二〇一号室
夏のホラー2013~怪談咄で集いましょう~
参加作品です。
シャッター音が、時計の秒針みたいに小気味よいリズムを刻んで繰り返される。その音が鳴る度に、僕の気持ちは高揚した。
同じ角度から、少しずつ違っていく姿をただひたすらに記録する。こうしている間がとても幸せだ。
言葉なんて必要ない。そんなものは簡単に人を傷つけるし、僕を拒絶する気持ちが言葉となった瞬間、それは明確な終わりを示すのだから。近づくこともしなくていい。近づくと僕はどうしても息苦しくなってしまう。窒息しそうなくらいに呼吸が困難になり、喉がストローみたいに細くなった感じがするから。
結局のところ、こうして遠くからひたすらに撮り続けることが一番だ。いつも素敵な君を、手の平程度の四角い枠の中に閉じ込められるから。そして、それをいつまでも見つめることが出来るから。
「あ」
八畳間の窓際に固定した、望遠レンズ付きのカメラを覗き込みながら、僕は声を漏らした。
ファインダーから見える景色。直線距離で約三百メートル先にあるマンションの三階の窓。その向こうで仕事帰りの疲れた体をふらふらと漂わせる君。
カーテンを閉めないずぼらなところが可愛いんだ。確かにその窓は日当たりが良好だし、他に高い建物も隣接していないから清々しいものだよね。
そして今、僕は夢中でシャッターを押し続けていた。
窓際で着替えるのも、君の悪い癖だ。そして可愛らしいところだ。
シャッターを押しながら、僕はズボンとパンツを降ろす。荒くなる吐息が、口角の吊り上った口から幾度も漏れ出ていく。
本当に君は最高の女性だ。
ああ、こんなにも素敵な君との日々がずっと続くといい。
翌日、彼女は朝早くから出掛ける準備をし始めた。
仕事ではないようだった。いつもよりも時間をかけて服を選んでいるし、地味なビジネススーツなんかじゃない、もっと明るい、透明感のある服ばかりを引っ張り出しているから。遊びにでも行くのだろうか。
カメラのアングルを変え、マンションの正面玄関の辺りを見てみた。別にいつも通りの少ない人通りと、よく日の当たる建物の玄関が見えるだけ。
もう一度三階の彼女の部屋を覗くと、服を選び終えた彼女は、着替えを済ませてから化粧を始めていた。
明らかにおめかしをしているな。一体何があったんだろう。
彼女の魅力は、ちょっとずぼらでだらしがないけれど、純朴なところだ。
部屋の中ではだいたいパンティーとTシャツ姿でうろうろしているし、近所のコンビニに出かける時だって化粧もしないまま、安物のサンダルをつっかけて行く。コンビニから戻ると、アイスキャンディーをかじりながらニコニコしていたりするのだ。
化粧だっていつもあっという間。石膏で顔型をとるのかと思うぐらいにファンデーションをベッタリ塗りこむババアや、電車の中でいつまでもチンタラとだらしがない顔を仕上げているバカなんかとは違う。さっさと薄塗りして、鏡の前で笑顔の練習をしていたりする。
飾ることのない、自分を構成する要素で毎日を楽しそうに暮らす。そんなところがとても可愛いのだ。
そんな彼女だが、今日はやけに化粧が長いな。寝惚けてうまくいかないのだろうか。
僕は何百回というシャッター音を立てながら、カメラ越しに彼女の姿を追った。
もっとも、僕が暮らしているこの部屋じゃあ、彼女の姿を捉えることができるのは寝室とマンションの共用玄関だけなのだけれど。
まったく都合のいいところにこのアパートが建っていてくれたものだ。彼女の暮らすマンションと僕の暮らすアパートの部屋を結ぶ直線上には、視界を遮る障害物が全くない。
最初は彼女が毎週捨てるゴミを持ち帰ることぐらいしか、君との接点を持つことが出来なかった僕だけれど、先月にこの部屋へ入居したことにより、以前よりもずっと近くに君を感じることが出来るようになった。
これは神様のおぼしめしとしか考えられない。
寝室から彼女が姿を消した。たぶん、カメラでは見ることの出来ない奥のキッチンの方にいるのだろう。そして三十分経っても寝室に戻ってこないということは、朝食を摂っているのか、もしくは出掛けるために部屋を出たか、だ。
