魔法少女と廃工場
「おわっ!」
薄暗くだだっ広い工場の二階。今は使われておらず機器も残されていない朽ちかけのそこへ連れ込まれ、埃の積もった床に転がされた。
顔から倒れてしまったのは、両手首を後ろで縛られていて手を使えなかったからだ。無様に倒れた俺は、背中を押し飛ばしてきた委員長を肩越しに見上げた。
「ここが目的地なんだろ? だったらもういいだろ、いい加減怪我の手当てをしてくれよ」
左掌に縦に走る裂傷、流れ出た血が委員長の柔らかな手を真っ赤に染めている。俺の手首を縛る紐にはその血がべっとりとついている。どれだけの血が既に失われたのだろう。委員長の手と顔が蒼く見えるのは、工場の中が薄暗いせいなのか。
「必要ないよ。私も相沢くんもここで一緒に死ぬんだから」
「死なないよ! きっと、絶対!」
「いいえ死ぬわ。餌なんだもの」
聞き覚えのある声に全身が強張った。委員長が工場の奥へ歩いて行く。委員長が進む暗がりの先で、大勢の人間が無造作に転がっている姿が目に飛び込んできた。その傍らから一歩歩み出てきた人影に、全身から冷や汗が吹き出すのを実感した。
「久しぶり。私のかわいい獲物」
蝙蝠の羽と、尻尾が生えた妖艶な女性。忘れるはずもない、俺を公園で襲ったあいつだ。いや、忘れていたからそれは正確じゃないのだが。
その際どい格好の女を見上げる委員長の顔が、虚ろに上気している。そいつしか目に入っていないような熱い視線を投げかける様子は、異常なものにしか見えない。
「やはり、どれもこれも簡単に魅了できたわ。私の力に問題があるわけじゃないのよね」
何を言っているんだ、と思う俺の前で、女は足元に転がる人たちを乱雑に足蹴にし始める。
「これも。これも。これも。どの餌もひと噛みするだけですぐに眷属となり、餌となる。思い通りに動くからお前を連れてくるのも苦労しなかったわ」
蹴飛ばされる人の中に知った顔があり、思わず叫んでいた。
「メロン先生! お前、委員長だけじゃなく先生も……!」
昼間のことが思い返された。俺を呼び止めた先生、スマホを取り上げて、委員長のことを呼び出した。俺の電話番号を調べたのも、委員長を手駒にしたのも、きっとメロン先生を利用してのことだったんだと結論づけた。
「なんだってこんなことを! 俺だけ狙えば良かっただろ!」
「あんたには目障りな犬っころが引っ付いていたでしょ。引き離すためにわざわざここまでしてやったのよ」
一歩一歩と歩み寄ってくる。距離を取ろうとしても、芋虫のように這いずるだけで思うように動けない。
「それにあんたに興味があったの」
「俺に……?」
「私は確かにあんたを噛んだのに、他のと同じ操り人形になりはしなかった。それどころか烙印さえ刻まれていなかった。おかしいと思わなかった?」
言われてみれば、俺には委員長やメロン先生のように操られた様子はないし、首筋に委員長のように印があるわけでもなかった。
「それは先輩が助けてくれたから……」
「あの犬が何かした様子もなかった。つまり」
女は上から俺を指さし、告げてきた
「貴様自身の能力。体質か? お前がスペシャライザーかどうか見極めようと思ってここに運んだのよ」
「俺が……先輩たちと同じ……?」
寝耳に水だ。ただの被害者の俺がそんなモノなわけはないと思ったが、こいつの言うことが本当なら俺にも変な力があるってことなのか。
「自覚はないようね。まあいいわ。まずはここにいる全員の命を吸い尽くして戦いに備えるとしましょう」
そう宣言した女は、手始めとばかりに傍らの委員長に手を伸ばし、その身を抱き寄せた。
されるがまま、嬉しそうな声を上げる委員長が首筋をさらけ出す。そんな姿は見ていたくない、けど目を背けるわけにはいかない。
「何してんだ……委員長を離せよ!」
吸い尽くすとはどういうことなのか。最悪の想像が頭を掠めていく。そんなことは絶対にダメだと懸命に声を荒らげた。
「死にかけの人間ってすごくいい味してるのよ? ここに転がってる何十人かはもう死にかけ……あとひと噛みで餌の役目も終えるでしょうね」
「止めてくれ! これ以上やらなくたっていいだろ!」
「確かに犬を殺すには充分な力を集めたわ。けどね、これほどいい具合に死にかけた餌を手中にして、おいそれと食事を止めると思う?」
カッと開かれた口から牙が姿を現す。あれを突き立てられたら、委員長が死んでしまう?
嘘だ、そんな、信じられない、どうにかしないと、信じたくない、死んでしまう、傷ついてる、俺のせいで、何ができる、俺なんかに何ができるってんだ。
「や、やめ……」
襲われた時の記憶が蘇る。痛めつけられ、首を噛まれ、命を吸われて死にかけたあの時の恐怖と苦しみと絶望。ガタガタと震え声も碌に出せず、ただ委員長が俺と同じことをされるのを這いつくばって見ているしかできない。
そんなのはダメだ、あんな思いを委員長のように良い人がしていいはずがない!
