↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

婚約破棄の夜、わたくしに歌が降りてきた

掲載日:2026/10/18

王立アストレア学園の卒業記念パーティー。

煌びやかなシャンデリアの下、王国の未来を担う若き貴族たちが集う大広間で、一人の公爵令嬢が断罪されようとしていた。

「エリシア・フォン・ローゼンベルク! 私はここに、そなたとの婚約を破棄する!」

王太子アルフレッド・フォン・グランディールの宣言が、広間に響き渡った。

その隣には、可憐な少女が寄り添っている。

男爵令嬢リリア・ベルモント。

最近、王太子がことのほか親しくしている少女だった。

「そなたがリリアに行った数々の嫌がらせ、すべて明らかになっている!」

「……左様でございますか」

エリシアは静かに答えた。

美しい銀色の髪。

澄んだ紫水晶の瞳。

王国随一の淑女と称された彼女は、こんな場面でも背筋を伸ばし、完璧な礼節を保っていた。

「言い訳はないのか!」

「殿下が何をお聞きになりたいのか、わかりかねます」

「まだしらを切るつもりか!」

アルフレッドの怒声が響く。

周囲の貴族たちは息を呑んだ。

だが、エリシアは別のことを考えていた。

(……ああ)

(本当に、終わってしまうのですね)

十年間。

八歳で婚約してから、十年間。

彼女はずっと、アルフレッドを愛していた。

最初は、ただ優しく微笑んでくれる少年だった。

やがて、彼の隣に立つことが誇りになった。

そして、いつしか彼の幸せこそが、自分の幸せになっていた。

けれど。

いつからだっただろう。

彼が、自分を見なくなったのは。

「エリシア! 聞いているのか!」

「……はい」

その瞬間だった。

彼女の胸の奥に。

歌が、降りてきた。

それは突然だった。

どこかで聞いたことのある旋律でも、誰かが奏でている音楽でもない。

懐かしくて。

温かくて。

それなのに、どうしようもなく切ない旋律。

言葉が、ひとつ、またひとつと胸の中に浮かび上がってくる。

(……え?)

エリシアは戸惑った。

(何でしょう、この歌……)

「そなたには、王太子妃となる資格などない!」

アルフレッドが叫ぶ。

本来なら、弁明すべき場面だった。

あるいは毅然と反論するべき場面だった。

しかし。

エリシアの唇が、自然に開いた。

「♪……はじめて、あなたに会った日は……」

「…………は?」

アルフレッドが固まった。

エリシア自身も驚いた。

(えっ?)

(わたくし、今、歌いました?)

