誰が一番? 本番
「みんなスタート位置についたわよ」
音無先輩、聖と明がスタートラインに一直線に並び、腰を落とした。その集中した眼差しは先のコースへと向けられている。
「それではスタートの笛は四之宮先輩に吹いてもらいましょう」
「じゃあ合図はお願い」
コホン。
もう位置についていますけど。
「位置について。からの…………ヨーイ」
――――ピィッ!
短い笛の音。同時に地を蹴る三者の健脚。巻き上がる盛大な土煙。
「フライングはありません! 直線を一気に……あぁっと見てください! あのスタートラインを!」
三人が蹴ったグラウンドはそこだけ抉れていた。
「初速から全開の見事なスタートね。出遅れがない分、自力の脚がモノを言うわよ」
「いえしかしほぼ横並び……いや違う、ジリジリと差がつき始めています! 疾風を起こし先陣を切っているのは音無先輩だ! それは胸の先ほどの差! ですが確実に差がついています!」
「長身でスライドが長い分有利なんでしょう。でもここからその差はなくなるわ」
「外周を走っているせいですね! 内側を走る二人の方がライン取りでは優勢か!? ここでトップでネットの海に潜水したのは……明! 続いて聖! 一番脚の速かった先輩はコース選択を誤ったかぁ!」
ネットの下でもぞもぞと蠢く三人の姿。網が邪魔で見えにくく、様子を伝えにくい。
「おっと……最初に潜った聖と最後に潜った先輩ですが……あまり進んでいないようですね。トラブルでしょうか」
「もっと目を凝らしなさい。貴方のメガネなら見通せるはずよ……あの中で何が起きているのか」
四之宮先輩が俺に期待してくれているのか。ならばそれに応えなくては。真希奈さん作のメガネよ、今こそ全力だ!
「…………あぁ! あれは、まさか!」
「見えたのね、相沢くん」
「引っかかっている! 網に、網に二人の胸が引っかかっているんだあ!」
ギャラリーの、特に男どもの声がどよめいた。俺も動揺した。だが間違いなく、あれは胸が取られている!
「二人の成長著しい二つの山が! 悪意ある土地開発という名の環境破壊に感化され絡め取られているぅ!」
「段々乗ってきたわね貴方」
「しかしこれはどういうことだ……どうして聖だけスムーズに森林伐採を潜り抜けられるのか」
「答えは……用意されたネットの網目の粗さにあるわ!」
「ッ!! あれは……すり抜けている! 聖の決して小さくはない胸だけは、環境破壊の魔の手から見逃されている!!」
周囲がまたざわめいた。何人かはこんな事もあろうかと用意していたのか双眼鏡を使って勝負を見守っている男子もいる。
「まさにあれは特定の女人だけを裁く現代の魔女裁判! 目を付けた者を逃すまいとする様は羞恥という公開処刑! 魔法少女はここで全て葬られてしまうのか! ……いいや違う! 能ある少女は胸を隠し、その魔手から見事に生還! その名は聖……一野聖がトップでクリアだ!」
一番に這い出してきた聖に惜しみない賞賛と声援が送られる。なんて美しい光景だ……本人は恥ずかしいのか俯き加減で頬を染めていた。
「胸を張れ聖! お前がナンバーワンだ!」
「ふふ……あの二人はまだ苦戦しているようね。いい気味だわ」
四之宮先輩の意地悪い言葉。自分より大きい彼女たちに向けた悪意をビンビンに感じます。
「先輩が出場してたらあそこだけは間違いなくトップ通過でしたね」
「……さて聖は既に平均台の前に差し掛かっています」
頭にたんこぶと目の周りに青あざを作る俺はなんとか気を失うことなく実況を続けた。
「勢いそのままに飛び乗って……おっと? 表情が変わりましたね……一歩も動きません」
ここまで順調に駆けてきた聖が平均台に両足をついた状態で固まってしまった。