「止めろって、言ってんだろお!」
勢い余って転がりそうになりながら立ち上がると、そのまま委員長たちへ突進していった。
何もできることはない、助けることなんてできはしない。そんなの俺が一番解ってる。でも何かしないと、委員長を助けられずにいたことを絶対に後悔してしまう。
助けたい、後悔したくない。逃げ出したい気持ちを振り切るように全速力で立向かった。
「ふふ、来てくれてありがとう」
風を切る音が聞こえた瞬間、胸に痛烈な痛みが走る。
「っか……」
「お前を最初に殺したかったの」
痛みの出処をゆっくりと見下ろせば、左胸に鋼と化した女の尻尾の先が突き立っていた。呼吸すらできず喘ぐ俺の目に、女の笑みは死の宣告のように映った。
「自覚がないその力はただ目障りなだけ。それに最初に味見したのにまだ喰えてないんだもの。賞味期限が気になるわよ、ね!」
振り抜いた尻尾の衝撃が体を貫く。後方に弾き飛ばされ、最初に転がされた場所よりも遠くまで体は転がっていった。
腕を縛られ、床に体を打ちつけ、止まった頃には先日を思い起こさせるくらいボロボロにされていた。
「心臓刺しちゃったけどまだ死なないでよ。死にかけがいいんだから」
委員長を投げ捨てて近づいてくる女の姿を辛うじて捉えたが、体に受けた衝撃に喘ぐたびに胸が痛み、呼吸を整えることさえできずに悶え苦しむしかなかった。
でも、委員長から引き離すことはできた。それだけは後悔せずに済んだ。この後、委員長だけでなくメロン先生や他の犠牲者に牙をかけるのだろう。俺のしたことなんてただの先延ばしにしかならない。けど俺にできることなんてこれしかなかったんだ。
ただ先輩たちには本当に申し訳ないと思った。守ってくれると言っていたのに、自分が一人で動いたせいでその想いを台無しにしてしまった。
最低だ、謝れるなら土下座してでも謝りたい。目に涙を浮かべてそう願った。
「それ以上あたしの後輩を虐めないでくれる?」
工場の二階に澄んだ声が響いた。俺が吹き飛ばされた近くの階段にあったのは、肩を上下させ、額に汗を滲ませた四之宮先輩の姿であった。
「……んぱい」
「はいはい喋らないの。言い訳は後で聞くから」
願いが通じた。先輩の顔を見ることができ、体はボロボロだっていうのに心底安堵して気が緩み、溜めていた涙が一筋溢れてしまった。
そんな俺を見ると、先輩は苦笑とも微笑ともつかない表情で息を吐いた。
「昨日の野良犬の仲間なのか? お前もわたしの食事の邪魔をするのね」
「辛気臭い場所でお食事するのね。これならワンちゃんと一緒に夕飯食べる方が万倍マシよ」
女の気配が険しくなるが、先輩は意に介すこともなく俺の傍らに膝をつき、世間話をするように語りかけてきた。
「問題の答えを教えてあげる。五十四枚目のカードの在処はここでした」
細い指が俺の胸に伸ばされる。制服のポケットから先輩が取り上げたのは、独特な紋様の描かれた一枚のカードだった。
「あたしのデッキにはジョーカーを含めた五十三枚に加えて、もう一枚無地のワイルドカードがあるのよね。だから合計五十四枚。そのうち一枚を君の体に忍ばせて、カードの反応を追ってここまで来れたってわけ」
先輩がカードを引っくり返し、表面をこちらへ向けた。
「スペードのエース。剣や軍隊など力を象徴する意味が込められているけど、あたしの扱う能力には別の意味があるの」
カードを弄ぶ手をくるりと返すと、もうその手の中にトランプの影も形も存在しなかった。
「堅牢。おかげで貴方の身を守ることができたわ」
そうか。さっきの強烈な一撃を喰らっても吹き飛ばされるだけで済んだのは、先輩のカードが俺のことを守ってくれていたからなんだ。
ちゃんと守ってくれていた、こんなどうしようもなく脆弱で弱虫で勝手に動いて傷だらけになった俺のことを。
「先輩……俺」
「喋らないで。衝撃までは防げてないから胸骨が折れててもおかしくは」
俺は先輩の言葉を待たずしてその腕を掴んでいた。どうしても言っておきたいことがあるんです。
「すいません……俺、何もできなくって……すいません」
「は? 何を謝る必要があるの?」
俺の手を優しく引き離すと、先輩は立ち上がる。
「中園さんを助けたんでしょう? かっこ良かったわよ」
胸が熱くなるのを感じた。痛いからではない、先輩にそう言ってもらえたことが嬉しく、自分のしたことを認めてもらえたんだと思ったからだ。
俺から目を逸すと、眼鏡越しの瞳はキッと正面を見据えていた。
「別れは済んだかしら」
「あら待っててくれたの? これからブチのめされるというのに随分余裕があるのね」
うわ怖い。普段の調子でさらっと言うもんだから余計凄味がある。なんでそんなに笑って言うんですか。
「っふはは! どこのどいつか知らないけれど威勢だけはいいわね。決めた、まずはお前から殺してやる」
「やれるもんなら」
先輩がトランプのデッキを胸の前に掲げた。もしかして変身するつもりなのか。力の中に異物を抱えていると言っていたけど、それを承知で今、この場で、俺や委員長たちを助けるために。
