魔法少女と目覚め
悪夢から覚めて居の一番に体の無事を確認した。夢とはいえあれだけ生々しく全身を傷めつけられ命の危機を感じる夢を見れば、そうせずにはいられなかった。
「いてて……」
布団の中を確かめようと動かす体が痛みを訴えてくる。筋肉痛とは違う芯に残る痛み。昨日は学校に登校し、授業を受け、下校してそれから先の記憶は悪夢へと結びついていた。
頭と、布団を持ち上げている右腕に走った鈍痛に顔を顰めながらも、ベッドに横たわる下着姿の体に特に異常は見られずにホッと胸を撫で下ろした。
ならば何故こうも体が悲鳴を上げているのか。痛みの走った右腕は、夢の中で硬い地面に打ち付けた覚えがある。
と、上体をベッドの上で起こしたところで、まだ夢の中にいるんじゃないかという焦燥感に囚われた。
「……どこだ、ここ」
そこは毎日起きている自分の部屋ではなかった。部屋の真ん中にあるテーブルも、壁際の勉強机も、クローゼットも天井も、まったく見知らぬ様相だった。体を預けているベッドも普段使っているものとは違う。敷きパッドも掛け布団もふかふかでお日様の匂いがする。いつも寝ているベッドより少し上等な環境と体の痛みも合わさって、このまま起きるのが億劫になっているのを感じつつ、持ち上げていた布団を少し抱き寄せた。
時節は四月下旬、下着姿で寝ていても肌寒さを感じることはないが、どうしてこんな格好で寝ていたのかという疑念が湧いた。思い出そうにも、寝起きに加えて自分の置かれた現状に困惑していることもあり、頭の整理が上手くできずにいた。
枕元のデジタル時計はAM七時を示している。カーテンの隙間から溢れる太陽の光が室内を明るく照らす。いつもならベッドから這い出る時間だ。朝食を食べ学校に行かなくてはならないが、そんないつも通りの行動がいつも通りじゃない場所で出来るはずもなかった。
布団を抱いたまま固まっていたところに、廊下を歩く足音が耳に届いた。誰か居るのか、と部屋のドアに顔を向けるのと同時にガチャリと音を立てて開かれた。
「あ」
声を上げたのは視線を交わした相手の方だった。長身で黒髪の女性が、釣り目がちの瞳を丸く見開いてこちらを見てくる。こちらはといえば、この人が何者なのか見当もつかずにただ呆然と見返すしかできないでいた。
「おはよう」
自分が通っている高校のブレザーを纏い、スカートを揺らして歩み寄ってきた女性はそう声を掛けてくる。手にした学ランを中央のテーブルに置くと、ベッドの縁に腰を下ろしてズイッと顔を寄せてきて、
「あ……あの……」
吐息が聞こえる距離まで詰め寄られ、咄嗟に身を引き固まっているところに女性から言葉。
「体は大丈夫? まだ痛むかな?」
「ええ……と。少し痛むけど」
「起きれそう?」
「大丈夫……と思います」
良かった。囁くと彼女は腰を上げ、ドアに向かいだした。
「朝食の準備してるから、制服はそこに用意したの着てきてね」
こちらを振り返り、テーブルの上に置いた制服を指さした彼女はウィンクをしてドアを閉めていった。
一人取り残されると、再び全身をベッドに預け天井を見つめた。あの人はこの体に残る痛みのことを気に掛けていた。今朝見た悪夢のことと何か関係があるのだろうか。
「……ドギマギしちゃったな」
あんなに近くに異性の顔が迫ってきたことなんて生まれてこの方、母親以外に覚えがなかった。凛々しさのある整った顔立ちを思い返しながら、今横になっているベッドもあの人のモノかもと考えながら、もう少しだけ布団の温もりと香りを堪能した。
用意してもらった制服を着てから階段を下りていくと、パンの焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐってきた。
「なんか違うな、これ」
サイズは合っているが、着心地がいつもと違う。ところどころ草臥れているようにも見えるし、昨日まで着ていた制服と違うのかなと訝しみながら、匂いに誘わ扉を開けた。
「お、やっときたなあ。出来上がってるから座って座って」
ダイニングテーブルに二つ用意されたトーストとコーヒーのセット。キッチンの方から出てきたエプロン姿の彼女がテーブルにプレートを二つ置きながら言葉を掛けてくる。
