生きる教え 傷付く心
昼食後、一人廊下を行く俺の体の凝りはほんの少しだけ解消されていた。
というのも、弁当を空にした後に全身が筋肉痛だということを音無先輩に伝えたところ、
「ちゃんとストレッチしないからだよぉ」
と言われ、自転車部直伝の柔軟運動を痛がる俺に無理やり掛けてきたからだ。
おかげで地獄のような痛みと苦しみと引き換えに、若干の体の自由を手に入れられたわけだが。
「……ん?」
教室に戻る途中、廊下の角を曲がると誰かと鉢合わせた。
避けていこうとしたところ、肩をぶつけて止められた。相手がわざと、だ。
同時に一ヶ月以上前……実際はほんの数日前になるわけだけど、クラスメイトの中村から受けたアドバイスが思い出された。
「お前マジでムカつくわ」
おおう、開口一番そう言われると案外イラッとくるな。
言ってきたのは俺に何度も絡んできている運動部員の一人だ。中村と同じ野球部だったか。彼の背後に数名の連中が控えている。
「さっさと先輩たちと仲良くすんの止めろ」
「同じサークルに入ってんじゃねえよ」
「一野さん達と仲良くしやがって……」
「羨ましい……」
最後の方は羨ましがられることじゃないと思うが、とにかく俺があの人たちと親しげにしてるのが気に食わないから何でもかんでも一緒くたにされてるんだろう。
それにこっちだってはいそうですかと言うことを聞くわけにはいかない。絡まれる度にその意志を示しているはずだが、一向に状況は改善されない。
いい加減、俺だってうんざりだ。
「黙ってんなよ!」
最初にぶつかってきた男子が手で俺の肩を突き飛ばしてくる。
苛立ちが加速する。瞬間的にこちらの拳が飛んでいた。
――――――
「――はれぇ?」
気が付くと青空を見上げていた。草のじゅうたんに寝そべって。
「さっさと立て。まだ始まったばっかじゃねえか」
境回世界の空を遮って視界に割って入ってきたのは、真希奈さんだ。
あれ? どうして寝てるんだろう?
疑問が浮かぶ以前の記憶が曖昧だ。思い出そうにも頭がぐわんぐわんと揺れて思考が大きく乱れていた。
「……始まったって、なにが……」
地面に手をついて体を起こすけど、頭が揺れるだけじゃなくて平衡感覚が狂っているし顎には殴られたような痛みがあるし首も筋がおかしい。
「ま、不意を突いた一撃ならこうなるってことを身を以て教えてやったわけだが」
「…………えぇと」
「んだよまだボケてんのか?」
伸びてきた真希奈さんの右手が俺の腕を掴むと力任せに引き上げる。
立たせられたのに、足元がぐにゃりとして倒れそうになる。ずっと掴まれているから、素直に倒れられないのだけど。
「俺、何されたんです?」
体も記憶も前後不覚の状況で訊ねると、真希奈さんが左拳の甲をカン、と顎に当ててきた。
「……顎打ちですか」
それなら今の状態も納得できる。不意打ちの顎打ちで首を痛め、脳震盪を起こしたせいで世界が揺れているんだ。
「俺がお前に教えてやれるのはこんなんしかねえ。ちゃんとした武術とか格闘技とか? んなもんが学びてえならそういう奴を師匠に据えな」
「俺は別に……誰かを倒すような力や技を学びたいわけじゃありません」
そう言うと、彼女にハンと鼻で笑われた。
「こっちに来る前にもそんなヌルい事口走ってたな。なら俺から教わるのは大間違いだ」
「え……」
「武術っつうのは先人から受け継がれてきた歴とした技術や経験の蓄積だ。人を破壊する研究に関しちゃ俺個人より断然ノウハウがあるだろうさ」
そういうことを学びたいわけじゃないと最初から主張しているのに……と思わざるを得ないのだが、彼女の話はそれで終わりじゃない。
