婚約破棄の夜、わたくしに歌が降りてきた
王立アストレア学園の卒業記念パーティー。
煌びやかなシャンデリアの下、王国の未来を担う若き貴族たちが集う大広間で、一人の公爵令嬢が断罪されようとしていた。
「エリシア・フォン・ローゼンベルク! 私はここに、そなたとの婚約を破棄する!」
王太子アルフレッド・フォン・グランディールの宣言が、広間に響き渡った。
その隣には、可憐な少女が寄り添っている。
男爵令嬢リリア・ベルモント。
最近、王太子がことのほか親しくしている少女だった。
「そなたがリリアに行った数々の嫌がらせ、すべて明らかになっている!」
「……左様でございますか」
エリシアは静かに答えた。
美しい銀色の髪。
澄んだ紫水晶の瞳。
王国随一の淑女と称された彼女は、こんな場面でも背筋を伸ばし、完璧な礼節を保っていた。
「言い訳はないのか!」
「殿下が何をお聞きになりたいのか、わかりかねます」
「まだしらを切るつもりか!」
アルフレッドの怒声が響く。
周囲の貴族たちは息を呑んだ。
だが、エリシアは別のことを考えていた。
(……ああ)
(本当に、終わってしまうのですね)
十年間。
八歳で婚約してから、十年間。
彼女はずっと、アルフレッドを愛していた。
最初は、ただ優しく微笑んでくれる少年だった。
やがて、彼の隣に立つことが誇りになった。
そして、いつしか彼の幸せこそが、自分の幸せになっていた。
けれど。
いつからだっただろう。
彼が、自分を見なくなったのは。
「エリシア! 聞いているのか!」
「……はい」
その瞬間だった。
彼女の胸の奥に。
歌が、降りてきた。
それは突然だった。
どこかで聞いたことのある旋律でも、誰かが奏でている音楽でもない。
懐かしくて。
温かくて。
それなのに、どうしようもなく切ない旋律。
言葉が、ひとつ、またひとつと胸の中に浮かび上がってくる。
(……え?)
エリシアは戸惑った。
(何でしょう、この歌……)
「そなたには、王太子妃となる資格などない!」
アルフレッドが叫ぶ。
本来なら、弁明すべき場面だった。
あるいは毅然と反論するべき場面だった。
しかし。
エリシアの唇が、自然に開いた。
「♪……はじめて、あなたに会った日は……」
「…………は?」
アルフレッドが固まった。
エリシア自身も驚いた。
(えっ?)
(わたくし、今、歌いました?)
しかし、止まらなかった。
むしろ、歌わなければならないと、魂そのものが訴えていた。
「♪ 春の光が、庭に満ちて……」
その声は、驚くほど美しかった。
透き通るようなソプラノ。
けれど技巧を誇る歌声ではない。
まるで幼い少女が、大切な宝物をそっと取り出すような歌声だった。
「♪ 小さな手を、差し出したあなた……」
「エ、エリシア?」
「♪ わたしの名前を、呼んでくれた……」
エリシアの瞳に、遠い日の光景が浮かんだ。
八歳の春。
王宮の薔薇園。
慣れない宮廷作法に緊張して、ひとり立ち尽くしていた少女。
そんな彼女に、金髪の少年が笑いかけた。
『君がエリシア?』
『……はい』
『僕はアルフレッド。これから、よろしくね』
そう言って差し出された、小さな手。
あの手は温かかった。
「♪ あの日の空は、青く澄んで……」
「♪ あの日の風は、優しくて……」
「♪ 世界でいちばん、幸せなこと……」
「♪ それは、あなたに会えたこと……」
広間が静まり返った。
誰もが、呆然と彼女を見つめていた。
王太子の断罪を遮って歌い始める公爵令嬢。
前代未聞である。
だが、それ以上に。
その歌が、美しかった。
「……なんだ、これは」
アルフレッドが呟く。
そのとき。
会場の隅にいた宮廷楽団の老楽長が、ゆっくりと顔を上げた。
「……なんという旋律だ」
彼は五十年間、音楽に人生を捧げてきた。
それでも、こんな歌は聞いたことがなかった。
単純な旋律。
難しい技巧など何もない。
それなのに。
胸の奥にしまい込んだ、遠い日の初恋が蘇る。
老楽長は、無意識に指揮棒を握った。
「……弦を」
小さく呟く。
「弦を、合わせなさい」
ヴァイオリンが、そっと鳴った。
エリシアの歌に、音が寄り添った。
それは、まるで春の風だった。
「やめろ!」
アルフレッドが叫んだ。
「何をしている! 今はそなたの罪を問うているのだぞ!」
しかし、エリシアには聞こえなかった。
いや、聞こえてはいた。
ただ。
歌が、次の季節へ進んでしまったのだ。
旋律が変わった。
明るかった春の歌に、わずかな翳りが差す。
「♪ いつからでしょう、あなたの声が……」
「♪ 少しずつ、遠くなったのは……」
エリシアの胸が、きゅっと締めつけられた。
十三歳の秋。
アルフレッドが、初めて約束を忘れた日。
『すまない、エリシア。剣術の稽古が長引いてしまった』
彼はそう謝ってくれた。
彼女は笑った。
『お気になさらないでくださいませ』
本当に、気にしていなかった。