しかし、止まらなかった。

むしろ、歌わなければならないと、魂そのものが訴えていた。

「♪ 春の光が、庭に満ちて……」

その声は、驚くほど美しかった。

透き通るようなソプラノ。

けれど技巧を誇る歌声ではない。

まるで幼い少女が、大切な宝物をそっと取り出すような歌声だった。

「♪ 小さな手を、差し出したあなた……」

「エ、エリシア?」

「♪ わたしの名前を、呼んでくれた……」

エリシアの瞳に、遠い日の光景が浮かんだ。

八歳の春。

王宮の薔薇園。

慣れない宮廷作法に緊張して、ひとり立ち尽くしていた少女。

そんな彼女に、金髪の少年が笑いかけた。

『君がエリシア?』

『……はい』

『僕はアルフレッド。これから、よろしくね』

そう言って差し出された、小さな手。

あの手は温かかった。

「♪ あの日の空は、青く澄んで……」

「♪ あの日の風は、優しくて……」

「♪ 世界でいちばん、幸せなこと……」

「♪ それは、あなたに会えたこと……」

広間が静まり返った。

誰もが、呆然と彼女を見つめていた。

王太子の断罪を遮って歌い始める公爵令嬢。

前代未聞である。

だが、それ以上に。

その歌が、美しかった。

「……なんだ、これは」

アルフレッドが呟く。

そのとき。

会場の隅にいた宮廷楽団の老楽長が、ゆっくりと顔を上げた。

「……なんという旋律だ」

彼は五十年間、音楽に人生を捧げてきた。

それでも、こんな歌は聞いたことがなかった。

単純な旋律。

難しい技巧など何もない。

それなのに。

胸の奥にしまい込んだ、遠い日の初恋が蘇る。

老楽長は、無意識に指揮棒を握った。

「……弦を」

小さく呟く。

「弦を、合わせなさい」

ヴァイオリンが、そっと鳴った。

エリシアの歌に、音が寄り添った。

それは、まるで春の風だった。


「やめろ!」

アルフレッドが叫んだ。

「何をしている! 今はそなたの罪を問うているのだぞ!」

しかし、エリシアには聞こえなかった。

いや、聞こえてはいた。

ただ。

歌が、次の季節へ進んでしまったのだ。

旋律が変わった。

明るかった春の歌に、わずかな翳りが差す。

「♪ いつからでしょう、あなたの声が……」

「♪ 少しずつ、遠くなったのは……」

エリシアの胸が、きゅっと締めつけられた。

十三歳の秋。

アルフレッドが、初めて約束を忘れた日。

『すまない、エリシア。剣術の稽古が長引いてしまった』

彼はそう謝ってくれた。

彼女は笑った。

『お気になさらないでくださいませ』

本当に、気にしていなかった。

彼には王太子としての務めがある。

忙しいのは当然だ。

けれど。

十五歳の冬。

『今日は政務がある。茶会は中止だ』

十六歳の春。

『その話は、また今度にしてくれ』

十七歳の夏。

『……君は、いつも正しいことばかり言うな』

そして。

十八歳の今。

彼は、彼女に微笑まなくなっていた。

「♪ 並んで歩いた、あの道なのに……」

「♪ 気づけば影が、ふたつ離れて……」

「♪ あなたの歩幅に、合わせたつもり……」

「♪ それでも背中が、遠くなる……」

誰かが、息を呑んだ。

令嬢の一人が、そっと口元を押さえた。

「……やだ」

小さな声だった。

「……どうして、こんなに悲しいの……」

エリシアは歌い続けた。

「♪ 何かを間違えたのでしょうか……」

「♪ 何かを忘れたのでしょうか……」

「♪ あなたの好きな、わたしになるため……」

「♪ わたしは何を、なくしたのでしょう……」

その歌詞を聞いた瞬間。

アルフレッドの顔が、わずかに歪んだ。

彼にも覚えがあった。

かつてのエリシアは、よく笑う少女だった。

庭で蝶を追いかけ、花冠を作り、彼に見せに来た。

『アル! 見てください!』

そう呼ばれるのが好きだった。

いつからだっただろう。

彼女が「アル」と呼ばなくなったのは。

いつからだっただろう。

彼女が、完璧な公爵令嬢になったのは。

『殿下、お行儀がよろしくありません』

『殿下、そのご発言は慎重になさるべきです』

『殿下、王太子としての責務を……』

いつしか彼女は、彼にとって息苦しい存在になっていた。

だが。

その完璧さが、誰のためのものだったのか。

アルフレッドは、一度も考えたことがなかった。


歌は、さらに深く沈んでいった。

春は過ぎた。

夏も終わった。

秋の木々は葉を落とし。

やがて、冬が訪れる。

エリシアの歌声が、震えた。

「♪ あなたの隣に、知らない笑顔……」

「♪ わたしの知らない、優しい声……」

リリアが、びくりと肩を震わせた。

「……わ、私のこと?」

誰も答えなかった。

「♪ わたしに向けては、くれなくなった……」

「♪ あの日の笑顔が、そこにある……」

エリシアの頬を、一筋の涙が伝った。

彼女は驚いた。

(……あら)

(わたくし、泣いているのですね)

悲しいのだろうか。

もちろん、悲しい。

けれど、それだけではなかった。

ずっと胸の奥に押し込めていた気持ちが、歌になって溢れていた。

「♪ 嫌いになったと、言ってください……」

「♪ もう愛せないと、言ってください……」

「♪ 優しい嘘は、いりませんから……」

「♪ わたしの明日を、返してください……」

そこで。

老楽長の指揮棒が、止まりかけた。

彼の目から涙が落ちていた。

だが、止められなかった。

音楽家として、わかっていた。

この歌は、まだ終わっていない。

そして。

最後に、もっとも残酷な言葉が待っている。


「エリシア……」

アルフレッドは、もう怒鳴っていなかった。

彼はただ、目の前の婚約者を見つめていた。

彼女が、こんな顔をするところを見たことがなかった。

いや。

違う。

見ようとしてこなかったのだ。

そのとき、エリシアの旋律が変わった。

悲しいほど穏やかな旋律だった。

まるで、すべてを諦めた人が、最後に微笑むような。

「♪ 最後の言葉は、短くて……」

「♪ 十年の月日が、ほどけてく……」

「♪ あなたは誰かの手を取って……」

「♪ わたしに、さよならを告げました……」

彼女の目の前には、現実のアルフレッドがいた。

リリアの手を握っている。

ほんの少し前、彼が口にした言葉が蘇る。

『そなたとの婚約を破棄する!』

ああ。

そうだったのだ。

この歌は。

最初から、ここへ辿り着くための歌だった。

「♪ どうか幸せに、ならないで……」

その一節に、会場の空気が凍りついた。

けれど、すぐに。

「♪ ……なんて、言えたら楽なのに……」

エリシアは泣きながら微笑んだ。

「♪ あなたの明日が、晴れるよう……」

「♪ わたしは最後も、祈ってしまう……」

アルフレッドの喉が、小さく鳴った。

「……エリシア」

「♪ 初めて恋した、あの日のわたし……」

「♪ あなたに会えて、幸せでした……」

「♪ だから最後は、笑って言わせて……」

「♪ さよなら……」

一拍。

歌声が、細く震えた。

「♪ ……わたしの、初恋……」

最後の音が、消えた。

ヴァイオリンが、かすかに余韻を残す。

そして。

静寂。

誰一人として、動かなかった。

大広間には百人を超える貴族がいた。

王太子も。

その新しい恋人も。

断罪に加担した側近たちも。

誰も、何も言えなかった。

ただ、どこかで。

ぽたり。

涙が床に落ちる音がした。


エリシアは、ゆっくりと目を開いた。

「…………」

周囲を見回す。

泣いている令嬢。

俯いている騎士候補生。

顔を覆っている宮廷楽団員。

そして、蒼白になっているアルフレッド。

(…………あれ?)