失礼します、と断ってから促されるままに椅子に着くと、エプロンを外した彼女が向かいの席へ着いた。
「朝はトーストで良かったかな? お米もあるけど……て用意する前に聞くべきだったね」
「いいえ、全然……大丈夫です」
「なら良かった」
いただきますと手を合わせる彼女に続き、こちらも小さく食事の挨拶を口にする。ジャムとかバターあるから好きなの使って、と食卓に用意されていたものを勧められ、遠慮がちに使わせてもらったり、プレートに乗せて出された目玉焼きとベーコンを箸ではむはむと頂いたりと、何の変哲もない朝食の風景のように思われる。
理解できない状況に直面すると、普段と変わらない行動を努めて平静を保とうとするという話を聞いたことがあるが、今がまさにそういう状況なのかもしれない。
「制服の方は」
トーストを半分ほど齧り進めたところで声を掛けられた。見れば、彼女の前にあるお皿はすでに全部空っぽで、今は食事の〆にといった様でコーヒーを飲み終えたところであった。
「サイズ合ってる?」
「はい、問題なく」
「それなら良かった。君の制服ボロボロだったからさ。今着てもらってるのは兄さんが高一の時のやつなんだ。体格が同じくらいだったからイケるかなあって思ってたんだけど、ウンウン、あたしの見立ても悪くなかったってコトね」
サイズがぴったりだったことが嬉しいのか、満足気に笑って頷いている。お兄さんがいたのか……もしかして今朝目覚めた部屋は彼女の部屋ではなく、そのお兄さんの部屋なのか。そうでなくとも、冷静に考えれば女性が男性を自分のベッドで寝かせるなんて考えにくいじゃないか。来客用の部屋だったのかもしれない。そう考えると、朝から一人で気分を高揚させてベッドに潜って匂いを堪能していたことが阿呆らしく情けなく惨めになってきて思わずごめんなさいと言いたくなった。
が、口にすべきはそんな自分の痴態を詫びる台詞ではなく、
「俺の制服がボロボロにって……? あの、それって夢の中の話じゃなくて」
「ゆめ? もしかして昨日あったことを夢って思ってる?」
「えっと……。正直言って、なんでこんなところで朝食を頂いてるかも全ッ然訳がわかんなくて。理解が追いついてなくて……」
ようやく、目の前の人と会話らしい会話をした。まず伝えたかったのは、今は自分が何も理解ができていないということだった。
「そりゃあまあそっか……。いきなりあんな目にあったんじゃ、混乱してるのも当然か」
その口ぶりは、昨日我が身に起きたことを彼女は知っていると語っていた。
「あなたは、昨日何があったのか知って」
「音無彩女」
「る……はい?」
「君の通う西台高校の二年生。つまり先輩だよ、相沢草太くん」
俺の名前が知られてる! いきなり名前を言い当てられたことに驚いて固まっていると、テーブルの上を滑らせて差し出してきたものに目が向いた。
「あ! それか」
「ゴメンね。緊急事態だったとはいえ、勝手に君の個人情報盗み見ちゃって。家の人にも連絡しないとまずいと思ったから、これまた勝手に親御さんにメールで『今日は友達の家に泊まります』って送ったことも謝らせて」
差し出された生徒手帳とスマートフォンから女性……音無彩女さんの手が離れてから、自分の元に引き寄せた。
「どうしてそんなことを」
彼女は少しだけ口を噤み、そして申し訳無さそうに答えてきた。
「昨日のことを話したいのは山々なんだけど、もうそろそろ学校に行く時間だし」
先輩の言う通り、ダイニングからつながっているリビングの壁に掛けられた時計は七時四十五分を過ぎた時刻を指していた。
「放課後の時間をもらえるかな?」
「いいですよ。時間ならいくらでもありますし」
幸いにして帰宅部なので放課後の時間はいくらでも融通できる。
「それじゃあそういうことでお願いね。ご馳走様でした! 食欲なかったら無理しなくていいから」
手を合わせてから席を立った先輩が食べ終わった食器を手にキッチンに趣き洗い物を始めた。
俺がどういう状況に遭遇して今ここにいるのかまだ判然としていないが、ほんの少しだけ前進したと感じた。半分残っていたトーストをバクバクと平らげ、腹の中に押し込んだ。