カメラの角度を下に動かすと、マンションの共用玄関から彼女が現れた。
「白のホットパンツかわいい……チュニックの下のタンクトップ、あの柄は好みだなぁ。なんで僕の好みが分かっちゃったんだろう?」
シャッターを押すリズムが早まった。特別可愛い日は、いつもより何倍も記録しないともったいない。
歩く彼女をカメラで追いかけていると、彼女がマンションの前に停まっている白のアルファードに乗り込んでいく姿が見えた。
「あれ?」
彼女は車なんて持っていない。そもそも、乗り込んだのは助手席側じゃないか。
すぐさま運転席を見ると、若い男がハンドルを握っているのが見えた。
「誰だろう、あれ。気になるなぁ…………弟なんていたっけかなぁ?」
とりあえず、車のナンバーは控えておいた方がいいだろう。必要とあらば、男の身元調査をして奴の企みを事前に潰しておかなくちゃいけないな。
彼女を乗せたアルファードが走り去って行く姿を、僕は何十枚もの写真に収めた。
その日の夜、彼女がマンションに帰ってきた。
やっぱり白のアルファードに乗ってきて、助手席を開いて降りようとするが、片足だけを出したまま、車内で男と顔を近づけているように見えた。
「ああ、やっぱり。あの男は早めに退治しないとだめだ」
悪い予感は的中していたみたいだ。彼女は純朴だから、気を付けていないと悪い奴に騙されてしまうのではと思っていたのだが。どうやら僕の読みは当たっていたらしい。
ようやく車から出た彼女は、しつこくアルファードの方に手を振るよう強要されていた。いつまでも車を出さないまま、彼女に手を振らせ続けるなんて。
僕は、手を振る彼女にカメラを向けてシャッターを切り続けた。
止めろ。彼女が嫌がっているじゃないか。
彼女が共用玄関に入って姿を消すと、僕はすぐさまカメラからメモリーカードを抜き取って、部屋の隅に置いてあるパソコンへと挿入した。
撮影した写真に収められている、彼女の嫌がっている姿を証拠写真にして、あのバカ野郎をこらしめてやらないといけない。
パソコンの画面に映されたフォルダの中には、今日一日で撮影した写真がざっと一千枚ほど並んでいた。
撮影時間から探し出した、車のナンバーを写した写真をすぐにプリントアウトする。出来上がった写真は、百円ショップで買ってきた画鋲を使って壁に貼り付ける。
とりあえず、男の身元調査は後回しだ。
再びパソコンに戻ると、今度は彼女が写る写真をじっくりと眺めた。今日撮影した中でも、特別惹かれる写真を選び出す作業。毎日の日課だった。
見つけた。
一枚目は、朝から彼女が服を選んでいる写真。あれこれと服を引っ張り出して真剣に選んでいる姿がとても微笑ましい。
二枚目は、マンションの共用玄関を出てきた時に見せた眩しい笑顔の写真。本当ならば、この笑顔はアルファードを見つけて微笑んだように見えたものだったので、彼女が男に騙される直前のものだ。選びたくはなかったが、この眩しさは反則だった。
三枚目を選んでいる間に、先の二枚の写真はプリントアウトを終えていた。
その二枚を手にしてベッドへと向かった僕は、ビニール製の壁掛けフォトポケットで作った掛布団に、彼女の写真を追加した。
これで、今夜もぐっすり眠れそうだ。三枚目の写真も早いところ布団に入れよう。
パソコンの画面とのにらめっこを再開すると、ある一枚が目に留まった。
これだな。夜のマンション前で、一生懸命手を振る彼女。例によってアルファードへ向けて手を振らされているという苦痛の顔ではあるが、それでもお世辞の笑顔さえ可愛くて、僕はそれを選んだ。
プリンターから少しずつ、彼女の姿が出力されてくる。
そして出来上がった写真を手にして、僕はそれに口づけをした。プリンターから出てきたばかりで、ほんのりとした温かさと僅かなインクの匂いが顔に貼りついてくる。
唇を離し、写真の中の彼女に目をやった。
「…………あれ?」
そう、その時に気が付いてしまったのだ。
彼女の隣に、別の女が写っていたのだ。はっきりとではないけれど、手ブレ補正が掛からなかったみたいに曖昧な輪郭で、そこに女が写っていた。
髪の長い、彼女よりもわずかに細った女だった。