「……と思ったけど、今日は必要ないわね」
四之宮先輩が突然肩を竦め、カードデッキを胸のポケットに仕舞ってしまった。
どうして臨戦態勢を解いてしまったのかと疑問に思ったが、それは対峙している女の方がより強く感じたことだろう。
「どういうつもりだ!」
不自然な先輩の態度、相手の疑問はすぐに怒りへと変わる。舐められているとでも思ったのかもしれない。
「あんたの相手はうちの部長がしてくれるってさ」
その時、天が轟音を上げて裂けた。
「はぁぁああっ!!」
崩れ落ちる瓦礫と共に天井から降ってきた体操着を着た音無先輩の雄叫びが崩落する音の中でもはっきりと木霊した。
「な、に」
天井を砕いた右手を振り下ろしたまま、虚を突かれ天を仰いだ女の頭をガシりと掴み床に叩き伏せた。またも激しい音を立て床を突き破り、先輩と女の姿は階下へと消えていった。地面に激突する音が二階にも届いた。
「先輩も……来てくれたんだ」
「ええ。ここに入る前に場所を電話しておいたからすぐ着くと思ったわ」
ここから学校までたったのすぐ来れる距離じゃないし、何より空から降ってきた。既に人間離れした力を発揮しているのは明らかだ。
と、四之宮先輩は人質に取られていた委員長や転がされる人々の方へと歩み寄っていく。無造作に倒れる委員長の肩を抱き、そっと仰向けに寝せる。
「随分酷い怪我をさせられたものね。それでなくても生命力を吸われて弱っている。それは他の人たちも同じ状況か」
被害者の様子を正確に把握しながら、ひとり、またひとりと仰向けに寝せていき、その手を隣の人の手と重ね合わせていく。どうやら円状に並べるつもりらしいが、小柄で非力な四之宮先輩には重労働らしくふぅふぅと息を乱しながら作業を続けている。
「お、俺も……」
手伝いたいが胸が痛み、立つのもままならない。ならばと這って先輩の元へ近づいていく。
「無理しないでよ。怪我人に手伝わせるわけにもいかないわ」
「でも」
「それにアヤメもすぐ戻ってくるだろうし、終わらなかった作業は彼女に任せるわ。体力自慢の筋肉バカだもの」
それは階下に敵とともに姿を消した先輩が無事に帰ってくるのを信じている……いや、さも当然で当たり前のことだと言わんばかりのものだった。
――――――
彼女が腹を立てていたのは陥没した工場一階の床に倒れ伏す者への怒りもあったが、それ以上に自分自身に対してである。
狙われていると分かっていながら守らせてと言っておいて守れず、あと少し到着が遅れていれば友人は自ら不安定な力を使っていたに違いない。
屋根を突き破った時にちらりと見えた少女は血を流し、近くにいた大勢の人の命もまた危険に晒されていたのは明白であった。
もっと凄惨な状況になっていたかもしれない。それなのによくも護るだなんて言えたものだと己を責める。
「……はっはっは。不意打ちとはね」
発条仕掛けの人形のように体を起こした女の頭は埃こそ被っているものの大した傷はついていない。
「その程度じゃ生命で腹を満たしたわたしには敵わなくってよ」
初めて接敵した夜にあっさりと撤退した者とは別人のように自信と力に溢れていた。事実、あの時とは比較にならないほどの力を大勢の命を吸うことでその身に秘めているのだが、
「上で戦っちゃあ他の人の迷惑になるでしょ。サシでやりたいから場所を変えただけよ」
四之宮花梨から電話でこの場所を教えられた時から腰にベルトとして身に付けていたスマートフォン。既に人智を超えた力を発揮するために活性化されていた変身アプリの最終シークエンスを実行する。
画面に浮かびあがっているハートマークを指で弾いた。
「今日は殺す順番がころころ入れ替わるわね……ああでもあんたを殺すと決めたのはあの夜だったから、結局順番が元に戻っただけね」
しっかりとした足取りで歩を進めた女がアヤメの前に立ちはだかる。
「時間が惜しい。あたしはすぐに上に戻らなきゃならないの」
「ここでゆっくり死んでなさい。すぐに上の奴らも送ってやるわ」
女の顔を見上げならがギチッと握り込んだ右拳が突き出される寸前、アヤメの視界には拳が間近に映り込んでいた。
次の瞬間、体に拳が突き刺さり苦痛に顔を歪めていたのは女の方だった。
「ぐっ……ああ!」
左腕を右手で払うと同時に左の拳を女の脇腹に叩き込んでいた。
怯まず堪える相手の左足を踏み台にし、両手で挟み固定した顔に目掛け左膝を打ちつける。
「付け上がるな餓鬼が!」
鼻から血を噴き出すも守りに転ずることなく、鞭の如く撓る強靭な尾の一撃が中空で膝を放ったままの姿勢のアヤメに繰り出される。
左脇腹、肉の下の骨を砕く音が尾を通し分かる。してやったと歪めた表情は瞬時に強張る。
アヤメは真っ直ぐに顔を見据えていた。痛みを微塵も浮かべぬ顔つきは、学校で同年代の男女と談笑していた人物とは別人。戦士のそれであった。
「はああっ!」
尾を掴み、振り回し、投げ捨てる。廃工場の壁は脆くも崩れ去り、隣の空間へと女の体は吸い込まれた。
