裏庭のヘカテ
十七歳の春。
自分のことを平熱の人間だと信じて疑わないアリューゼルは、一人の女の子と出会った。
ほんの少しだけ言葉を交わす。
ただ、それだけのことだった。
また会っても、短い会話をするだけ。
なにか約束をするわけでもなく、どこかへ連れ立つわけでもない。
でも、いつの間にかアリューゼルは、その場所にたびたび赴くようになっていた。
話した内容を思い出し、次に会うための準備を始めていた。
会えることを期待しているのかもしれなかった。
あれが、友達というものなのかもしれなかった。
もっと彼女と言葉を交わしたかった。
彼女を理解したかった。
そしたら何が起きるのかを、見届けたいのかもしれなかった。
「ねえ、あなた。もしかして恋人でもできたの?」
アリューゼルが振り返ると、なかなか家に寄り付かないはずの姉がいた。
偶然廊下を通りかかっただけなのか。
着古した寝巻きの裾を引きずって、なぜか羽飾りの付いた帽子をかぶっていた。
「やあ姉さん、帰ってきてたんだね。とても素敵な帽子だと思うよ」
姉は心底嫌そうに帽子を外した。
「そんなことより答えなさいよ」
そんなことを言われても、アリューゼルは笑うしかなかった。
これが笑わずにはいられないのだ。
「残念だけれど、僕は、恋人を作れるような人間じゃないよ」
数冊くくっただけの本の束を抱える。
空いた手で襟元のタイを直す。
「じゃあ、なんでそんなに学園に行くのが楽しそうなのよ」
「あれ、そんなに楽しそうだったかな」
頬を触ってみても、確かめようがない。
「にやついてて気持ち悪い」
姉はげんなりとしている。
「それはとても良いことじゃないかな」
少なくとも、悪いことではないだろう。
「らしくないかもしれないけれど。でも、とても健全で良いことだと思うよ」
アリューゼルは玄関のノブに手をかけた。
朝のひんやりとした風が流れ込んでくる。
「それじゃあ、いってきます。姉さん、今日もとても綺麗だよ」
「せめて着飾った後に言いなさいよ。薄っぺらい」
§
王立魔法学園の歴史は古い。
三百年ほど前、ときの宰相が宗教権力に対抗するため、魔法体制を整えるべく造らせたものだった。
王都の一等地という場所に、煉瓦造りの学寮と、格式高い学舎がいくつも並んでいる。
しかし。
だからこそ、一つの弊害を孕んでいた。
「そのとき俺は言ってやったんだ。百年早いってな」
「うそ! もしかしてあの人たち付き合ってるってこと?」
つまりは、とても狭いのだった。
アリューゼルは少しだけ気後れしながらも、身体を横にして「ごめんね」なんて言いながら押し分け始めた。
「アリューゼル、こっち!」
明るい声とともに、手首が握られる。
しなやかで、柔らかい感触。
そのまま有無を言わさず引っ張られた。
「ルシエット、おはよう。素敵なリボンだね」
「でしょう?」
彼女ははにかみながら、金色の毛先をつまんだ。
「あ、それでね。さっき生徒会長に会ったのよ」
人混みから連れ出され、窓際の空いた場所に招かれる。
もしかしたらこんな風に、この場所には人が集まっているのかもしれなかった。
「それでね、その会長から、甘くてすごく良い匂いがしたの」
「……へえ」
「それって、すごく変じゃない?」
アリューゼルは一度まばたきをする。
「確かに、変かもしれないね」
「そうでしょ。男の人があんなハンドクリームを使うなんて、絶対に何かあるのよ」
ルシエットの目は真剣だった。
そして周囲を見渡して、内緒話をするように声を押さえた。
「それに、私気づいたの」
アリューゼルはそれに応えて、少しだけ身をかがめた。
「あのハンドクリーム、きっとあそこの子と同じものよ。だって、前に同じ匂いがしたもの」
顔を離すと、ルシエットは確信に満ちたように頷いた。
アリューゼルは一度だけ頬を掻き、そして周囲を見渡してみた。
「その……『あそこの子』と、同じ匂いだったんだね」
「ええ、そうなの」
廊下には、何人もの女生徒がいた。