「先輩、あそこに一体何を仕込んだんですか?」
「教えてあげましょう。聖くんが足を止めた理由は……コレよ」
先輩が差し出してきたのは透明の容器。ペットボトル程の大きさの中にはたぷたぷと液体が満ちている。
ハイと言いながら蓋を開けた容器を傾けてくるのですかさず両手を皿にして待ち構え……中身のそれが手に触れた瞬間理解した。
「こ、これは! 潤滑ゼリー! 触れた者の摩擦係数を限りなくゼロにするという魔法の液体! そういうことか! 聖は平均台に塗り込められたこいつの違和感に気付いて足を止めたのだった!」
こんなものが塗布されていては細い平均台の上を進むことは困難。
「勿論平均台を落ちてもそのまま進んでもらって一向に構わないのよ? 当人たちが気にしなければ」
「聖が逡巡している隙に! あの二人が続々とネットの包囲から抜け出してきたァ! 早く決断しなければ、折角つけたリードが水泡と帰すぞ、果たして!」
周囲からは滑べろ! 滑べろ! と、主に男子からの声援が送られている。
「こいつらは一体何を期待してるのか、私には皆目見当がつきません!」
「白々しい」
「しかしこれだけは言える! 行け聖! 張り巡らされた魔女の奸計を一番に退ければ、お前の実力は証明され…………あ、あああ! なんて……なんてことだ!」
ギャラリーもその光景に驚きを隠せないでいる。俺も、こんなことは初めて目にする。
「滑っている! 聖が滑っている!」
だがそれは、先刻まで俺と周囲が期待していた滑りとは異質のものだった。
「まさしくサーフィン! 波を従え大海を往くかの如く、聖が平均台の上を滑走しているぅッ!」
シャーッ。
波飛沫ならぬ潤滑飛沫を撒き散らしながら、聖は台の上を水平移動している。
「まさか敵となるトラップを逆手に取って味方につけるだなんて。彼の柔軟な対応力……なによりあのバランス感覚。一見簡単そうに見えるけれどあれは素人には真似できないわよ」
「これはこのまま聖の独走か! 明もようやく平均台に足を掛け続いて音無先輩がノンストップで駆け抜ける!? か、駆けている! ぬるぬるすべすべするはずの平均台の上をものともせず突っ走っているぞ!?」
これは一体どういうことだ。誰か、誰か俺に教えてくれ!
「むう……これは……」
「知っているのか、岡田!」
ギャラリー整理をしていた大野と岡田のコンビが、実況席の隣でこれみよがしに語り始めやがった。聞いてやろうじゃないか。
「音無先輩の足捌き……あれはかつて七つの大海原に名を轟かせたかの有名な中国は南洋の航海士・王楽天が編み出したとされる走法・素牌駆。航海の帰路にあった楽天の船が楼子恩の海で嵐に見舞われた際のこと。船は転覆し乗員は皆行方知れず。楽天もまた大自然の脅威の前に海に呑まれていくのを待つのみ。しかしてその時彼は楼子恩の独特の水質を利用して生き抜く術を思いついたのだ。硬水の水流と軟水の水流がぶつかる楼子恩の海のみが持つという粘水の波間に漂う船板の上に立つと、楽天は粘水の上を駆け出したのだ。右足が粘水の海へと沈む前に素早く左足を踏み出し、左足が沈む前に右足を踏み出す。この際足が楼子恩と触れる時間は千分の一秒以下である。そうして海の上を駆け抜けることで彼は一命をとりとめ、後世にその名を残す伝説上の人物となったのである。我々は今まさにローションの海を駆ける音無先輩に、中国の伝承にある秘中の秘である走法を見出しているのだ」
「すごい」
大野がすごいと言っているのは話の内容なのか、それともこの話を五秒で終わらせた岡田のことなのか。
「岡田。その話のソースは?」
「新民書房」