右腕、左腕、右足、左足、そして胴。交えた体は光に包まれ、その都度漆黒の衣装へと変わっていた。最早当初の体操着姿とは別物である。
「ふぅ」
最後に髪をかき上げると、その頭にピンと立った獣の耳が現れた。
変身を完全に終え、真紅のマフラーを翻して穴の開いた壁の前へと立つ。
「……ふは! 流石、大戦を生き残っただけのことはある。とんでもない強さね」
ガラガラと瓦礫を払う音が闇の奥から聞こえる。獣の耳が捉えた水の滴る音は、体液が地面を濡らす音か。
「恐ろしい……恐ろしい力だ。強すぎる、あなたのそれを喰らいたいわ……ブレイブドッグ」
名前を出され、ピクリと眉が動いた。
「何故名前を知ってるのか疑問のようね。わたしに勝てたら教えてあげてもいいわ」
骨格が軋み肉が爆ぜる不快で不気味な異音。空気を震わせる尋常ならざる雰囲気に、右足と右肩を引いて半身に構える。
「つまりあんたが知ることはないってことよぉ!」
野太い咆哮が威圧してきた瞬間、壁の穴を突き破って飛び出してきたのは巨大な肉塊だった。
人の体を優に超える太さと化した腕に殴りつけられた衝撃で、ブレイブドッグと呼ばれた少女は大きく蹌踉めいた。
速い。咄嗟に腕を交差し初撃は防いだものの、敵の極端な速度の向上を認識し、反応するまでのラグは追撃を許してしまう。
剥き出しの腹部を強襲するもう片方の腕による打撃は、殴りつけるなどという生易しいものではない。
宙に浮いた少女の右半身に、巨木の如き尾の横薙ぎの鞭打叩きつけられ、敢え無く工場の壁に別の穴を開けた。
「ふは、ふはは! どうだ、これが我ら魔族たる者の真の力だ。脆弱な人間とは比べ物にならないでしょ」
先程とは逆の光景に、女だった者は意気揚々と高笑いする。成人女性だった姿からは一変しており、肉体は隆々として数倍に膨れ上がり、大きく突出した口は頬の辺りまで裂け、瞳は血走り感情は酷く昂ぶっている。
頭頂部に残る毛と背中の羽程度しか以前の面影はなく、化け物と呼ぶに相応しい体躯に変貌を遂げていた。
「まだ死ぬなよ。全て吸い尽くしてから肉を千切り骨を砕き、心の臓を潰して他の奴も並べてやる」
ズン、と瓦礫の吹き飛んだ音に、吹き飛んだ相手の方を指さし気分よく言葉を並べ立てていた怪物は訝しむ。
見れば、地面から真っ直ぐ天に突き上げられた足が崩れた壁面を蹴り飛ばしたところだった。そのまま足を振りかぶり、跳ね起きた少女は穴から歩み出てきた。
「そんなことさせはしないっての。他の誰もあんたなんかの手に掛けさせやしない」
傷が癒えている? 最初に攻撃を加えた脇腹も、今しがた強烈に叩いた右半身もダメージを負った様子が見て取れない。それがやつの力か。
欲しい。裂けた口から先端の尖った舌がにゅるりと舌舐めずりした。
「お前などに止められ」
立ち向かいかけた機先を制され言葉は途切れた。
「こっちも全力でいくよ」
怪物の頭部に右手の指がメキメキと音を立てめり込む。目に止まらぬ速さで一足に間合いを詰め、耳元で囁いたのだ。
速、すぎる。そう認識した時には反応することすら許されず投げ飛ばされていた。
片腕で巨躯を投げ飛ばす圧倒的な膂力。最初に二階からここまで撃ち下ろした奇襲など児戯にも等しい接触だったのだ。
コンクリートの柱に叩きつけられ呻く間もなく全身に打撃を撃ち込まれ、強靭なはずの肉塊は悲鳴を上げる。
桁が違う。特に今腹に叩き込まれた右拳。力の全てが篭められているかのように強大な程凶悪で残酷な程鳴哭し絶命させる程の生命の輝きに満ちた腕。それもこいつの力だ。魔を祓い大戦をくぐり抜けた歴戦の魔法少女、スペシャライザーの力。
背後の柱が砕け散っても打撃は止まない。秒間に無数に叩き込まれる拳と蹴りの雨は壁に吹き飛ばしてからも延々と続く。
欲しい、この力が欲しい。
連打を浴びながらも湧き上がる欲求。無数の餌から力を吸い上げたところで及びもしなかった暴力。腹を満たしたはずなのに新たな渇望が首をもたげ、口を開いた。
「んっ」
力尽きかけたかと思った相手が突如として大口を開けたことに体が反応し一瞬動きが鈍る。放った拳は腕ごと舌に絡め取られ、勢いを殺さぬまま怪物の顔へと導かれる。腕に横からミチリと噛み付かれていた。
「捕まえた……捕まえたぞ。これで終わりだ、全て吸い尽くされ力尽きるがいいわ!」
裂けた口から漏れる恨みがましささえ感じさせる声とともに、腕から血を吸うかのように生命力を吸い上げだした。
「エナジードレイン、ね」
力が幾分抜かれていくのが分かる。相手に負わせた傷が徐々に癒えていく。
力が充実していくのを感じ、口を更に大きく裂いてほくそ笑む。勝ちを確信した怪物の口の中で人間の小さな腕が動くのを感じ、逃すまいと喰いつく力を増す。
「馬鹿ね。突き立てた牙を容易く離すわけがないじゃない。このまま死ぬまで離さない」
引き抜くかと思われた腕は逆に押し付けられるが、その程度で力は緩めることはない。壁に頭が当たろうとも口が離れることはない。
「引いてダメなら押してみた? 無駄よ、無駄無駄!」
