別れの時
結局目が覚めたのは翌朝、真希奈さんのプライベートルームのソファだった。
寝てる間に事務所から運び出されていたらしい。朝方に豪さんが帰ってきた時には俺の姿はこの事務所になかったそうだ。
起きてからしばらく、学校へ向かう刻限が近付いていた。
「昨日今日とお世話になりました」
社長の席に座る豪さんと、傍らに佇む真希奈さんに頭を下げる。二人ともつなぎを着て、仕事へ臨む姿勢である。
「おう。あんまり構ってやれなくて悪かったな」
「いえ……真希奈さんに散々面倒を見てもらいましたから」
「迷惑掛けたの間違いだろ」
真希奈さんの手厳しい一言に苦笑していると、
「昨日の職場体験だが少しは坊主の足しになったか?」
社長からの質問が飛んできた。
俺を真希奈さんの下に放り込んだ張本人だし、少しは気になってくれているみたいだ。
「そうですね。良くも悪くも、先輩たちと一緒にいる時とは全然違う世界を……目の当たりにしましたから。足しになるとかならないじゃなくて、そういう世界があるんだなって……」
「学んだことはあったか?」
「はい。それは真希奈さんから色々と」
「止めろよ気色悪い」
今度は怒ったように俺の言葉を遮ってそっぽを向かれた。感謝の言葉を口にしたつもりだったけど気に入られなかったみたいだ。
「じゃあ俺、行きます」
長居はしていられない。早くここを出なければ、学校に遅れてしまうかもしれない。
「送らなくて良かったか?」
「そこまで厚かましいお願いは……気持ちだけ受け取っておきます」
そうかそうかと頷く豪さんに頭を下げ、まだあらぬ方向を見ている真希奈さんにきちんとお礼を言っておきたかった。
「真希奈さん……本当にここ数日お世話になりまして……」
「そういうのいいからさっさと行けって」
「おいおい照れてんのかあ?」
「あんたは黙ってろよ!」
「……言ってくれたことは忘れずに、肝に銘じておきます」
「何言われたんだ? 俺に教えてくれんか」
「だーもう! 早く学校行けよ!」
急かす真希奈さん、しつこく訊ねてくる豪さん、二人にもう一度頭を下げ、
「ありがとうございました!」
と言い残して大門オートサービスの事務所を飛び出した。
振り返らずにバス停へと駆けながら、昨夜の経験が俺に何をもたらしてくれたのかを考えた。
果たしてその経験が直接作用したかは判然としないけど、俺は一つ……いや二つ、今日中にやらなくちゃならないことがあると自分に言い聞かせた。
「……よし!」
気持ちを新たにし、登校する。後悔だけはしたくない。
駆け去っていく少年の後ろ姿が見えなくなると、騒がしく言い合いをしていた社長と部下は次第に静かになっていった。
「中々いい面構えしていったじゃねえか」
「ま、それぐらいはできるように鍛えたからな」
当然といった調子で答える真希奈の様子に、豪は小さく口の端を上げた。
「んだよ、気持ち悪いな」
「いやあ? ……子育てを経てもっと得意になるかと思ったんだが」
「何が子育てだ」
へっと鼻を鳴らしてから、
「ガキの世話っつうんならおやっさんも随分遅かったじゃねえか。依頼人とどっかにシケ込んでたのか?」
「ああ。弔ってきた」
言い返した真希奈だったが、更に帰ってきた豪の返答にわずかに首を彼へと向けるだけだった。
「その様子じゃあ予想してたようだな」
「まあな」
死相漂う少女を支えていたのは同胞の復讐という憎悪であった。それを果たした後、小さな体に生きるだけの気力が残るとは真希奈も思ってはいなかった。
豪の報告により、それは間違いではなかったと確信を得た。
「……場所は?」
「手でも合わせに行くのか? それとも坊主に教えてやるのか?」
「どっちもありえねえ」
「だったらどういう風の吹き回しだ。お前、終わった仕事のことなんて気にしねえだろ」
「……別に」
拗ねたように呟く様子に豪は微かに口の端を上げた。
「お前ももっと素直になりゃあ可愛げがあるんだがな」
「気持ち悪っ」
怖気を感じ身を震わせているところに小さな玉石が豪の手から放られ、真希奈は左手でそれを受ける。
「これは?」
「今回の報酬だ。依頼人の最後の涙」
豪の言葉を聞きながら、己の手にした涙珠の民の生み出しし宝珠を見下ろした。
琥珀色の玉石は外の光と影響し合う、流動的な虹の色を宿していた。手の平で転がすように弄ぶ度に変わる色に真希奈の目は一瞬奪われていた。
「……二つ、貰って良かったのか?」
彼女が指に挟んだ石を豪に見せる。人差し指と中指、そして中指と薬指に一つずつ琥珀色の涙珠が挟まれていた。
「欲張るな。もう一つは坊主に渡してやれ」
「はぁ? んならさっき渡しておけば良かったじゃねえか」
「また坊主と会える口実を作ってやったんだ。粋な計らいだよ」
「粋じゃねえよ! 俺の手間増やすなよ!」
不平不満を吐き捨てられても豪は大きく口を開けて笑うのだった。