彼には王太子としての務めがある。
忙しいのは当然だ。
けれど。
十五歳の冬。
『今日は政務がある。茶会は中止だ』
十六歳の春。
『その話は、また今度にしてくれ』
十七歳の夏。
『……君は、いつも正しいことばかり言うな』
そして。
十八歳の今。
彼は、彼女に微笑まなくなっていた。
「♪ 並んで歩いた、あの道なのに……」
「♪ 気づけば影が、ふたつ離れて……」
「♪ あなたの歩幅に、合わせたつもり……」
「♪ それでも背中が、遠くなる……」
誰かが、息を呑んだ。
令嬢の一人が、そっと口元を押さえた。
「……やだ」
小さな声だった。
「……どうして、こんなに悲しいの……」
エリシアは歌い続けた。
「♪ 何かを間違えたのでしょうか……」
「♪ 何かを忘れたのでしょうか……」
「♪ あなたの好きな、わたしになるため……」
「♪ わたしは何を、なくしたのでしょう……」
その歌詞を聞いた瞬間。
アルフレッドの顔が、わずかに歪んだ。
彼にも覚えがあった。
かつてのエリシアは、よく笑う少女だった。
庭で蝶を追いかけ、花冠を作り、彼に見せに来た。
『アル! 見てください!』
そう呼ばれるのが好きだった。
いつからだっただろう。
彼女が「アル」と呼ばなくなったのは。
いつからだっただろう。
彼女が、完璧な公爵令嬢になったのは。
『殿下、お行儀がよろしくありません』
『殿下、そのご発言は慎重になさるべきです』
『殿下、王太子としての責務を……』
いつしか彼女は、彼にとって息苦しい存在になっていた。
だが。
その完璧さが、誰のためのものだったのか。
アルフレッドは、一度も考えたことがなかった。
歌は、さらに深く沈んでいった。
春は過ぎた。
夏も終わった。
秋の木々は葉を落とし。
やがて、冬が訪れる。
エリシアの歌声が、震えた。
「♪ あなたの隣に、知らない笑顔……」
「♪ わたしの知らない、優しい声……」
リリアが、びくりと肩を震わせた。
「……わ、私のこと?」
誰も答えなかった。
「♪ わたしに向けては、くれなくなった……」
「♪ あの日の笑顔が、そこにある……」
エリシアの頬を、一筋の涙が伝った。
彼女は驚いた。
(……あら)
(わたくし、泣いているのですね)
悲しいのだろうか。
もちろん、悲しい。
けれど、それだけではなかった。
ずっと胸の奥に押し込めていた気持ちが、歌になって溢れていた。
「♪ 嫌いになったと、言ってください……」
「♪ もう愛せないと、言ってください……」
「♪ 優しい嘘は、いりませんから……」
「♪ わたしの明日を、返してください……」
そこで。
老楽長の指揮棒が、止まりかけた。
彼の目から涙が落ちていた。
だが、止められなかった。
音楽家として、わかっていた。
この歌は、まだ終わっていない。
そして。
最後に、もっとも残酷な言葉が待っている。
「エリシア……」
アルフレッドは、もう怒鳴っていなかった。
彼はただ、目の前の婚約者を見つめていた。
彼女が、こんな顔をするところを見たことがなかった。
いや。
違う。
見ようとしてこなかったのだ。
そのとき、エリシアの旋律が変わった。
悲しいほど穏やかな旋律だった。
まるで、すべてを諦めた人が、最後に微笑むような。
「♪ 最後の言葉は、短くて……」
「♪ 十年の月日が、ほどけてく……」
「♪ あなたは誰かの手を取って……」
「♪ わたしに、さよならを告げました……」
彼女の目の前には、現実のアルフレッドがいた。
リリアの手を握っている。
ほんの少し前、彼が口にした言葉が蘇る。
『そなたとの婚約を破棄する!』
ああ。
そうだったのだ。
この歌は。
最初から、ここへ辿り着くための歌だった。
「♪ どうか幸せに、ならないで……」
その一節に、会場の空気が凍りついた。
けれど、すぐに。
「♪ ……なんて、言えたら楽なのに……」
エリシアは泣きながら微笑んだ。
「♪ あなたの明日が、晴れるよう……」
「♪ わたしは最後も、祈ってしまう……」
アルフレッドの喉が、小さく鳴った。
「……エリシア」
「♪ 初めて恋した、あの日のわたし……」
「♪ あなたに会えて、幸せでした……」
「♪ だから最後は、笑って言わせて……」
「♪ さよなら……」
一拍。
歌声が、細く震えた。
「♪ ……わたしの、初恋……」
最後の音が、消えた。
ヴァイオリンが、かすかに余韻を残す。
そして。
静寂。
誰一人として、動かなかった。
大広間には百人を超える貴族がいた。
王太子も。
その新しい恋人も。
断罪に加担した側近たちも。
誰も、何も言えなかった。
ただ、どこかで。
ぽたり。
涙が床に落ちる音がした。
エリシアは、ゆっくりと目を開いた。
「…………」
周囲を見回す。
泣いている令嬢。
俯いている騎士候補生。
顔を覆っている宮廷楽団員。
そして、蒼白になっているアルフレッド。
(…………あれ?)
