魔法少女と蜘蛛
「あの」
「ヒィィッ!」
背後からいきなり声をかけられたせいで、引き締めた気はあっさり霧散して四之宮先輩の肩にしがみついていた。
「す、すいません!」
怯える俺に謝罪を述べてきたのは、今話しかけてきたであろう小さな男の子だった。いつからそこにいたのか、どうしてここにいたのか分からないが、一見して外国人と思ったのは金髪碧眼に加えて西洋貴族を思わせるフリルをあしらったシャツや膝下までしか丈のないズボンなど、およそ現代には場違いな格好をしているためだ。
場違いな異常。
「お、お前がこの館で人を襲ってる犯人か!」
右手は先輩の肩を掴んだまま、左手で子どもを指さして問い詰めた。
「唾が飛んでるわよ……」
俺が怪しい奴を警戒してるというのに、先輩はそんなどうでもいい苦情を言ってくる。
「かかっちゃったならすいませんけど……けど、けどあれ!」
それでも俺は目の前に現れた異常事態を訴える。子どもにビビりすぎだと思われるかもしれないが、こんな格好のガキがこの幻覚に包まれた館にいることはおかしいのだ。
指を突きつけた相手は俺たちから少し離れた場所から動かず、寧ろそいつも俺たちに怯えたようなオドオドしたような印象を抱かせた。
「……貴方たちには僕が見えるんですか?」
俺の問いかけには答えず、逆に少年が俺たちに訊ねてきた。不安そうに見上げてくるその瞳には、人を襲うような敵意は宿っていないような、そんな気がしてしまった。
「ええ。よく見えてるわよ」
銀縁眼鏡を指でクイッと押し上げて答える四之宮先輩の前に、音無先輩が歩み出た。
「君がこの館の主? 彼が言ったように君が人を襲ったの?」
先輩の声は優しく、少年を落ち着かせるような柔らかな口調だった。先輩たちはあの子に対して警戒心を抱いていないんじゃないかと思うと、不思議と俺も警戒心が薄れてきた。脅威ではない、と感じているのだろうか。
少年は首を左右に振り、訴えかけるように声を振り絞ってきた。
「早く逃げてください! 今なら間に合います!」
噂にあったような誰かを傷付けるような様子ではなく、逆に助けようとしている気がした。俺たち三人は顔を見合わせて、話に齟齬があることに首を捻った。
「要領を得ないわね。あたし達は何から逃げればいいのかしら」
「それに入ってきた扉はがっちり閉ざされてるしよぉ。逃げようがないぜ」
四之宮先輩と俺が口々に言うと、少年は背を向けて扉の方へと駈け出した。
「今開けます。とにかく早」
言葉を残して少年の姿が俺の視界から消えた。それはとてつもない速さで横に吹き飛ばされたからだ。
え、と思って顔を右に向けると、少年は壁に貼り付けられていた。その体は糸の束に絡め取られ、身動きが全くできないようだった。
「チィッ!」
音無先輩が動く直前、彼女もまた俺たちの傍から姿を消した。少年のすぐ隣で両の手首を縫い止められ、歯噛みしている姿がそこにあった。
それはまるで標本にされたようであり、何が起きたのか把握できずに呆然と思考が停止していた。
「随分なご挨拶ね。客人は丁寧におもてなしなさいな」
俺とは違い、四之宮先輩は状況を理解していたらしい。余裕ぶるように左手を上げてオモテナシを強調して言う先には、エントランスホール横の扉のところにスーツ姿の女性がいつの間にか立っていた。
「わっ、美人」
思わず本音を漏らすと四之宮先輩に呆れるような溜め息を吐かれてしまった。けど無意識にそう口走ってしまうほど妖艶な美しさがあった。
長い黒髪に切れ長な瞳。スーツはタイトでむちむちのズボン。ヒールを履いてスタイルも綺麗に見える。
大人の女性の色香を感じさせるが、そのせいでふと嫌な予感がした。