こんな女、さっきはいなかったはずじゃあ。
僕は窓際のカメラを覗き込み、既に彼女がいなくなったマンションの共用玄関を見た。だが、もう誰もいなくなっていた。
続いてカメラの角度を持ち上げていき、彼女の住む三階の部屋へとピントを合わせる。
「あ」
いた。風呂から上がった様子で、いつもどおりパンティーとTシャツ姿の彼女がいるそのすぐ横に、やっぱり女はいた。
生地が薄そうなブルーのワンピースを着ているようだった。やっぱり輪郭がぼやけるのだ。
「これって…………」
鳥肌が立った。
別に信心深い性格でもないし、そういったものを見たり感じたりした経験なんて一度もないけれど、それでもここまではっきりと見えてしまっては信じざるをえない。
プリントアウトした三枚目の写真。そこに写る謎の女。
駄目だ。こういうのって、たぶんきちんとお祓いして処分しないと駄目なんだ。
だけど、写真にしなくたって、ファインダーを覗けばあの女が映っているぞ。
しかも、どうやら彼女に憑いているみたいじゃないか。
ということは、彼女自身がお祓いをしてもらわないといけないんだ。
なんてことだ。愛する彼女を守る術は、何かないのだろうか。
しばらく考えて、僕はすぐさま手紙を書き出した。それは彼女に宛てる初めての手紙。今までそんなことしたこともないけれど、でも、僕に出来る精いっぱいのことはこれぐらいだ。
内容は簡潔に済ませた。
『君に悪いものがついている。早く祓ったほうがいい』
と。
それを三つに折り、クラフト紙の封筒に入れると、僕はアパートの部屋を飛び出した。
彼女の住むマンションまでは、道を辿って行くと三十分くらい掛かる。僕が歩くのが遅いっていうのもあるけれど、それでも遠い。
ようやくマンションの入り口に着いたときには、僕はすっかり汗だくになっていた。こんなに体を動かしたのは、随分と久しぶりだった。
専用のキーが無いと部屋まではいけない。僕は、共用玄関までしか入れないことを恨めしく思いながら、彼女の部屋番号が書かれたポストの中に手紙を放り込んだ。
頼む。これでなんとか気づいてくれ。
しかし、彼女の傍から女の影が消えることはなかった。
僕は相変わらず彼女の姿を写真に収め続けているけれど、ブルーのワンピースに身を包んだ女はいつまでも彼女の傍から離れないのだ。
それはもちろん、彼女がきちんとお祓いをしていないからだろう。
僕からの手紙に気が付いていないはずはない。ただ彼女は、ずぼらな性格だから。
一向に女の姿が消えないことで不安に思った僕は、再び手紙を書いた。文面は前のときと同じもので。
しかし、今度は彼女に現実を知らせるために、現像した写真も添えてやった。
これならばさすがの彼女も気が付くことだろう。
だが、何日経っても彼女がお祓いに行ったような様子は感じられなかった。
そればかりか、例のアルファードに乗った男が彼女の家へ入り浸るようになっていった。
ほら、言わんこっちゃない。ワンピースの女といい彼女を狙う男といい、彼女は今、悪いものに纏わりつかれて困っている。
早くいろんなものを祓ってしまわないと、彼女が大変なことになる。
僕は三度目の手紙を書いた。
『早くお祓いに行くんだ。そして、その男からも離れた方がいい』
今度は、彼女に纏わりつく女が写った写真を三枚と、男の姿を捉えた写真を三枚。手紙と一緒に封筒へ入れて、ポストに放り込んだ。
ここまで気にかけているのに、彼女が一向に苦しみから解放されないなんて。
僕は胸が張り裂けそうな気持ちで、毎日カメラを覗き込み続けた。
ある日の夕方、彼女の住むマンションの前に、パトカーが停まっていた。
そしてそのパトカーの側で、彼女が例の男に肩を抱かれながら、警官と話をしている姿が見えたのだ。
最初は男が逮捕される瞬間なのではないかと思い、気持ちが高ぶったが、どうも様子がおかしい。馴れ馴れしく彼女を抱く男の胸に、彼女が顔を埋めている。
そして、男が警官に何かを手渡した。
それは、僕が彼女のために送った手紙と写真じゃないか。