「分かったから。ちゃんと死ぬまで離したらダメだかんね」
大地を震わす獣の咆哮が轟く。全力を出すと言った彼女の全力のエナジーが右腕に渦巻く。
「名前は知ってても能力のことは知らないみたいね」
既に怪物の傷は癒え、一般人から吸い上げて得た力以上の活力に満ち溢れている。
満ち溢れすぎだ。これ以上の吸収は自身の許容量を遥かに超える。パンクする前に止めなければと試みるが、頭を壁に押さえつけられ無理矢理に力を流し込まれる。
「遠慮しないでって。死ぬまで吸いたいんでしょう」
違う、こいつが死なすつもりだったのは自分の方だったのだと悟るが時既に遅く、無限とも思えるエネルギーの奔流は吸い尽くすことなど出来すにその腹を内部から破裂せしめた。
「――――ッ!!」
腕を噛まれたまま手足をバタつかせて痙攣されるのにちょっとだけ嫌な顔をしてアヤメは腕を引き剥がして離れた。
「他所の世界から無尽蔵に送ってもらえるワイルドエナジーを吸い尽くすなんて、できっこないと思ったけど。ま、そうなるよね」
顔についた返り血を拭う右腕にはもう噛まれた痕はない。エナジーによる圧倒的な回復力と強化された身体能力、そして一際強いエナジーが満ち溢れるその右腕こそがスペシャライザーとしての彼女の能力である。
「それと、一つ間違えてるよ」
壁に寄りかかり崩れ落ちているのは既に怪物ではなく、最初にいた成人女性の姿をしていたが、全身を引き裂かれたようにズタズタな様相は妖艶な雰囲気を漂わせた面影は微塵も残していなかった。
「ブレイブドッグは大戦の日を最後にいなくなった」
大きく開いた右掌の指にギチギチと力を込め曲げる。腕に渦巻くエナジーが掌に集約していくのを目にする女の胸中には恐怖や絶望の織り交ざった畏怖の中に、ほんの一点の畏敬の念が水紋のように広がっていた。
「や、め」
喉から絞り出した声は獣の耳に届いていたが、聞き届けられることはなかった。
「今ここにいるのは噛み砕く魔狼、ブレイブウルフよ」
何故これほどの窮地に瀕し絶命必至な場面でこちらを見下ろす魔法少女に畏敬の念を抱いたのか、その理由を悟ったのは最後の一撃を受けた瞬間だった。
「エナジーストライク」
振り下ろされた掌が瀕死の女の頭に爪を立てる。その腹を裂いたのと同じ莫大な力がその全身を駆け巡る。
「ァアアアアアッ」
衝撃は女だけではなく工場全体を震わせる。喘ぎ苦しみながら、この犬が魔狼の加護を受けていたのが畏怖の正体だったのだと悟った。
残忍残虐残酷なる獣に全身を噛み砕かれる錯覚に陥りながら青白い閃光に包まれていく。
「闇に還れ」
凛とした少女の声が響き光が弾けた時、その足元には何者の姿もなかった。
魔なる者の浄化と消失を見届け、ブレイブウルフは立ち上がる。
「あ」
と漏らし頭を掻く。その表情と雰囲気は、最早戦士ではなくただの女子高生のそれである。
「なんで名前知ってるのか聞き損ねた……っていうか相手の名前も知らなかったな」
分からないことを残してしまったが、それならそれで仕方ない。
「まいっか。さっさとみんなのとこに行かないと」
頭を切り替え、少女は跳躍した。
――――――
一際大きな衝撃が二階にまで届いた。
鉄骨の柱を背もたれに座り込みながら、その後は静寂が降りた工場内で四之宮先輩の辛そうな息遣いだけが聞こえる。
「ひぃ……ひぃ……ひぃぃ」
無造作に転がされていた最後の女性――メロン先生だ――を運び終えると、その横で先輩が手と膝をついて崩れ落ちていた。
「大丈夫っすか……」
大声で喋ると胸が痛むので囁くような声しか出せなかったが、この静けさの中で先輩には届いたようだ。
「あ、貴方が心配することじゃないわ……」
女の子一人であの人数を輪にして並べるのは重労働だったに違いない。
人で出来た円は委員長から始まっており、委員長で終わるはずなのだが、その隣には一人分のスペースが空いている。完全な円ではない、限りなくOに近いCといったところか。何のためにそんな並べ方をしたのか見当はつかないが、お手伝いできなかったのは申し訳ない。
「……静かになりましたね」
ドンドンと階下で鳴り響いていた音は最後の轟音を機に止んでいた。決着が着いたのか。
「あの」
四之宮先輩に声を掛けた瞬間、俺の横の床が弾け飛んだ。
「おぉ!? あいたたたっ」
驚きのあまり身動いだ拍子に体が痛んだ。先輩も目を丸くしてビックリしてる。
「お待たせ。迎えに来たよ」
床を蹴破って飛び出してきた戦闘着姿の音無先輩がクルクルスタッと二階に降り立った。
あの女と階下に墜落していってから心配だったけど、見たところ怪我もしてない。
「終わったんですか……?」
「ええ。これでもう君が命を狙われる心配をする必要はなくなったよ」
「そうですか……」
しゃがんで優しく答えてくれる。俺はホッとすると同時に、あの女を倒したということはつまり先輩が相手の命を……。
「死んじゃったんですか? あの女の人は」
少しの沈黙の後、先輩は目を伏せ、声音はそのままで語りかけてきた。
