影の潜入
扉を爆破し、迷宮を野生の獣のように駆け抜け、地下層を脱した。
「……うん?」
魔製道具研究センター一階のエントランスを抜けた時、受付嬢が不意に頬を撫でた一陣の風を疑問に感じたが、その目には何も映ることはなかった。
外は既に夕暮れ。身を隠すにはうってつけの薄暗さであると、目にも留まらぬ疾さで駆けるヒサは考えた。
あの場にスペシャライザーがいたことは想定外であった。そもそも魔道研に所属しているスペシャライザーは九条玲奈のみのはずである。他のスペシャライザーがいるはずはないのだ。
仮にいたとしても、それはマガツ機関に所属する者でなければならない。ヒサが目撃した少女は、その内の誰でもない。初めて見る者であった。
あれが何者かは分からない。あるいは主なら知っているかもしれないが、自分が潜入したことが露見してしまった以上、今すぐに主の元へと戻るわけにはいかなくなっていた。
自分と主の関係まで暴かれてしまうことはどうしても避けなくてはならない。そのためには主から距離を置き、しばらく身を潜めるべきだと判断した。自分と主をつなぐ証拠はない。一緒にいるところを抑えられることが、一番まずいのだ。
人工島の端まで辿り着いた時、ヒサはナイフを逆手にして両手に持ち、振り返って身構えた。彼女の背後は切り立っており、十数メートル下では海面が波打っている。
センターから飛び出した時に追われている気配はなく、最奥で見かけた少女が追いかけてきてはいないはず。代わりに外へ出てからしばらくして、二つの気配がヒサを追い回していた。それに気付きながらここまで逃げてきた理由は二つ。
一つは人目のある場所で立ち止まることができなかったため。自分の姿をマガツ機関で働く者に見せるわけにはいかないし、何より戦闘に巻き込んでしまう恐れもあった。それは主の望むべき事態ではない。
「……来るか」
左右から同時、見事に息の合った攻撃が迫り来る。乱れのない剣閃は、それ故に読み易い。
ナイフを巧みに使い左右の剣戟を受け止め、追手の顔を捉えた時、かすかに動揺した。
「同じ顔……」
地下で見た少女とそっくりそのままの顔が二つ。あの場で本能が警鐘を鳴らした不敵な威圧感はなく、別人であることが窺い知れた。
マガツ機関に三つ子のスペシャライザーがいるとは、やはり聞いたことがなかった。
一瞬の心の乱れを見透かしたのか定かではないが、同じ顔の追手は迷うことなく追撃を仕掛けてくる。
踊るように繰り出される二つの剣は、出来のいいお遊戯のように規則正しいリズムを刻み、降りかかってくる。何とも防ぎやすい攻撃であり、反撃に転じる隙のない見事な連携であった。
二人は踊り、一人は踊らされている。今は全ての剣を完璧にいなしてはいるが、いつまでも続けば数で劣るヒサが不利である。
迷うことなく後ろへ飛び退いた。そこは既に洋上。大地はない。
ここまで逃れてきた二つ目の理由はいつでも海中に退避するできるようにするためだった。
海面へぶつかる寸前のヒサの目に、二つの同じ顔が人工島からこちらを見下ろす光景が焼きついた。
主に危険が及ぶことはないはずだが、確証もなく主を追い詰めることはあり得るかもしれなかった。もし憶測で主に危害を加える事があってみろ。その時は貴様ら全員、
「……必ず殺す」
呪詛のように呟きながら、水飛沫を上げて海中に没しマガツ機関が占有する土地から、ヒサは逃れた。
それから数日間のヒサは何も行動を起こさなかった。起こせなかったとも言える。
あの後、人工島から少し離れた浜辺に上陸したヒサが目指したのは、地下施設で研究員が宇多川に告げた約束の地であった。約束の時が来るまで、そこを静かに監視するつもりであった。
そこはマガツ機関がある参守町より遥か西方にある山中。巧みに偽装してあるが、そこに怪しげな入り口があることをヒサは見抜いていた。
山肌と同化しており固く閉ざされている。約束の時が来るまでそこが開かれることはないだろう。そしてその時間は刻一刻と近付いてきている。
ここで監視を続ける間、何もせずに待ち続けることは苦痛であった。ここまで得た情報を伝える術がなかったわけではない。最低限の情報伝達端末を扱うだけの知識はあった。だがそれを使っての情報のやりとりは絶対にしないようにと命じられていた。どんなにセキュリティの高い電子通信手段を講じたところで、必ず破られて漏洩するからだそうだ。
それ以外の情報伝達手段としてヒサが使えるのは伝書鳩による紙媒体の通信である。ヒサにはそちらの方が扱いやすいし、今行えるならそれしかないと判断していた。
だが、安易にそれを行うには懸念しなければならない事柄があった。
魔道研に所属しているスペシャライザー、飛甲翔女レヴァテイン・カスタム、本名九条玲奈。
ヒサの脳裏には、あの状況では彼女が何らかの調整を受けているのではないかという疑念があった。
そして彼女は鳩を己の使いとして使っていたという報告を受けていた。もしも自分が伝書鳩を飛ばしたとして、九条玲奈が鳩を差し向けてきたとしたら。
その鳩に戦闘力があるという情報はないが、万が一にも互いの鳩が戦い合うことになり、伝書鳩に託した情報が奪われる、喪失するなどという事態になったらと考えると、安易に鳩を飛ばすわけにはいかなかった。
詰まるところ、やはりヒサにはこちらから起こせる行動などなかったのだ。なのであの日からずっと、黙ってこの地を監視し続けるしかできなかった。
森に生い茂る木々の一つ、完全に気配を絶って葉の隙間から遠方の偽装地点を監視していたヒサの目が、この数日で初めて動く人の姿を捉えた。
ヒサの動悸が早くなる。現れたのは、魔道研の地下で見た灰色の少女だったからだ。
あれは本人だ。追撃してきた二人にはない静かな不気味さを漂わせているのを鋭敏に察した。
山肌の偽装は解かれ、少女はスタスタと斜面に口を開けた穴の中へと入っていく。こちらに気付かなかったのは、地下で見られた時とは比べ物にならない距離を開けていたおかげか。それとも気付いて尚、こちらの存在など問題ではないと判断したのか。
いずれにせよここで手をこまねいているわけにはいかなかった。折角開いた入り口が閉じられてしまえば、潜入する機会はなくなるだろう。
先に入った者に気付かれぬよう細心の注意を払いつつ侵入した場所。読唇した研究員は黒十字結社と言っていたか。
マガツ機関の施設とはまるで違う。正反対である。通路は暗く、ジメジメとして息苦しくある。
通路の角をいくつも曲がるが、灰色の少女の姿はない。離れすぎてしまったようだ。だが代わりに、いくつもの気配がある。今進んでいる通路の先、この角を曲がったところにも。
角からそっと先の様子を覗き、すぐに顔を引いた。
異形の怪物が闊歩していた。
成る程。ああいう者を従える組織か。コソコソとあの少女を送り込むとは、碌なことは考えていないはず。
まだ詳しく探るべきである。この黒十字結社と魔道研が何を企んでいるのかを。
ヒサは更に秘密の建造物の奥へと向かった。途中にいる人間や怪物、ロボットに遭遇せぬよう慎重に。
進む程に通路の闇は濃く深くなる。灰色の少女も闇の奥へ向かったかもしれないとの予想に従い、更に更に奥へと進む。