「逆だな。もてなすのはお前たちの方だ」
言葉を発した女の口が左右に開いた。バキンと裂けた口の上には四つの複眼が生まれ、その背からは四対の虫の足が生え女の体を持ち上げた。スーツは破れ体から剥がれ落ちたが、その姿にエロスを感じることは全くなかった。
「……前言撤回」
「なるほど。館の幻覚で人を惑わせ絡め取って食事をしていたようね。さながら蜘蛛の巣のように。男の子にはあの容姿も効果的みたいだったけど」
先輩の言う通り、女の体は大きく変容して巨大な蜘蛛の化物になっていた。
「ああ……また人が襲われる……」
少年の嘆く声。表情は悲痛の色に染まっている。
「くっ、早くこれ取って!」
音無先輩が体を捩らせるが、手首を覆う蜘蛛の糸はビクともしていない。左手にはスマートフォンが握られたままだが、あれじゃ変身するために腰に当てることができない。
「無駄だ! すぐにこの二人も捕らえてやる!」
俺が動くよりも早く、蜘蛛女が口から糸を飛ばしてくる。
「尻から出すんじゃないのかよ!」
普通、蜘蛛の糸と言えば腹の後部から出して巣を作るもんだろ。常識の通じない非常識な糸の飛来を、四之宮先輩の後ろで隠れるように待つしかなかった。
このまま二人揃って標本のようにあの壁に貼り付けられるのか。いや、標本ではなく蜘蛛の巣に捕らえられた餌としてか。
目を閉じてその瞬間が来るのを覚悟したが、糸から俺を守ったのは四之宮先輩の左手だった。
振り上げられた指に挟まれていたのはカード……トランプだ。
「順番を誤ったわね。マジシャンにタネを仕込む暇を与えたら駄目よ。目に見える脅威を優先した浅はかさを恨むことね」
そのトランプはハートのエース。オモテナシを告げた時には既に仕込んであったのだ、変身のための布石を。
「カリン! 勝手に変身なんて認めないわよ!」
「それはあたしも餌になれって言ってるのかしら?」
音無先輩は口を噤んだ。今から先輩を助けるような隙を蜘蛛女が与えてくれるはずもない。四之宮先輩が相対する選択肢しか、俺にも思い浮かばない。
「それに試すんでしょ。変身したあたしに相沢くんの力がどう作用するのか」
そういえば以前、部室でその話をしたことがあった。いつでも自在に魔法少女に変身できる音無先輩と違い、トランプがその時だと認めないと変身の手順が踏めない四之宮先輩。今がその時だというなら、それを試す絶好の機会。
「アヤメを頼んだわよ」
「はい!」
俺は四之宮先輩から離れ、音無先輩が貼り付けられている壁へと駈け出した。その瞬間、俺のもとに影が差した。見上げた先には八脚の化物が跳躍し、俺の上へと。
「うぎゃあああ!!」
気色悪い腹を見せつけながら襲い掛かってきやがった。走りながら悲鳴を上げた俺を助けたのは、またしても四之宮先輩であった。
彼女の体から立ち上った火柱が、俺と蜘蛛の間を裂いた。
「また相手が違うわよ。ショーの準備を整えたマジシャンから目をそらすなんて、学習できないのかしら」
「貴っ様あ……」
空中で不可思議な軌道を描いて飛び退いた蜘蛛女が、これまた空中の何もない空間で静止する。
先輩の巻き起こした炎に照らされて見えたのは、天井に張り巡らされた蜘蛛の巣と、今しがた先輩の威嚇を回避するために尻から出した糸を切るところだった。
「尻からも出るんじゃねえか……」
いんちき臭いと思いながら、音無先輩のところへ急いだ。
「早く早く! これ取って!」
「分かりました!」
先輩が取れない拘束を俺が取れるか疑問であるが、精一杯頑張らせてもらおう。
俺たちの背後では、魔法少女と化け蜘蛛の戦いの火蓋が切って落とされるところであった。




