王の洗礼
それから数日はこれといった問題もなく順調に境回世界で過ごすことができた。
聖は明と行動を共にして音央の課した言いつけを守りながら、この世界に棲まう数々のモンスターに力を示していった。
相手が敗北を認めた時点でネオの所持するコレクトブックに逐一送られるので命に関わることもなく気兼ねなしに戦いを挑むことができるし、そもそも一癖二癖ある相手が多いので手を抜くことなど毛頭できないのだが……それこそ二人の臨むものであった。
気が付けばあっという間に六度の夜をこの地で越し、約束の七日目となっていた。その間に成したことはといえば、大森林の地とそこに隣接する荘厳なる大河、そして河の上流に位置する静穏満ちる湖畔に棲まうモノを片っ端から殴り飛ばしてネオのコレクトブックに送ったことである。
今日も日が落ち始めたところで、まだまだ湖畔に棲息するモンスターに会いに行こうとする明を聖が止めた。
「そろそろ戻ろう」
「もうか?」
物足りないのだろう、不服そうな声が返ってくる。聖も続けられることなら続けていたいが、最終日だからこそきちっとしなければ少女を悲しませることになる。
「今回はここまでだ」
明は気持ちを切り替えるためか目を閉じて一息つくと、納得して踵を返してくれた。
境回世界で過ごした日々は有益なものだった。己の力量と限界、二人で同時に戦闘した際の問題点などが改めて浮き彫りになった(問題点が改善したわけではない)。
帰路につく間に今日までの体験で培った経験を思い返しては至らなかった点を反省し、拠点に辿り着いたら聖と明は二人で組手を行い一日の締めとする。
最終日もそのルーチンを行うつもりであったが、その前にロッジの外で一人鍛錬に励む少女の背に聖の声がかけられた。
「ただいま」
しかしながらネオにしては珍しく人の声を無視する格好となった。反応が返ってこないのだ。
歩み寄る二人はすぐに足を止めた。トゥインクルバトンを青眼に構えて集中するネオから発せられる雰囲気に若干気圧されたからである。
この数日も二人が帰ってくる毎にネオも一人こうして過ごしていたが、最終日だからなのか今日はいつもと違っていた。
「――」
そして一節呟いた後に虚空へ円陣を三つ描き、同じ数の召喚獣を呼び出した。
相棒と呼ぶに相応しい龍族のコドラ。
森林を統べる深緑の女帝茨の女王。
そして二人が初日に力を合わせて退治した神出鬼没の死神グリムリーパー。
「話が違うぞ」
明が聖に耳打ちするのも無理からぬ事だった。聖も初めて目にしたのだ、ネオが同時に三体を召喚している場面を。
聞いた話では二体が上限だと伺っていたし、実際にこれまではその通りだった。
つまりはこの短期間で召喚の上限を引き上げたということか。
「彼女も自分の力を磨いていたんだよ」
そう囁き返したところで、ようやくネオも二人の帰還に気が付いた。
「お帰りなさい! ちゃんと今日まで守ってくれましたね!」
「当然だ」
戻る時間を初日以外は遵守してきたことを嬉しく思い、ネオはパアッと表情を明るくして駆け寄ってきた。
心なしか誇らしげに答える明の姿に、どの口で言っているんだかと胸中で聖の呟きが木霊した。
「鈴白さんもお疲れ様……大分一人で頑張っていたようだけど」
この一週間、少女がどのような修練をしているか仔細を訊くことはなかったが、今日で終わりということで自然と口をついて出ていた。
「はい。お二人の協力のおかげですけれど、ようやく一度に三つの陣を出せるようになりました」
「そっか」
「えへへ……正確には、これまでも三つ出すことはできたんですけれど、一つはリザーブとして使わないようにしていたんです」
一つを使わないことで、既に召喚しているモンスターの数を減らすことなく即時入れ替えできるための措置であると教えてもらうことになった。
「つまり今は、正確には四つ陣を同時に描けるんだね」
「はい! それもこれも、お二人がいろんな子をわたしに届けてくれたおかげです」
ありがとうございます。
ぺこりと頭を下げられた。コレクトブックへの登録数等に応じてネオの能力は増していく。今回の聖と明の活躍で召喚の上限が上昇したことに対しての礼であったが、頭を下げたいのは聖の方もであった。