制服のローブにガウンと、首元にリボンを結び、みな同じ格好をしている。
何人かで楽しそうに話をしている集団がいる。
ひとり颯爽と歩く女子がいる。
目立つ男子生徒の脇を、俯いて通り過ぎようとする小柄な女生徒がいる。
「どうにも、僕には見当がつかないよ」
ふいと、その小柄な女生徒がアリューゼルを見る。
そのとき、ルシエットがくいっとアリューゼルの腕を引き寄せた。
「あなた学年首席なんだから、この謎はきっと解けるわ」
「これは謎解きの話だったんだね」
廊下に目を向ければ、もうそこにいる顔ぶれは変わっていた。
「そうなの。プレゼントなのか。それとも、もしかしたら手を握り合ったりしたのかも」
ルシエットの目が輝いている。
「触れ合っちゃうくらいなのだから、もしかすると、あんな雰囲気なのに恋人の前では甘々のデレデレで、制服デートなんてしちゃってるのかもしれないでしょう?」
彼女の動きに合わせてリボンが揺れている。
「ルシエットは元気だね」
「前にもこんな発見をしたんだもの。みんな清楚なふりをして、どんどん恋を進展させていってるのかもしれない」
距離が近づいてくる。
「そう思わない?」
「……それはすごい発見だね」
ルシエットは「はぁ」と大きくため息をついた。
「さすが、学年首席のアリューゼルなんだから」
「ありがとう、とても光栄な評価で嬉しいよ」
窓の外から鐘の音が響いた。
廊下に集まっていた生徒たちが、それぞれに散っていく。
そんな中、「そうそう」と言いながら、ルシエットが付け足した。
「生徒会長と会ったとき、あなたを探していたのよ」
そのまま元気に教室に駆けていく姿を、アリューゼルは見送った。
窓から見上げる空は青い。
「鐘鳴っちゃったな」
授業を受けるべく、ひとり教室へ向かった。
§
アリューゼルが生徒会室の扉を叩いたのは、講義を終えた学生の声で構内が騒がしくなってからだった。
「来てくれて助かったよ。見ての通り手が離せなくてなあ」
そう言いながら、会長は垂らされた蝋に印を押した。
艶やかに膨らんだ赤い蝋に、生徒会の紋章の形が刻まれる。
「とても、たくさんの手紙ですね」
「ああ、百六十通ある。これでも厳選できたんだが……」
隣に控えていた書記が、次の手紙に蝋を垂らしている。
「はい会長、次です」
「待て、まだ前のが固まってない」
「ランプの油があと少しですよ……」
「くそ、知らんぞ。どうなっても知らんからな」
「ああ! 駄目です。ちゃんと見極めてください」
その様子を見たアリューゼルは、傍らの椅子に腰かけて、手持ちの本をぱらりとめくった。
「遠慮して立ち去ったりしないのがお前らしい。大丈夫、口は暇だからな。話はできる」
その開いたばかりの本を閉じた。
「とても評判のいい会長の仕事を見ながら話ができるので、僕も嬉しいですよ」
「お前は本当に……。わかって言ってるならタチが悪いんだがなあ」
会長は頭を軽く振った。
「それで本題だが。いつものように、ちょっとした問題の解決をしてほしい」
パキッという音と共に、真鍮の印が引き剥がされた。
「問題の、解決ですか」
「できるだろ?」
アリューゼルにしてみれば、何をどうすれば良いのかが見当もつかない分野である。
だから、答えはいつもと同じになる。
「僕にはたぶん、何もできないですよ」
書記が次の手紙を差し出す。
蝋を熱した甘い香りが、わずかに漂ってくる。
「そうは言いつつも、いつもなんだかんだで実績があるからな。まあ、話だけでも聞いてほしい」
積まれた手紙が少しずつ減っていく。
しかし、最初から百六十通あるという手紙の山にしては、小さすぎるように思えた。
「会長は、今朝もこの作業をしていましたか?」
「していたが。それが、どうかしたか」
アリューゼルは首を振った。
「いいえ。もしそれが、僕にできる範囲のことなのであれば」
パキッという音。
そして会長は息を吐いた。
「助かるよ」
深刻になりすぎないよう努めている、そんな声色だった。