エリシアは、ようやく我に返った。
(わたくし……)
(……歌ってしまいました?)
そう。
歌ってしまった。
しかも。
王太子から婚約破棄を宣言され、罪を糾弾されている真っ最中に。
反論もせず。
弁明もせず。
突然、初恋から失恋までを一曲にまとめて、堂々と歌い上げてしまった。
(…………)
(………………)
(どうしましょう)
頬が熱くなった。
(恥ずかしい……!)
人生最大の失態だった。
王太子妃教育で学んだ、あらゆる礼儀作法。
あらゆる危機対応。
あらゆる外交儀礼。
そのどれにも。
「断罪中に突然歌いたくなった場合の対処法」など、書かれていなかった。
「……あ、あの」
エリシアは、おずおずと口を開いた。
「……申し訳ございません」
誰も答えない。
「その……突然、歌が降りてまいりまして……」
沈黙。
「……つい」
つい。
その一言で済ませてよい出来事ではなかった。
だが、誰も突っ込めなかった。
なにしろ。
あまりにも、悲しい歌だったから。
最初に動いたのは、リリアだった。
「……ひどい」
彼女は、震える声で呟いた。
エリシアが顔を上げる。
「……リリア様?」
「ひどいです……エリシア様……」
リリアの目から、大粒の涙がこぼれた。
「そんな……そんな歌を歌われたら……」
彼女はアルフレッドの手を、そっと離した。
「私……悪い女みたいじゃないですか……!」
それは、いささか身勝手な抗議だった。
だが。
誰も彼女を責めなかった。
なぜなら、会場にいる全員が、同じことを考えていたからだ。
いや、実際そうなのでは?
しかし。
エリシアは慌てて首を振った。
「ち、違います! リリア様を責めるつもりなど、まったく……!」
「じゃあ、どうしてあんな歌を!」
「わ、わかりません! 本当に突然、降りてきたのです!」
「そんなことあります!?」
「わたくしだって初めてです!」
公爵令嬢と男爵令嬢が、涙目で言い合う。
その横で。
アルフレッドは、ただ立ち尽くしていた。
彼の耳には、まだ最後の歌詞が残っていた。
『あなたに会えて、幸せでした』
『さよなら、わたしの初恋』
あれほど望んでいた婚約破棄。
ようやく自由になれるはずだった。
なのに。
胸にぽっかりと穴が開いていた。
「……エリシア」
彼が一歩、踏み出した。
「私は……」
何かを言おうとした。
しかし。
その言葉を遮ったのは、意外な人物だった。
「殿下」
老楽長が立ち上がっていた。
王国随一の音楽家。
宮廷楽団長、オスカー・フォン・ベルンシュタイン。
普段は穏やかな老人が、恐ろしいほど真剣な顔をしていた。
「お話の途中、誠に恐縮ではございますが」
「……なんだ」
「ひとつだけ、確認させていただきたい」
老楽長は、エリシアを見つめた。
「ローゼンベルク公爵令嬢」
「は、はい」
「今の歌は……どなたの作品ですかな?」
「……わかりません」
「では、以前からご存じだった?」
「いえ……今、初めて……」
老楽長は目を閉じた。
そして、深く息を吸った。
「……なんということだ」
そして。
誰かが、拍手をした。
ぱち。
ぱち、ぱち。
それは、瞬く間に広がった。
大広間を揺るがす拍手。
泣きながら拍手する者。
立ち上がって拍手する者。
声を上げて泣く者。
エリシアは、完全に固まった。
(……え?)
(どうして?)
(わたくし、今、断罪されているのでは?)
そのとき。
アルフレッドが、絞り出すように言った。
「……待ってくれ、エリシア」
拍手が、少しずつ静まる。
「……私は、君に……」
彼は苦しそうに顔を歪めた。
「……こんな思いを、させていたのか?」
エリシアは、彼を見た。
十年間、愛し続けた人。
そして。
もう、自分を愛していない人。
彼女は、そっと微笑んだ。
「……殿下」
「……ああ」
「わたくしも、今の歌で初めて気づきました」
「……何に?」
「わたくし……」
少しだけ、声が震えた。
「……本当に、あなたを愛していたのですね」
アルフレッドの顔が、くしゃりと歪んだ。
そして、エリシアは静かに頭を下げた。
「……十年間、ありがとうございました」
それは。
王太子の婚約者としてではなく。
一人の少女としての、最後の挨拶だった。