聞いたことのない出版社だ……。
「と、とにかく今の胡散臭い話が真実かどうかは置いておいて、音無先輩がぬめぬめ平均台の上を猛スピードで進んでいるのは紛れも無いリアルガチ! トリックではありません! 聖に追いつくのも時間の問題だがぁ、二人を見送る明は一体どうするのか!」
明はというと、平均台に右足を掛けた格好のまま動いていなかった。
「勝負を諦めたのか!? いや違う! あいつの目はまだ死んじゃいない! その視線の先には逆転の一手が視えているのか!」
明は平均台に掛けていた足を静かに上げ、そして……
「足を叩きつけたぁ! な、なんと!?」
俺は目にした光景を疑った。だって信じられないじゃないか。
「へ、平均台をぬめぬめと満たしていた潤滑油が! 弾け飛んだ!」
明が右脚で起こした衝撃が細い足場に伝播し、まとわりつく異物を全て弾き散らしたんだ。
「遮るものは何もない! それじゃ只の平均台だがそれがどうした! 俺の往く道に邪魔はいらぬと言わんばかりに明が細い細い奥の細道を駆け抜ける! 三人の中で最も疾く駆け抜けるが! これは……平均台を一番に抜けたのは聖……いや、ほぼ同時か!? 三人ほぼ同時に滑落地獄から躍り出たぁ!」
盛り上がってまいりました。周囲の観戦にも熱が入っている。思わず俺も身を乗り出して実況していた。
「相沢くん」
その時、隣の四之宮先輩が静かに俺に呼びかけてきた。
「スタート地点の窪み……危ないから均してきてもらえる?」
「今、ですか?」
「今すぐよ」
トラックを疾走する三人はほぼ横並びでコーナーに差し掛かっている。最後の障害である借り物競走のボックスに辿り着くのもあっという間だろう。
今更言われてもと思うのだが、その間にも三人はゴールへと近付いてくる。考えるよりも先に動いてさっさと穴を埋めるのが最良か。
先輩の言うことだし逆らえないもんね。
俺は急いでスタート地点へ向かおうとし、
「相沢くん」
その背中にまた声を掛けられたので振り返った。
「幸運を」
「……? はあ」
何のことかと、とりあえず生返事をしてスタートの窪みを埋め始めた。
今思えば、あの時の先輩の笑顔には色々な思惑が含まれていたのだと思います、はい。
実況席を離れたために言葉を捲し立てなくてよくなったが、勝負の行方は気になる。
うめうめずさずさパンパンとコースを整えながらも、視線は三人の方へチラチラと送っていた。丁度今は借り物競走のお題が入れられているというボックスに三人が揃って腕を突っ込んでいるところだった。
同時だなあ。これはいち早くお題の品物を手に入れた人が勝者になるかもしれない。
三人とも勢い良くお題の記されたメモを開き見た。一体何が書かれているのか四之宮先輩に訊ねておけばよかった。
「……」
誰か一人でも動き始めたらすぐここから離れよう。そう思い様子を窺っていたけれど、メモを開いた状態のまま動かない。困惑した表情をしているようにも見える。
お題が難しいのか?
何が書かれてるんだろうと不思議に思っていると、
「!」
「!!」
「!?」
答えに行き着いたのか三人が一斉に動き出した。物凄い速さでコースを走ってくる。
さっさと退いて進路を開けるべくそそくさとコースの外に出た。四之宮先輩のいる実況席に戻ろうとした時、俺はハッと気付いた。
複数の足音がこちらへ近付いてきている。見ると、三人がコースを外れて俺に向かって突進してくる。思い過ごしとか勘違いではない。確実に競い合って我先にと俺目掛けてきている。
「……」
俺はそっと後退り、踵を返して走りだした。
「え? え? え?」
全速力で走りながら肩越しに振り返れば、やっぱり三人が俺の走路に沿って迫ってくる!
