湖は癒し場所
「ここ、空気が優しいな。気持ちいい」
アキラはそう言いながら、自らの心臓あたりに手をかざす。嘗て、自らの意思で、自らの望みで刃を貫かせた場所。未だに傷跡がくっきりと残った胸元。
アキラは無意識のうちにその場所に触れていた。
「気になりますか?」
「……何が」
「あなたの胸の傷跡です。ちょうどいいので、願ってごらんなさい。ジブリール様が聞き入れてくだされば、傷跡も消えると思いますよ」
「―――どうでもいい」
どうせ、またいつか新たにこの場所に傷が出来るんだから。アキラは心の中で小さく呟く。もちろん、アレグラやウェンリルには聞こえないよう、そんな危ないことを考えていることを悟られないように気をつけながら。
事実、アキラは未だに生きようとは一切考えていなかった。とにかく死ぬことしか考えていなかった。
アキラが望むものは、死しかないのだから。
生きることなど望まない。死を以って、あの両親を苦しめてやる。
あぁ、そういえば日本で私はどうなっているのだろうか。行方不明扱いなのだろうか。それなら、あのクソ親共は喜んでいるだろうよ。
だが、遺書を残し、その場に血痕を残して消えたんだ、それなりにマスコミによって排除くらいはされているかもな。
このほのぼのとした落ち着く場所で、アキラはそうやって危ないことを考え続けていたという。
「何で、生きてたんだろ」
小さく呟く少女。そして、しっかりとそれを耳にしている大人たち。そう言うことしか考えられないアキラが不憫で、可哀想で。
だから、彼らはアキラを守ると決めたのだ。愛を知らない幼子、得るべき時期に愛を得られず人を信じることが出来ない子。
ウェンリルは、そんなアキラに気配を消して近寄り、後ろから優しく抱きとめた。
「ちょ! 離せ、離れろ!」
「嫌だ。絶対に離さない、君は僕の義妹だ」
「知るか!? 私は望んでない! 勝手に決めやがって!」
「アキラ、口が悪いよ。これ以上悪い言葉を使うなら、しばらく君の口を塞いでしまうよ?」
ウェンリルがそう言った瞬間、アキラが弾かれるようにウェンリルから離れる。理由は簡単、口を塞ぐという、その言葉だ。
アキラにとって、口を塞がれるのは両親からの虐待を思い出す、嫌なことなのだ。両親を嫌っていても、離れていても体はその恐怖を覚えているのだから。
「ん? どうした、アキラ?」
「……っわるな!!」
「どうしたんです? 大丈夫ですか?」
「近寄るな触るな! 誰も、私に触れるな!!」
アキラは叫び続ける。近寄る者全てを阻み、ただただ、叫び続けた。
「来るな触れるな近寄るな! あっち行け! 来るな!」
「どうしました!? お兄様、何をしたんですか!?」
「いや………」
「うるさい来るな放っておけ! お前たちだけ帰れ!」
「そんなこと、出来るはずがないでしょう!」
「いいから帰れ! で、私のことなんて忘れろ! もう何も関係ない!」
アキラの叫びは止まらない。それが、どれだけ人を嫌っているのかがよく分かる。アキラが、どれだけ人を恨んでいるのかも。
「家族なんていらない! 大事な人なんていらない! 人なんていらない!」
「お、落ち着きなさいアキラ」
「落ち着いてるっ! 無関係の人間如きが私に命令するな!」
既に冷静さを失っているアキラ。それを止めようとするウェンリルとアレグラ。だが、言の葉のチカラという圧倒的な力を持つアキラを前にしては、最早敵にすらもなり得なかった。
『近寄るな』
アキラの、そのたった一言でウェンリルとアレグラはアキラに近寄ることが出来ない。言葉をかけて落ち着かせるしか方法がない。
最後の手段として、気絶させるという手も、今のアキラには使いようがないのだ。
「アキラ、落ち着け! 深呼吸するんだ!」
「黙れ!」
二人が何を言っても受け入れない。アキラの心は完全に閉ざされたまま。愛を教えようと決めたアレグラとウェンリル。
だが、今はその教えるべき対象に完全に拒絶されている。
愛を、人を愛するということがどれだけ幸せか、アキラに教えてあげたかった。
人を信じられる生活がどれだけ安心できるものか、教えるつもりだった。
だが、その少女は今、我を失って完全に暴れているようなものだった。
「もう、いい……。やっぱり人は信用ならない。人は、みんな敵……」
その呟きが本当に可哀想で、哀れで。だから、アレグラはアキラを引き取りたいと王に願い出た。兄にもそれを納得させた。
アキラに、新たな家族となった義妹に、人を信じるということを教えるつもりだった。
それなのに、アレグラは全く信じられておらず、一度会っただけのアリサの方が、アキラには信用されていた。
「大丈夫。大丈夫です、アキラ。だから、だから落ち着きましょう? ここには、あなたを傷つける者はいません」
信じて欲しかった、その言葉を。だから、アレグラはアキラへと近寄った。アキラの操る言の葉の力で阻まれながらも、それでも近寄る。
そして、ぎゅっと抱きしめた。アキラが痛がろうが関係ないほど、強く、強く。
「大丈夫ですよ。私たちが、あなたを守りますから」
「うるさい! そう言ってたって、どうせいつかはいなくなる! それなら、最初からいらない! 離せ!」
「私たちはいなくなりませんよ。あなたが望むなら、ずっとそばにいます」
「嘘はもう十分だ! 離せ!」
「嘘じゃありません。あの日言いましたよね? 私があなたを傷つけるようなことがあれば、殺してもかまわない、と。そんなことをするつもりがないからその約束が出来る。――私は、あなたを守り続けます」
そして、その言葉が最後。アキラの耳に届いた、最後の言葉だった。