何をしているんだ。ふざけるな。早く放してやらないと、彼女が泣いているじゃないか。だいたい警官も目の前で彼女が乱暴されているというのに、何をぼーっと突っ立っているんだ。国民が納める税金のおかげで毎日飯を食っていられるのだったら、目の前の被害者ぐらいすぐに救えばいいだろう。
歯ぎしりの音を立てながら、僕は彼女の姿を撮影し続けた。
今更当然なのだが、例によってワンピースの女もきちんと写っている。
警官が帰った後、僕はカメラのアングルを三階の彼女の部屋に向け直した。
しかし、今夜の僕は気が気ではなかった。なぜなら、あの男が彼女と一緒になって三階の部屋へと上がっているからだ。
嫌な予感がしていた。
まさかとは思うが、彼女がここまで男に毒されているとは。
何も無いことを祈ったが、あの男が部屋に上がりこんだだけで何もしないわけがなかった。
ファインダーから見える景色。直線距離で約三百メートル先にあるマンションの三階の窓。その向こうで男に支えられた体をふらふらと漂わせる君。
カーテンを閉めないずぼらなところが今日は憎い。確かにその窓から入る月明かりはムードがあるし、他に高い建物も隣接していないから安心感があるだろう。
そんな今、僕は我を忘れてシャッターを押し続けていた。
裸で君に覆いかぶさるのは、悪い男だ。とてつもなく憎らしい。
シャッターを押しながら、僕はズボンとパンツを降ろす。荒くなる吐息が、食いしばった歯の隙間から噴き出す。
本当に君は愚かな女性だ。
ああ、あんなにも素敵な君が穢されてしまうとは。
その時だった。
僕の中で何かが唸りを上げた。
僕はずっと君を見てきたじゃないか。いつだって君を見守ってきたじゃないか。
なのに、その苦労は今日、全てが無駄になった。
見てきたじゃないか。見てきたんだ。見ていたんだぞ。
何も知らないまま悪い男に騙される君は、どうして一度だって僕の視線に気が付いてくれなかったんだ。
明るい笑顔だって、無邪気に手を振ることだって、だらしなくアイスを齧る表情だって、少しぐらい僕に向けてくれても良かったじゃないか。
僕に気が付いてくれたって良かったじゃないか。
唸り声と共に、僕はシャッターを切り続けた。
見ているだけで満足なんて出来るものか。言葉も要らないけれど、近づかなくてもいいけれど、少しぐらい僕の視線に気が付いてくれ。
「見ろ! 見ろ! 見ろ! 見ろ!」
こっちを見ろ。一度でもいいからこっちを見ろ。
僕を見ろ。視線を合わせろ。
ちらりでもいいから見ろ。少しでもいいから見ろ。
気付け。僕に気付け。こんなにも愛している男がいることを、君は知るべきだ。
それが、礼儀ってものだ。邪悪な男にまんまと穢された君の償いってものだ。
見ろ。
狂ったようにシャッターを切り続けた末に、僕はあることに気が付いた。
「…………見てる」
視線が、こちらを向いていた。
ブルーのワンピースを揺らしながら、ベランダに佇む女がこっちを見ていた。
今までは彼女の傍にずっといた女が、彼女から少し離れ、ベランダに立ってこっちを見ていた。
明らかに僕と視線を重ねていた。
それでも僕は、シャッターを切る。
ふと、カメラの角度を動かしてマンションの共用玄関に向けてみた。
女がいた。ブルーのワンピースを靡かせながら、女はマンションの前の道に立っていた。
視線はやっぱりこちらを向いていた。
僕は、カメラから望遠レンズを取り外し、三脚も取り外し、カメラを両手で抱えて持ち上げた。
久しぶりに味わうカメラ本体の重み。しかし、いつまでも懐かしがっていられない。
カメラのファインダーを覗き込みながら、そっと踵を返して自分の部屋の玄関を見た。
いた。
シャッターを一度だけ切った。
数歩だけ、女が近づいていた。
シャッターをもう一度切った。
また少し、女が近づいていた。
シャッターをまた一度切った。
もう女の全身は収まらなかった。
俺はカメラを顔から離して、反対向きに構える。
自分自身に向けて写真を撮る。まばゆいフラッシュが俺の顔面を照らして、一瞬で消えた。
でも、その一枚を現像する気にはなれなかった。
だってもう分かっていたからだ。
最後の一枚に何が写っているのかなんて、俺の背後から抱きつくように回された二本の白い腕が、教えてくれていたからだ。
≪了≫