「裏を返せば、人を壊す手段を避けりゃあ人を壊さないで済む。おめえが望んでるのはそういう力なんだろ?」
「あ……はい。そうですね」
「だから大間違いだって言ったんだ」
すると真希奈さんは俺の体から腕を離す。支えを失った体は途端にバランスを崩して倒れそうになるが、何とか足を踏ん張って……パシィ。
「うぅわ!?」
気が付くと意識が戻った時と同じように青空を見上げていた。
真希奈さんに足払いされ、一瞬で倒されて上に跨がられてしまったのだが、彼女に後で教えてもらわなかったら何をされてしまったのか本当に分からないままだった。
「俺が教えるのは喧嘩の仕方だ。ガキ同士のイザコザなら負けねえ程度の、な」
「あわわわわ……」
女性に跨がられて……なんて状況、普段なら緊張や喜びの感情が湧いてくるはずだ。けど今は、彼女に対する恐怖しかない。
「安心しろ。なるべく大怪我だけで済むような事しか教えねえよ。格闘技術なんて高尚なもんじゃなく覚えやすい痛めつけ方を、お前の身にな」
指の骨をポキポキ鳴らして見下ろしてくる彼女の凶悪な笑みに、俺は生唾を呑み込んでいた。
――――――
「――ははっ」
今、正に真希奈さんからこの身に教え込まれた殺法が役立った。
「……?」
苛立ちを発散するように横薙ぎに繰り出した右手の甲が、俺の肩を押した運動部員の顎を掠めた。
瞬間的に大きく首を傾げた男子が、糸の切れた操り人形のように足を崩して廊下に座した。
尻餅をつく男子のキョトンとした様子は、その身に何が起きたのか理解できていないことを物語っている。初めて真希奈さんにやられた時の俺もこんな具合だった。
一呼吸する間の短い時間、場の空気が凍りついた。
「……な、何しやがる!?」
最初に動き出したのは集団に控えていた運動部員の一人だ。野球部だっけサッカー部だっけ……どうでもいいか。
何か言いながら間合いを詰めてくる相手の足元を観察していた。右足を踏み込んできたのと同時に、自分が何度も何度もやられて転ばされた足払いを仕掛けた。
足払いを自分から掛けたことは一度もない。教えてくれた人は、掛けられるような相手じゃなかったから。
だが今目の前にいたのは同じ歳の高校生。体躯に恵まれた運動部員とはいえ、こちとら一ヶ月間地獄の中で鍛えられてきたのだ。
とはいえ、やはり一度も足払いなんてしたことのない俺が見様見真似で足を引っ掛けただけでは、相手を転ばせることはできない。
だから、
「う……げえ!」
力任せだ。足を取ったと同時に相手の上半身を、腕力だけで押し倒した。
廊下に背中から叩きつけられて苦悶する相手に跨った。
ここからどうする。
俺が味わったのは、指の骨を鳴らす喧嘩の先生がこうやって腕を振り上げて、
「おい……?」
一言告げてから、振り下ろされた拳を死ぬ気で避けた思い出だ。
「やめ」
遠くで俺を止める男子たちの声が聞こえた気がした。
俺は……腕を振り下ろせなかった。
「加減しろ」
振り下ろすところだった腕を掴んで静止する人物が背後に立っていたからだ。
「あ……」
明だった。まるで真希奈さんのように、俺の腕を引っ張り上げて立たせてきた。
俺の下にいた男子は廊下を這うようにして逃れ、他の運動部員のもとへと避難していた。
「大丈夫かい?」
明と一緒に来たのか、聖の気遣う声が聞こえた。ただし、その言葉は俺じゃなくて最初に顎を打たれて倒れた男子生徒に向けてのものだった。
その様子に、俺は胸の内がざわざわするのを覚えた。
「君たちの友達だろ? 保健室に連れて行くといい」
「あ、ああ……」
聖が運動部員たちに向けて告げると、彼らは聖に介抱される男子を引き受けてぞろぞろとその場から立ち去っていった。
