影の受難
「…………ハッ!?」
再びヒサが目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋であった。
ブラケットを跳ねのけて上体を起こしたヒサの体は裸に剥かれていた。ベッド代わりになっているソファと隣のテーブルの間にも乱れたブラケットが置いてあったが、掛けられていたであろう人物の姿はなかった。
「目が覚めた?」
女性の声に顔を上げると、お盆に器を乗せた女性がにこっとしながらテーブルの側に腰を落としてきた。
その格好は奇抜な衣装ではなく何の変哲もない部屋着であるが、その笑顔とおっとりした話し方、右の目元にある泣き黒子は、黒十字結社の施設から二人を助けだした人物に相違ない。
「……彼は?」
「貴方がぐっすりしている間に出て行ったわよぉ。お粥くらい食べて行くよう言ったのに、最近の若い子ってせっかちよねぇ」
女性はテーブルにお粥を盛った器とレンゲを置く。一つだけ用意された食事はヒサの分なのだろう。
「世話を掛けた」
食事に付き合うつもりはヒサにもない。ソファから抜け出し、急ぎ着替えて主の元へと戻るつもりでいた。
「どこへ行くの?」
だが動こうとしたヒサの体はいとも簡単に組み伏せられた。
ソファに寝かされてから初めて、女性に動きを制されて押し倒されたのだと知った。
「何を……むぐっ」
開いた口に無理矢理押し込まれたのはレンゲであった。人肌に温められた柔らかな米がヒサの口内に流れ込んでくる。
「本当にせっかちね。大人しくお姉さんの言うことを聞いたらどう?」
気付かれることなく組み伏せる身のこなし、本音を垣間見せぬ感情の制御。どれもこれもが高い次元にあることを、ヒサは直感した。
ごくりと喉を鳴らしたのは緊張からであり、同時に口に注がれたお粥を飲み込んでいた。
「いい子ね」
ヒサの手にレンゲを持たせ、女性は体を離していった。何故二人を助け世話を焼いているのか疑問に思いながらソファに座り直したヒサに、女性は言い放った。
「こっそり情報を探るのはそこそこ上手みたいだけどちょっと非力ねぇ。バランスが悪いから敵の術中にハマって苦手な戦闘をやらされちゃうのよ。人助けの判断も鈍いし、よくそれであの人の密偵なんてできてるわねぇ」
自分の実力を見抜かれ、指摘されたことよりも、何者か知られている口ぶりがヒサを焦らせた。
「私の事を知っているのか?」
「んーバレバレよぉ。私の風里さんと貴方の主人が会っている時、いつもすごーい形相で睨んでるでしょ? 気付くなっていう方が無理よぉ」
それは女性の正体をも明かしていた。
彼女もまたヒサと同じく主人に仕え、影となって任をこなすスペシャライザーである。夜代の恋仲であった女性にもそういう存在がいるということは、薄々感づいてはいた。
「何故助けた? 同情か憐れみか、それとも情報を握っていたからか」
「人助けに理由はいらないわ。強いて言うなら、風里さんなら見過ごすことはしないだろうから、私もそうしただけかしらねぇ」
その理由は嘘臭さを孕んでいた。人助けは迷わず素早く迅速に。ただそれを実践し、理由は後から付け足しただけのような空虚さであった。
「そうそう。まだ急いで戻る必要はないわよ? 貴方のご主人様の無事は風里さんが毎日確認してるから」
女性は何かを探しているのか、クローゼットを開けると膝をつき、尻だけ出してゴソゴソと中を漁りながら話しかけた。
「毎日?」
「そう毎日。最近不穏な空気が漂ってたでしょお。だから毎日必ず一回直接会うことにしてるんですって。如何わしいことはしてないから安心していいわよぉ」
そんな感情は抱かないと否定したくもあったが、何もかもを見透かすような女性の糸目には言い訳じみた返答など無意味だと思うようになっていた。
あったあった。
目的の物を探し当てた女性が立ち上がると、昨日着ていたものと似たメイド服を体に合わせてヒサに見せつけていた。服のサイズは彼女よりも小さく、その体に入りそうにない。
「貴方の無事も伝えてあるわ。ほとぼりが冷めるまで私が面倒見ていいんですって。神木さんのお墨付きよぉ」
「そう、か」
主人はまだ無事であるという知らせに裏付けはないのだが、それでもヒサの心中を微かに安堵させた。
「だから今日からしばらく貴方には、これを着てお店で働いてもらうわね」
「そうか……」
「人手が足りなかったから助かるわぁ」
「……そうか?」
「貴方にアルバイトしてもらいたいって神木さんに伝えたらあの人も喜んでくれたわよ。たまには外の世界に触れることも大切だからって」
「…………」
「お食事が終わったらお店まで行きましょうね。教育係は私、巻菱蓮。巻菱さんでも蓮さんでも好きに呼んでいいから、よろしくねぇ」
「待て!!」
呆然と話を聞いていたヒサだったが、巻菱が握手を求めて手を差し伸べたところでようやく現状を把握し叫んだ。
「何故私が!?」
「お店の人手不足解消。貴方のご主人からのお願い。理由はちゃんと言ったでしょ?」
「アルバイトなど私にできるわけがない!」
「できるできないは聞いてないわ。私が教育係をする以上やってもらうしかないわよぉ」
「しかし」
「貴方の主も期待してるのよぉ? 貴方に働いてもらいたいって伝えた時のあの人の嬉しそうな顔……貴方にも見せてあげたかったわぁ」
「ぐっ」
「ご主人の期待を裏切るつもり?」
それを引き合いに出されてしまっては、ヒサにアルバイトの件を拒絶することはできなくなっていた。
「……百歩譲って労働の件は受け入れよう。だがその服はなんだ!?」
「マジカルシェイクの制服っ。丁度貴方に合いそうなサイズがあって助かったわ……さ、遠慮せずに着てみせてちょうだい」
「そんなものが着れるか!」
すっかり蓮に手玉に取られたヒサは体裁を取り繕うことも忘れ蓮に食ってかかっていた。
「私は男だぞ!」
「だから着せたいの……」
ぺろり。
一つ舌舐めずりした蓮の瞳が薄く、薄く開かれた。蛇に睨まれた蛙の如く身を竦ませるヒサに、蓮の魔の手が差し迫った。
「さあ着て……貴方なら絶対にすごくよく似合うわ」
「や、止めろ」
「お店の子の誰よりも綺麗に可愛く美しくしてあげるわ……」
「うわあああああぁぁぁ!!」
かくしてヒサは蓮の毒牙に掛かり、生まれて初めてメイド服を着せられたのだった。