「ちょっとせんぱぁい! あんた何したんだあ!」
四之宮先輩に向かって叫ぶが、彼女は手を振って「グッドラック」と言った気がした。
「うわああああ!」
もう状況説明の実況なんてする余裕はなかった。ただ一番に俺の手を取ったのは、最初のストレートでもそうであったが短距離の走力が優勢であった音無先輩であったことは分かった。
「おっしゃあ!」
相沢草太の手を誰よりも早く掴んだ音無彩女は、この競走の最終地点であるゴールで大野と岡田が構えるゴールテープを目指した。
「うわあああああ!」
草太の体が宙に浮く。それほどの速さでゴールまで駆けんとした彼女の足が止まった。
「俺がもらう」
止まってしまったのは、草太の足が双葉明に掴まれたせいだ。
「あたしが先だった!」
「関係ない」
対峙する二人に緊張が走ると同時に力が篭もるせいで、二人に引っ張られる少年が悲鳴を上げた。
「あだだだだ! 千切れる!」
ハッと我に返った二人が手から力を抜いた瞬間、横から漁夫の利で彼を掻っ攫う三人目がいた。
「まったく二人ともガサツだね。大丈夫かい」
一野聖は草太を肩に担ぐと、一目散に彩女と明の傍から離れ、
「させるか!」
「ちぃ!」
明は素早く聖の足を払って転ばせるが、倒れる前に草太を空に放り投げることで自由になった両手で転倒を防ぎすぐに体勢を立て直し。
「うわああぁぁ……」
今にも取っ組み合いを始めそうな二人をむぎゅっと踏みつけ、彩女が空舞う草太のところへ。
「「待った!」」
聖と明が揃って彩女の足首を掴み、地に叩き落とす。
「ヘブッ!?」
一瞬目的を見失いかけた二人は協力することですべきことを思い出した。
「あいつは」
「僕がもらう」
草太の落下点へ向かう聖と明。二人が走り去ると、そこには背中に足跡を付けられた彩女だけが残された。
足の速さは明に分がある。先に草太に辿り着いた明は落ちてくる彼を受け止めて脇に抱え、ゴール目指して舵を切る。
「もう開放して……」
「駄目だ」
草太の要求をバッサリ切り捨てるが、
「俺がゴールすればそれで終わる。協力しろ」
終了の条件を提示することで彼を味方につけようとした。
「協力もクソも俺には何もできねえわ!」
三人に弄ばれる草太は涙ながらに訴えた。
だが喜ばしいことにゴールテープは近付いてくる。このまま明が一位でテープを切れば訳も分からず巻き込まれた草太の開放も成る。
「俺が……ナンバーワンだ」
「くっ……!」
追い縋ろうと伸ばした聖の手は一度空を切り、しかし二度目はしかと草太のズボンの裾を掴んだ。
ずるるっ。
「ちょぉーッ!!」
脱げた。
「明止まって! お願い穿かせて!」
「黙っていろ」
辛うじて前は引っかかっているがお尻はぺろりと丸出し。誰も得をしない草太のサービスシーンを披露しながら、明はゴールテープへ向かう。
「もうお婿に行けないわ……」
顔を両手で隠す草太を抱える明がゴールを切ろうとする、その前に立ちはだかる影が一つ。
「目覚めたか、部長」
踏まれて戦線離脱したかと思われた彩女が待ち構える。明もここまできて退くことはできない。
意を決し真正面から突破しようと突き進み……。
「あ」
草太はまた空を飛んだ。
彩女に正面から挑んだ明は純粋なパワーで叩き伏せられていた。
そして彩女は頭上を越えていこうとする草太を捕まえようと手を伸ばした。
その時の光景は、草太のズボンを持って諦めずに走っていた聖の眼に焼き付いた。
彩女の指には草太の下着だけが引っかかり、肝心の彼はたった一人でゴールテープを切り、顔面から地面に落ちていた。
「そこまで! 勝負あり! ドロー!」
競い合っていた三人だけでなくギャラリーも見つめるある一点を大野と岡田の二人が華麗に手で隠す中、決着を告げる四之宮花梨の声が高らかに木霊した。
後にこのイベントを見ていたギャラリーはこう語る。
中盤までは目の離せない戦いでした(二年生男子)
中盤までは目の保養になりました(三年生男子)
人ってあんな簡単に空を舞うんですね(二年生女子)
最後の人がかわいそうでした(一年生女子)
最後は見るに堪えない光景でした(三年生女子)
最後は目の保養になりました(三年生男子)
エトセトラエトセトラ。
こうして試験期間前にグラウンドで行われたちょっとしたイベントは一人の少年の心にどでかい傷を残してひっそりと幕を閉じたのであった。