「君が気に病むことじゃないよ。命懸けなのはお互い様……それに君を護るのがあたしの一番の使命だったんだから」
先輩の右手が俺の髪の毛をくしゃっと撫でた。その手はとても温かく、柔らかく、歳相応の女の子のものだった。
「ちょっと……話が済んだら、早く治療頼むわよ……」
「ああ、ゴメンゴメン。すぐやるから」
忘れられたんじゃないのと言いたげな四之宮先輩の声がした。まだ疲れてるのかその声に張りはない。
「草太くん、体の具合はどう?」
「あ? はい……ちょっと胸が痛く……って、俺なんかより!」
声を荒らげて胸を痛めてしまったが、そんなことよりもっと大事なことがある。
「委員長を助けて下さい! 俺のせいで、彼女ひどい怪我を……」
「分かってる」
興奮する俺を落ち着かせるように二度頭を叩き、先輩は手を離して仰向けに寝る人々で作られたサークルのもとへ向かう。先輩が委員長の隣に膝を突くと、Cは完全なOになった。
「彼の方は?」
四之宮先輩の問いかけに対し、小さく首を横に振る音無先輩。彼っていうのは俺のことか? 質問の意図は全く読めないが、何か問題があったのだろうか。
「仕方ないわ、治せる人から治しましょう」
「はいよ、っと」
四之宮先輩が人の輪から数歩下がるのを確認し、膝をついた先輩は傷ついた委員長の手を右手で取り、左隣に横たわるメロン先生の右手を左手に取った。
何が始まるのか見守っていた俺の耳に先輩の深呼吸が聞こえる、と、淡い光が先輩の手から委員長を伝い、人の輪を流れメロン先生の手から先輩へ戻り、光輪が辺りを青白く照らす。
「エナジーサークル」
一陣の風が舞い上がり、光の柱が天へ立ち昇る。激しさは感じない、目にしているこちらの心が安らぐような光の流れ。先程先輩が触れてくれた頭に感じたのと同じ温もりに思えた。
「……ふぅ」
光柱が次第に小さくなり、やがて完全に消え去ったところで先輩の呼吸がまた聞こえた。
「おまたー。次は草太くんの番だよ」
「いや、あの……今のは何をしたんですか?」
「さっきの? みんなの怪我や生命力を回復したんだよ」
「先輩がですか?」
「そだよ。一昨日も草太くんの怪我を治したって言わなかったっけ?」
怪我の手当てと治療をしてもらったのは説明してもらったけど、どういった方法でかはちゃんと聞いていなかった気がする。まさか先輩が直接その力を使って治してくれていただなんて。
そういえば力の名前もワイルドエナジーっていう体に良さそうな名前をしていたっけ。炭酸飲料でありそうな名称だなんて思いながら、
「えっと、先輩の右手を握ればいいんですか?」
さっきの光輪の起点だったそこが力の源なのかなと考えて聞いてみたが、先輩は困った笑顔を浮かべながら傍にしゃがんでくる。
「折角心配事が片付いたところに、また別の心配事を持ってくるようで申し訳ないんだけど」
言いにくい話題なのか。また胸が苦しくなってきた。
「普通ならさっきみたいに頭を撫でて集中するだけで治癒できるんだけど……」
俺の髪を撫でたことを言っているのか。その割にはまだ胸はズキズキと痛むままだ。手の平の温もりは確かに感じたけど、それが特段体に影響を与えた様子はない。
「……何故か君だけこの方法での回復を受け付けてくれなかったの」
俺に回復が効かなかった。似たようなことを俺を襲った奴に言われたのを思い出す。
「俺を噛んでも操れなかったって、あいつが言ってました」
「そうだね。初めて会った時も、首に烙印がないことに疑問を感じてたみたいだった」
「なら……その二つの例を踏まえて鑑みると」
ようやく疲れがとれてきたのか、四之宮先生が俺たちの所へやってきた。額にかいた汗に髪の毛がピトッと張り付いているのを正しながら告げてくる。
「魔法による効果や異常を受けない、または受けにくい……てところかしらね」
「丸っきり受けないってわけじゃないんですね……そりゃそうか、先輩に治してもらったんなら、全然受け付けないわけじゃないですよね」
先輩の言葉通りなら、頭を撫でる以外の方法があるはずで、その方法で自分の傷を癒してくれたに違いない。
「じゃあその……違う方法があるんですよね? お任せします」
と言ったら、先輩は旧に視線を泳がし始めた。
「今度は意識あるんだよね……」
「何言ってんのよ早くしてあげなさい。相沢くんも苦しがってるじゃない」
「分かってるわよ! ああほら、あっち向いてて」
シッシッと手を振る音無先輩を見ていた四之宮先輩は、ニヤニヤとした表情を浮かべたままこちらに背を向けた。
「草太くんも目を瞑って! いいって言うまで開けちゃダメだからね」
「は、はい……」
強く念を押された俺は素直に従って目を閉じた。一体何が始まるんだろう。
視覚を塞いだために制服越しに背中を預ける鉄骨の冷たさをはっきりと感じていると、左手に温かいものが絡みついてきた。ビクッとしたけど、これは先輩の右手かなと想像する。
「……んっ」