後に残ったのは俺たち三人、それに騒ぎを聞きつけてか、遠巻きにこっちを伺ってくる同学年生の姿だった。
「……ふう。暴力を振るおうとするなんて君らしくないね」
俺に突っかかってきた奴らを見送った聖がそう言ってきた。
「何だよそれ」
俺らしくないって。さっきから少しずつ積み重なる苛立ちのせいか、乱暴に腕を振って明の手を振り払った。
「俺は絡まれたから身を守っただけだろ」
「やり過ぎだ」
と、明。お前には言われたくないと思った。
「お前だってあいつらに拳突き出したことあるだろ!」
「その手で何を殴るつもりだった?」
俺は言葉に詰まった。
脳裏に蘇ったのは、テスト期間前に体育館裏で絡まれていた時のこと。俺を助けてくれたこいつは、その時自分の拳で壁に穴を開けている。
明が殴ったのは、あくまで壁だ。俺は、俺が殴ろうとしていたのは……。
「……怪我はしてないかい?」
咄嗟に伸びてきた聖の手を払ってしまった。
驚いて目を丸くしてる聖の顔がやけに瞳に焼き付いた。
違う。別に気遣いを嫌がったわけじゃない。優しさを向けられる資格が今はないと思ったからだ。
「俺よりもあいつらの心配してやれよ。泣いて喜んでくれるだろうぜ」
違う。そんなことを言いたいわけじゃない。募る苛立ちが心にもないことを口に出させる。苛ついてるのは……自分自身に向けてなのに。
「……どういう意味だい?」
「お前みたいに可愛い子に見舞われたら男なら喜ぶっつってんの!」
己への苛立ちを外へ逃すかのように吐き出した暴言。最低だ。
だからこうして聖に右の頬を叩かれても、何か言い返せるわけがない。
俺は歯を食いしばった。これ以上口を開いたら余計に聖と、更に同じ立場にいる明をも傷付けることになるから。
「……ッ」
自分のことが情けない。だからその場から逃げ出した。
相沢草太はその場を去って先に教室に戻った。
騒動が収束したため、遠巻きに眺めていた野次馬も徐々に引いていき、最後には聖と明の二人が残った。
「……叩く必要はあったか?」
双葉明は自身の平手を見つめていた一野聖に訊ねた。
「あんな事を口走るなんて、本当に彼らしくないよ」
自分のことを女子扱いしないように彼は努めてくれていた。それなのに……それ以前に、他人に対して拳を振るう姿を見たことはなかった。
戦う力はなくとも勇気を持って怪人に立ち向かう姿を知っている。先輩たちのために足りない力を借りて知恵を振り絞り飛び込む姿を知っている。自分と明のわだかまりを解こうと奔走するお人好しな姿を知っている。
身を守るためという前提があるとはいえ、過剰と取られかねない防衛行為をする姿を目にした時、聖は一瞬動けなかった。驚きが心身を支配したからだ。
反面、まだ草太との付き合いが短い明の方が柔軟に状況に対応し、彼の腕を止めることができた。明がいなければ、血を見ていたかもしれない。
「あいつらしさとは何だ?」
それはまだ草太との付き合いが浅い明からの純粋な問いだった。
しかし先の光景を目の当たりにした聖には、彼らしさとは何なのか少し分からなくなっていた。
「……優しいところかな」
紡ぎ出した返答はありきたりで代わり映えのしない、困った時に出しておけ的なものであった。優しいのは事実なのだが、他に相応しい形容が必ずあったはずだが、今はそれを導き出せなかった。
「優しい奴を叩いたのか」
「うっ……言うな」
考えるのを止めてプイとそっぽを向いた聖は廊下を歩みだした。
教室へ戻れば草太と顔を合わせることになるが、ちゃんと顔を見て話せるだろうか。後ろを歩く明の言う通り、いきなり叩いたのは確かにやり過ぎたかもしれないと己を省みるのだった。