「こちらこそ。君のおかげで充実した時間を過ごせました」
会釈を返す聖が明に目配せし、ようやくそちらも頭を小さく下げた。
「もう帰るのか」
さっさと済ませたいからか、すぐに頭を上げた明がネオに訊ねる。
「組手は?」
聖の問いに明はプイと顔を背ける。そんなに頭を下げるのを遠慮したかったのかと思ってしまう。まあいっかと考えていたところ、どうするか訊かれていたネオの返答が返ってくる。
「それでは少し休んでから戻りましょう……お風呂もいいです……? あ、はい……」
最後にまたお風呂かと顔を見合わせる聖と明だったが、言葉の終わりに妙な歯切れの悪さに違和感を抱いた。
「えっと……最後にお二人にはわたしと戦ってもらいます」
突然の宣告に面食らう二人に向け、ネオはおずおずと言葉を続ける。
「すみません、そうした方がいいだろうってお告げがありまして……」
「お告げって」
「怪我をする前に止めておけ」
急な事態に乗り気になるはずもない二人は当然渋るのだが、
「だってやらないと帰さないって意地悪言ってくるんですもん……あ、でもでも安心してください!」
そう言ってバトンを振るうと、背後にいた三体の使役獣は姿を消し、新たに三つの陣を空中に描き出す。
「ちゃんと公平に二対二にしますから!」
陣の一つを背負ったネオは舞い上がり、その背から天使の羽を広げて空中へ留まった。
聖と明の前には未だ二つの魔法陣が光り輝いているのだが、それよりなにより直前のネオの台詞にぴくりと眉間を寄せていた。
「二対二だと?」
「冗談でもそんなことは言わないでくれよ」
それじゃあまるで。
「まるで――自分たちが見下されているよう、か」
不意に変わる少女の口調。横たえたバトンに腰かけて足を組むネオの視線は、二人を値踏みするように射抜いていた。
「気を悪くするな。単純に公平な闘争を見てみたいというだけだ。最も、我らが負けを喫すつもりも毛頭ないが」
アレは何者だという疑念が二人の胸中に渦巻く。強大、という陳腐な台詞では現せぬ底知れぬ圧に、自然とその手にデバイスが握られていた。
「おい」
「分からない。けど」
理解っている。尋常ならざる気配を発し薄く嗤うアレが冗談を言っているわけではないと。
「善し善しそうでなくては。小僧は愉快であったが、やはり滾るのは貴公らのような闘士よ」
地上に展開する二つの陣がこれまでになく輝く。過剰に迸る魔力が陣を紅に染めていく。
「くるぞ!」
「分かってる!」
デバイスの装着変身と同時に、夕紅の電雷とともに現出した召喚獣が姿を現す。
「これは」
「何だ!?」
身構える二人の目に飛び込んできたのは見たことのない魔物だった。
翠色隻眼の黒い毛並みの巨大な狼。
口元が三日月に裂けた仮面を貼りつける道化師。
二体が現出する余波で、一帯の空気に激しい衝撃が伝播する。
吹き飛ばされかねないところを堪えるエストルガーとアステリオーに追い打ちをかけるように獣たちが襲いかかる。
狼の巨躯はエストルガーを弾き飛ばし、道化師の放つ空刃はアステリオーの鎧装を容易く斬り裂く。
出会い頭の刹那の邂逅において、推し量れぬ底深さを感じ取った二人の背筋を冷や汗が伝った。
二人は言葉を交わすことなく、しかし想うことは同じであった。
本気で抗わなければたちまちやられてしまう。
戦士たちの鎧を紫電が駆ける。
エストルガーの白鎧の表面にはデバイスから迸る真紅のラインが迸り、特徴ある額の一角からは余剰に発せられた力がフレアとなって放される。
アステリオーの黒鎧にも蒼穹色の輝きが駆け巡り、仮面顎部から左右に天突く双牙から粒子が舞い上がる。
「そう。それでいい戦士たちよ」
眼下の光景を見下ろす少女の体を借る者はその小さな手の爪に口付けていく。
久々に意識を憑かせたその身の隅々まで愉しむ素振りは少女らしからぬ妖艶さを醸していた。ほんの僅か、十の指先を舐め回したところで、
「おや」
目下の景色は緑が失われ、焦土と化した平地が拡がっていた。一分にも満たぬ余所見の隙に、状況は決着へと追い込まれていた。
「……期待外れか?」
肩透かしを喰らったかのように吐き捨てる少女はゆっくりと焦がれた地表へ降り立つと闘気滾る二つの下僕を片手で制し待機させた。