顔に吐息がかかるのを感じ、次の瞬間口の真横に滅茶苦茶柔らかいものが触れたことに驚き、つい目を開けてしまった。
「ん!? んーんー!」
口は塞がっていないから喋ろうと思えば喋れた。けど下手に口を動かしたら、先輩の唇に触れてしまうと萎縮してしまい、口を固く結んだまま喉を鳴らして驚きを伝えるしかなかった。
左手を握ってくれている手よりも更に柔らかくて温かい唇。これってキス……なのか。
俺の視界いっぱいに、目を閉じて集中している先輩の顔が飛び込んでくる。
「んん……」
俺がうるさかったのが気になったのか、少し顔を強く押し付けてくる。はい、黙ります。黙りますけど、俺は先輩の顔から目を背けることを忘れて見入ってしまっていた。
唇を通して全身が熱くなってくるのを感じる。それはドキドキで体温が上がったのもあるけど、それとは別のものが流れ込んできているためでもある。
右手で触れられた時に感じた温もりをより鮮明にした感覚。これが先輩の治癒の力なのか。
やがて体を青白い光が包んでくる。人の輪に流れたものと同じ光だ。その光は全身に駆け巡ったあと、しばらくして収束していった。その間も先輩の唇は俺の顔に触れっぱなしだった。
「…………はぁ。ふう」
唇を離した先輩の顔が視界から遠ざかった。あ、目が合った。
「い」
「……い?」
見る見る先輩の顔は赤くなっていった。
「いぎゃあああああ!」
「ぶぎゅうぁ!?」
バチコーン、と左右から平手を叩きつけられ、俺の顔は見事に潰れた。
「目は閉じててって言ったじゃん! 超恥ずかしい!」
「ずびばぜん……」
縦に潰れて上手く話せない唇を何とか動かして謝った。
「男の子にやるのは慣れてないんだからね! それもこれも草太くんがちゃんと回復しないから……」
ん? 男子にするのはって。
「先輩もしかして女の子には」
バチコーン。
「……しのみやへんはいひは」
バチコーン。
「…………ずび」
バチコーン。
「………………」
バチコーン。
もう最後は何も口にしてないのに流れで叩かれてしまった感がある。
いつの間にかこちらを向いていた四之宮先輩の顔は笑いを堪えてるのか、辛そうに歪んでいる。あの人だけ俺たちの様子を見て楽しんでいたのか。
「先輩、悪趣味っすよ……」
「ごめんなさいね……お付き合いしたことのない彼女がどんな口吻をするのか気になっちゃって。そっかあ口の横かあ」
ニヤニヤと何がそんなに面白いんですか。音無先輩ほどじゃないけど俺だって恥ずかしい。
「仕方ないでしょ! 本当は口にするんだけど、そんなことしたら中園さんとか柏木さんに怒られちゃうじゃん!」
「ええ!? なんでここで二人の名前が!?」
「だって草太くんはあの二人のどっちかのことが好」
「違います! 二人とはたまたま昼食一緒にとっただけの仲ですって!」
て、先輩に言い訳してる場合じゃなかった。
「そうだ、委員長!」
慌てて立ち上がると俺のせいで大怪我をしてしまっていた彼女のもとへ駆けつけた。
目を閉じて寝ている、気を失っているのだろうその顔色は、噛まれて蒼白だった時とは打って変わって血色のいいものとなっていた。右手の平には乾いた血がべっとりと付いていたけど、傷は消え去っている。
「良かった……本当に良かった」
両手で包んだ委員長の右手を額に当てて心の底からそう言葉にした。
委員長のちっちゃくて柔らかい手に俺のせいで傷がついてしまうだなんてあっちゃならない。こんなことに巻き込んでおいて今更かもしれないけど、普通の女の子をこんな目に合わせちゃいけないってことは分かる。
「……ねえ、先輩」
俺は委員長の手を握りしめたまま、背後にいる先輩たちに問いかけた。
「俺って、普通の人とは違うんですかね……」
普通の委員長が巻き込まれたのは俺が普通じゃないせいで、普通じゃない先輩たちが助けてくれて。本当に普通じゃないのかな。普通じゃないから狙われて普通の委員長が傷ついて。
普通って何だろうな、もう分からなくなりそうだ。
「……確証はないけど」
「自覚がないっていうのが判断の難しいところね」
自分で自分のことさえ分かってないのに、そのせいで人を巻き込んでしまった。四之宮先輩は謝る必要のないことだと言っていたけど、やはり悔やんで、謝罪したい気持ちで一杯だ。
「とりあえず、あたしん家に戻ろう。ちょっと草臥れた……」
「先にここにいる人たちのことを病院に知らせるわ。相沢くんも今後のことが気になるでしょうけど、一先ず帰りましょう。いいわね?」
「……はい」
心残りを感じながら委員長の手をそっと離し、その場を後にする。委員長にメロン先生、他にも多くの人が犠牲になったけど、先輩たちのおかげで命に別状はないのが何よりの救いだ。
体操着姿に戻った音無先輩と並んで工場の敷地から出た時、背後では四之宮先輩が携帯電話で病院に連絡を取っていた。
「ふあ……」
隣では先輩が大欠伸している。本当に草臥れたんだろう、あんだけ大勢の人を助けて、敵を退けたんだから。
「ん? ああ、やっぱ自分のことが気になるよね」