「最近、学寮で空き巣未遂の騒ぎがあったのは知ってるか?」
「アンブル寮でしたっけ?」
「ああ。それも、よりにもよって東棟だったんだが……」
そこでアリューゼルは首を傾げた。
「ああ、お前は通学だったか。どの寮でも、東棟が女子棟で、西棟が男子棟なのは共通なんだ」
「なるほど。それは……大変なことですね」
自然と視線が本に落ちていた。
「待て待て、寮の防犯を相談してるんじゃない。これはほんの導入だ」
考えをまとめたいのか、真鍮の印を押すためなのか、会長は深く顔を伏せた。
「一旦、全部言うとだな……」
会長が語った内容を、アリューゼルは反芻する。
寮への侵入未遂の他にも、ここ最近学園の周辺では妙な事件が続いていた。
生徒への尾行。妙な接触、待ち伏せ、生徒を探っていると思われる不審な男の告発。
日増しに数が増えていっているということだった。
「それはずいぶんと……治安が、悪くなっているようですね」
「お前はどうにも理解が早くて助かるよ、まったく」
そうは言われても、と、アリューゼルとしては愛想笑いを浮かべるしかない。
会長の話は、学生には少しばかり荷が勝つのではないだろうか。
「ただの治安悪化じゃあ説明がつかないんだ。被害に遭ったのはこの王立魔法学園の生徒だけだからな」
会長は封蝋に視線を落としながら続ける。
だからだろうか。どこか低く、泥濘が絡みついたような声だった。
「学園自体を狙った陰謀か。でもどうにも、そこまで言うには規模が小さすぎる」
書記から手紙が渡される。
でも、印を持つ手は動かない。
「ハワード・モーゲル、という生徒に聞き覚えはあるか」
アリューゼルは首を振る。
「目立つ生徒ではあるが、しかしこれといって問題になるような悪さをする生徒ではなかったんだが……」
そこで一度、言葉を切る。
「どうにも裏町にかなりの金額が流れ込んでいるらしい。それも、その出元がハワードらしくてな」
真鍮の印が静かに蝋に押し付けられる。
しかし、続く言葉は出てこない。
しばらくして、パキッと聞こえた後に、アリューゼルは「そうなんですか」と返事をする。
「俺としては、彼が何かしらのトラブルに巻き込まれていることを信じている。だからこそ、お前に頼みたいんだ」
西日が会長の顔に陰を落としていた。
「ハワード・モーゲルを調べて、彼が何をしていて、何をしていないのかを確かめてくれないか」
会長の手は止まっていた。
書記が垂らした蝋を見ながら困っている。
「えっと……」
出てきた言葉は、たぶん言いたかったことではなかった。
「あくまで、僕にできることだけ、ですけれど。……それ以上のことは、どうにも手に負えそうにないですから」
§
ハワード・モーゲルは一般的な、血筋の正しい、寮育ちの生徒だった。
成績も良好で、少しだけ『勇ましい』ところはあるが、だからこそありふれていて健全なようにも思えるのだ。
「あー、わるい。あそこの子爵のことだと、俺も部外者ってわけじゃないんだよなぁ」
遠かった彼の声が大きくなる。
アリューゼルは音の立ちやすいカトラリーを置いて、代わりに木製のカップを手に取った。
「いや、それがなんか最近やたら俺に意見聞いてくるんだよ。正直めんどくさくてさ」
三人ほどの男子生徒の集まり。
人目を引くのは確かなようで、見つけるのに苦労はしなかった。
「まあ、俺が言った方が丸く収まるから仕方ないっていうか」
アリューゼルにしてみれば、食堂での談笑は特に気にならない。
ただ、強いていうのであれば、周りは少しばかり迷惑そうにしている。
眼鏡をかけた男子生徒が、本を衝立のようにして遮っている。
小柄な女生徒が、早々に食事を終えて立ち去っていく。
アリューゼルはその様子を眺めたあと、窓の外に視線を移した。
芝に落ちた陽だまりに、鳥の影が通り過ぎる。
「あれ、アリューゼルだ。珍しいね」
振り向くと、そこには金髪の少女が立っていた。
「こんにちは、ルシエット。今日は一段と愛らしいね」
