批難にすぎないってわけ」
「おいおい、急に真面目だな。こういうときこそ、漢字の間違いをしてほしいところだが」
「何言ってんの? 真面目な話なんだから、真面目になろうよ。ふざけないでね」
なんでぼく怒られたんだ。
まあ、そりゃあ、真面目なときは真面目になるのは当たり前だけれど、この天才に真面目は似合わないと思ったからこそのフォローだったはずなのに、その天才にふさわしくない正論で怒られるとは思わなんだ。
気を取り直して。
「――で、なるほど、そういうわけか。しかしそれでは、ぼくの考える余地がないじゃないか。議論開始、終了。と言われている気分だぞ」
これも、もはや何度あったことか分からないが、この天才、大概ぼくに疑問をぶつけ、一人で解決するという茶番のような流れをする。
「じゃじゃじゃ、何か反論してよん」
「天才相手に凡才のぼくが反論か。はッ……」
「うわあ。超ネガティブ! 大丈夫? そんなのでやっていける? 友達いないんじゃないの?」
「それは遠回しに、”わたしはあなたのともだちではありません”と言っているのか!」
「友達じゃなくて、親友だもんね。いえーい」
くっそ。
ちょっと嬉しいじゃないか。
この天才め。
「それに天才って、”天から与えられた才”ってことでしょ? 神様からもらった才ってことだったら俺様は声を大にしてこう言いたいね。”神様も大したことないな。はんっ。”」
やはり天才は違う。発想が別次元から生まれているような言葉だ。どうせならもっといいものを寄こせよ、というその言い分は、実に自分勝手で、まさに見当違いな正論だろう。
「じゃあ、天才じゃなかったらなんなのさ」
「地才」
「”地面から与えられた才”って、そっちの方が価値としては低いように思うんだが」
「地が天に劣っているなんて、誰が決めたのかな? 天はあんなにも広いけれど、地はこんなにも大きいんだぞ。それに、俺様含め、全人類を支えているのは天ではなく地じゃないか」
「じゃあ、地才。議論は終了だ。もう帰ろうぜ」
言って僕は、立ち上がる。すると偉智能は、立ちふさがる。
「待ちなよ親友」
「ぼくはそろそろ門限なんだ」
「そうか。ならば、最後に一言」
「…………」
「天才の親友は、世界のどこを探し回っても一人しかいない。そいつは天才でもなければ、何の特徴もない凡才だった。しかし天才は言う。”俺様はお前が親友で辛いの一つ上だぜ”。テンキュー」
はん――と、ぼくは笑って、天才と別れた。
全く、本当に天才ってやつは、困ったものだ。
こういうところで天才的に頭が回るのだから、ぼくの立つ瀬がない(そんなもの元からないわけなのだが)。
さて、明日は一体、どんな天才を見せられるのだろうか。いや、魅せられるのだろうか。
天才の真似をするならば……いや、こればっかりは、真似できないな。
全く、ぼくは本当に幸せものだぜ。
そういえば作中の天才という設定、いりませんでしたね。作中で天才といっているわりに、天才の片鱗をみせたのがペンギンと一つになった程度では、どうしようもないです。