先輩の顔を見ていたら、なんだかそういう風に勘違いされたみたいだ。けど自分が先輩たちと同じスペシャライザーって呼ばれる存在なのか、気になると言われればその通りだ。
「自分では変わった気がしないですけど、やっぱそれって特別で異常なことなんですか?」
欠伸を繰り返す先輩に訊ねると、
「ん……君が今後どうするかはあたしらも考えてるところでもあるし、また明日話しましょ」
目をこすりながらフワフワとした調子で答えられた。尋常じゃなくお疲れの様子の先輩のペースに合わせ、俺たち三人はゆっくりと先輩の家へと向かった。
――――――
家へ着いた途端、先輩はリビングのソファに飛び込んでそのまま寝入ってしまった。
「んぐぅ……すぴぃ……」
寝付きがいいというレベルを越えた睡眠導入のスピードに呆気に取られてしまった。
「風邪引いても知らないわよ」
と言いながら持ってきたタオルケットを掛ける四之宮先輩はまるで母親のように見えた。
「音無先輩って戦った後はこうなんですか?」
「ううん。今回は特別よ。この数日で君に大量のエナジーを二回も与えたんですもの」
「俺が原因で?」
「君の唇を奪ったでしょ? あれって彼女がプールしてる力の大半を使うとっても強力な回復魔法なの」
「唇じゃないです!」
「あらそうだったかしら? 残念だったわね」
「ええ。どうせならほっぺなんかじゃなくて……何ですかもう!」
からかわれてるのがはっきりと分かって怒ってみせたけど、俺の怒りなんかつかみ所のない先輩の前じゃ暖簾に腕押しだ。
「とにかく今のアヤメは消費した力の回復に努めるためによく寝るようになるから、それは承知しててね」
「はい、分かりました」
音無先輩をソファに置いたまま、俺と四之宮先輩は昨日と同じくリビングに寝床を構えた。家主の了承も得ずに他の部屋を借りるのは憚られたのだ。
「――そう、あたしと別れた後にそんなことがあったのね」
眠りにつく前に俺と先輩は寝巻き姿で布団の上に陣取り、今日あったことについて話をしていた。主に俺が一人で行動してしまった時のことである。
また謝りそうになったが、謝罪することではないと言ってくれたのを思い出しグッと堪える。
「人質をとってアヤメの声まで使ってくるだなんて、よっぽど君のことが気がかりだったようね」
「俺の力……って言っていいのかまだ分かんないですけど、とにかくその特性って、あんまり役立つようなものじゃなさそうなのに」
「どうしてそう思うの?」
「だって先輩みたいにすっごいパワーが身に付いたわけじゃないですし、それと比べると地味な感じがして」
先輩はクスリと笑って目を細めた。
「確かに男の子だからああいうのに憧れちゃうのもあるでしょうね。けど戦うしか能のないあたし達からすれば、魔法に影響を受けないで済む君の方が羨ましくもあるのよ」
「……戦わないで普通の生活を送りたいってことですか?」
「今はもう慣れたし既に生活の一部になっているけど、時折辛く感じるときも無きにしも非ずってところね」
先輩たちは先輩たちで、人には理解できない苦悩を抱くこともあったのかもしれない。もしかして、俺もそういう立場に立つことになるのだろうか。
「さ、いくらアヤメのおかげで体調は万全と言っても精神的に疲れたでしょうし、早く休みましょう」
「そうですね……今日はぐっすり寝れそうです」
「でもお昼には三人で出掛けるわよ」
「へ? 一体どこへ……?」
「君のご両親に説明した通りボランティア倶楽部としてあるお店のお手伝い、と言いたいところだけど、残念ながら活動はなし。代わりにそのお店の店長さんに、君のことを相談しに、ね」
どうやらのんびり休んでとはいかないようだ。先輩たちに連れられて外出……少し心がウキウキしていた。
――――――
その夜、誰もいなくなった廃工場に二つの影が蠢いていた。
天井に穿たれた穴から差し込む月明かりが照らし出すのは、羽毛の美しい羽を背にたたんだ女と頑強な岩の体をした者の姿だった。
「……」
女は天を見上げ、地を見下ろす。夜空が覗く穴と同等の大きさのものが工場二階の床に穿たれ、階下に瓦礫の山を築いている。
「残念であったな、手を貸したようだが」
「別に。あいつの遭遇したスペシャライザーの姿をこの目で見ておきたかっただけ。そのついでだ」
ここで行われた戦闘がどの程度のものだったのか把握するため、工場に刻まれた交戦の跡をつぶさに見て回る。
「しかし随分と一方的な様子じゃないか。自信があるようだったが相手の力量を見極められないクズだったな」
女は目を細め、男の声を発する者に顔を向けた。
「お前はどうだ?」
「問題ない」
「大戦を生き残った猛者に勝てるか」
「望むところだ」
「それは自信か、無謀のどちらかな」
「どちらでもない」
男の口調はこれまでと変わらず落ち着いたものだったが、僅かに高揚しているのを隠しきれていなかった。
「強者と拳を交わせることへの喜悦しかありはしない」
「戦闘狂め」
二人の会話が月下にささめく。相沢草太の物語はまだ終わらない。