エリシアは、ようやく我に返った。

(わたくし……)

(……歌ってしまいました?)

そう。

歌ってしまった。

しかも。

王太子から婚約破棄を宣言され、罪を糾弾されている真っ最中に。

反論もせず。

弁明もせず。

突然、初恋から失恋までを一曲にまとめて、堂々と歌い上げてしまった。

(…………)

(………………)

(どうしましょう)

頬が熱くなった。

(恥ずかしい……!)

人生最大の失態だった。

王太子妃教育で学んだ、あらゆる礼儀作法。

あらゆる危機対応。

あらゆる外交儀礼。

そのどれにも。

「断罪中に突然歌いたくなった場合の対処法」など、書かれていなかった。

「……あ、あの」

エリシアは、おずおずと口を開いた。

「……申し訳ございません」

誰も答えない。

「その……突然、歌が降りてまいりまして……」

沈黙。

「……つい」

つい。

その一言で済ませてよい出来事ではなかった。

だが、誰も突っ込めなかった。

なにしろ。

あまりにも、悲しい歌だったから。


最初に動いたのは、リリアだった。

「……ひどい」

彼女は、震える声で呟いた。

エリシアが顔を上げる。

「……リリア様?」

「ひどいです……エリシア様……」

リリアの目から、大粒の涙がこぼれた。

「そんな……そんな歌を歌われたら……」

彼女はアルフレッドの手を、そっと離した。

「私……悪い女みたいじゃないですか……!」

それは、いささか身勝手な抗議だった。

だが。

誰も彼女を責めなかった。

なぜなら、会場にいる全員が、同じことを考えていたからだ。

いや、実際そうなのでは?

しかし。

エリシアは慌てて首を振った。

「ち、違います! リリア様を責めるつもりなど、まったく……!」

「じゃあ、どうしてあんな歌を!」

「わ、わかりません! 本当に突然、降りてきたのです!」

「そんなことあります!?」

「わたくしだって初めてです!」

公爵令嬢と男爵令嬢が、涙目で言い合う。

その横で。

アルフレッドは、ただ立ち尽くしていた。

彼の耳には、まだ最後の歌詞が残っていた。

『あなたに会えて、幸せでした』

『さよなら、わたしの初恋』

あれほど望んでいた婚約破棄。

ようやく自由になれるはずだった。

なのに。

胸にぽっかりと穴が開いていた。

「……エリシア」

彼が一歩、踏み出した。

「私は……」

何かを言おうとした。

しかし。

その言葉を遮ったのは、意外な人物だった。

「殿下」

老楽長が立ち上がっていた。

王国随一の音楽家。

宮廷楽団長、オスカー・フォン・ベルンシュタイン。

普段は穏やかな老人が、恐ろしいほど真剣な顔をしていた。

「お話の途中、誠に恐縮ではございますが」

「……なんだ」

「ひとつだけ、確認させていただきたい」

老楽長は、エリシアを見つめた。

「ローゼンベルク公爵令嬢」

「は、はい」

「今の歌は……どなたの作品ですかな?」

「……わかりません」

「では、以前からご存じだった?」

「いえ……今、初めて……」

老楽長は目を閉じた。

そして、深く息を吸った。

「……なんということだ」




そして。

誰かが、拍手をした。

ぱち。

ぱち、ぱち。

それは、瞬く間に広がった。

大広間を揺るがす拍手。

泣きながら拍手する者。

立ち上がって拍手する者。

声を上げて泣く者。

エリシアは、完全に固まった。

(……え?)

(どうして?)

(わたくし、今、断罪されているのでは?)

そのとき。

アルフレッドが、絞り出すように言った。

「……待ってくれ、エリシア」

拍手が、少しずつ静まる。

「……私は、君に……」

彼は苦しそうに顔を歪めた。

「……こんな思いを、させていたのか?」

エリシアは、彼を見た。

十年間、愛し続けた人。

そして。

もう、自分を愛していない人。

彼女は、そっと微笑んだ。

「……殿下」

「……ああ」

「わたくしも、今の歌で初めて気づきました」

「……何に?」

「わたくし……」

少しだけ、声が震えた。

「……本当に、あなたを愛していたのですね」

アルフレッドの顔が、くしゃりと歪んだ。

そして、エリシアは静かに頭を下げた。

「……十年間、ありがとうございました」

それは。

王太子の婚約者としてではなく。

一人の少女としての、最後の挨拶だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。