軽やかに歩む先には鎧のあちこちをずたずたにされた二人が身動ぎ一つせず転がっている。
「まだ善戦するだろうと思っていたが、よもや買いかぶりすぎたか。我が眼曇るは寄る年波か」
落胆と侮蔑と悔悟の入り交じる複雑な声色の少女は、未だ立ち上がることのできぬ二人に向けてまるで寓話を語るように話し始める。
「……少し話をしよう。肢体が動くようになるまでの時間稼ぎにするといい」
二人の耳に届いていないのか反応はなく判然としないままであるが、少女の口は構わず語りを続けた。
「幾つ星が巡ったか数え忘れる程昔、此奴が一人の小僧を連れてきたことがあった。その後に機械仕掛けの悪魔も連れ立ってきたことがあったが、我に逢わせたのは初めの一度きりだ」
あの時に思いを馳せる少女は優しい語り口をしていた。
「悠久の刻を閉じた世界で過ごしていると些細な出来事すら鮮烈に記憶してしまうものだな。しかしながら外の事変に無知というわけではない。時折ネオの夢を通じては新鮮な知を得ている」
最近すまほを手に入れたそうだという本筋に全く無縁の話は笑い話のはずなのだが、それに嗤うは語る本人だけである。
「初めて小僧を目にして見抜いた。稀な異能を手にしている……と。魔術式の分解構築……それ自体に真新しさはないが、無意識下で行われている点が唆られた」
講釈を垂れる教師のように身振りを交えて語り継ぐ。
「だがそれは誤りであった……やはりこの眼には悲しきかな曇りがあったと見える。夢を介し知り得た事象、それを鑑み導きし推察は」
得意気に話していたかと思いきや、急に言葉を切って黙りこくった挙句に、
「つまらん。教えてやらん」
と勝手に話題を切り上げてしまった。無論それに異を唱える者もいないのだから仕方ない。
「ったく。独り語りがこうもつまらんとは。小僧を誘惑していた時の方が比較にならんほど愉快だった」
ヒクッ。
「久々に男と言葉を交わしたせいか、またはこの体が反応を示したか。幻獣奏者の潮流に籠絡するのも悪くないと思ったものだが……」
肩を竦める仕草とともに、威厳を多少込めていた声色も次第に砕けていた。
「……思った事といえば貴様らのこともだ。ただの脆弱な人間に過ぎぬ小僧を守るのはこの二人だろうと感じたが、これが実力なら毛頭無理というものだ」
ヒクヒクッ。
「無難にあの二者に託しても構わんが、それもつまらん。あれらは完成されすぎている……故に退屈極まりない。託すならば未熟で荒削りで青臭い二人がより愉しませてくれると思いはしたが」
完成された二人と未熟な二人とは誰を対比させているのか、論ずるまでもなく明白だった。
「所詮この地で用意した狼と道化にすら及ばぬ雑魚に彼奴も守られたくなかろう。身の丈に応じた仕事、小僧の子守でも任せるのが最善といったところか」
語り終えた少女は、待ちくたびれて激しくじゃれ合う二体の従魔へと近付いた。役目を終えた獣を帰還の陣に戻すところだったが、そうはならなかった。
背後で起こる気配を察し、静かに笑みを貼りつけた。
「……話は、もう終わりか」
「だったら……もう少し付き合ってもらおうか」
砕けかけた肉体を奮起させ立ち上がる二人は一見すれば満身創痍に違いないが、闘志は萎えていなかった。
「下らんことをうだうだ語りやがる」
「勝手に吹っかけてきておいて勝手に失望して……正直すごく腹が立つ」
二人から向けられる殺気は心地よいものとして少女の肌を奮わせた。
「その意気や善し。されど気迫のみで打開できる状況ではなかろう」
その言葉に、二人は気持ちが萎えるどころか口を揃えて切り返した。
「「なめるな」」
大地を揺るがす低い唸りが木霊する。気迫や気合でどうにかできるなど微塵も思ってはいない。追い込まれても尚二人が立ち上がるのは、ここで過ごした短い時間で掴みかけたものがあったからだ。
それが今、圧倒的な暴を前にしたこと、加えて勝手に下された自分たちへの裁定に対する不服。
境回世界で強敵を相手取り腕を磨き、しかし呆気なく蹴散らされた現況において。
「僕は」
ようやく。
「俺は」
ようやく。
「こんなところで」
二人は。
「貴様らなんぞに」
その努力を。
「「負けてたまるかッ!」」
実らせた。