彼女はなぜか目を泳がせ、後ろにいる友人たちを気にした素振りをする。
「あ、もしかして。席取っててくれたの?」
テーブルには、ずいぶんと余裕があった。
アリューゼルとしては空席にそのまま座っただけだが、確かに一人で使うにはもったいない広さなのかもしれなかった。
「うん。良かったら、お友だちも一緒にどうぞ」
「ありがとう。遅れちゃったから、心配してたんだよ」
「窓際だ。いい席で良かったね」
「ありがとうございます」
口々に違うことを述べながら、女生徒たちが席に座り始める。
アリューゼルはカップを手にして口をつけながら、窓の外を眺めようとして……
何かおかしかった。
もう一度ハワードたちを確かめる。
「いや、交易って人脈とセンスの世界だからさ、まずは顔を広げるんだよ」
彼らが談笑をしているのは柱の影のような場所だった。
どちらかというと小規模な席で、それを繋げて使っているのかもしれない。
広い席は空いていたのに、彼らは使わなかったのか。
「ね、アリューゼルはどっちだと思う?」
ルシエットはいつものように楽しそうにしている。
アリューゼルは目を細めた。
「そうだね。ルシエットと同じ意見だと思うよ」
それからアリューゼルは、暇を見つけてはハワード・モーゲルの観察に時間を当てた。
「ほら、もっと風を読むんだ! 上層のほうが安定するんだよ!」
午後の訓練場に、ハワード・モーゲルの声が響く。
飛空杖で飛び立った彼は、ぐんぐんと高度を上げていく。
続く生徒たちの姿も、みるみるうちに小さくなっていく。
小柄な女生徒は早々に諦め、高度を落としていく。
「え、なんでここにいるの!?」
驚いた声に振り向くと、そこにはまたルシエットが立っていた。
そして、午後の講義を終えたあとの図書館。
静寂の中に、わざとらしく本が床に落ちる音が響いた。
「こうも行く先々で現れるとは。さては、私に恋でもしたなっ」
「僕は図書委員だから、図書館にいるのは当然だよ。ルシエット」
からかうように囁いてきたルシエットに、拾いあげた本を渡す。
「でも、最近よく会うね。普段はどこにいるのかわからないのに」
アリューゼルはカウンターの奥に戻ると、簡易の椅子に座り直した。
「いつもは静かな場所で読んでいるからね」
読みかけの本を手に取り、読書中のハワード・モーゲルを一瞥してから、視線を落とす。
「……私も、もう少し図書館に来るようにしよっかな」
その言葉には、なにか気になるものがあった。
見ると、彼女は不安げな表情をしている。
「普段図書館に来ていなかった人が、突然来るのは何か理由があるのかな?」
「え、ええ。そ、それは。べ、べつに。ただ……本が読みたかっただけだから」
もう一度、ハワード・モーゲルを確認する。
さっきからずっと同じ本を読んでいるが、ページをめくる速度は遅い。
「そうだね確かに。どうしても本を読みたくなることは、あるものだね」
それは、とても共感できるし、納得できる感情だった。
「で、でしょ」
ふいに、視界で影が動く。
普段から図書館で見かける小柄な女生徒が、出ていくところだった。
「アリューゼルは、やっぱり身近な人に……親近感が湧くのかな?」
すぐに理解ができなくて、少しだけ反芻する。
「身近な人に親近感が湧くのは、当たり前のことじゃないかな?」
「そうだよね。やっぱり、そうだよね」
また、何かひっかかるものがあった。
しかし、何がおかしいのかがわからない。
「あ、アリューゼルはさ……」
「ねえ、ルシエット」
ルシエットの肩が跳ねた。
「実は僕、今とても悩んでいることがあるんだ」
そして、こくりと頷く。
「それは、ルシエットに聞けば、もしかしたら簡単に解決することなのかもしれないけれど、でもとても困らせることになるかもしれないんだ」
「いくらでも聞いてっ!」
なんとなく、アリューゼルは彼女の頭に手を触れた。
そして、閉架書庫の鍵を開けると、手招きで彼女を呼び寄せる。
「内緒だよ」
「う、うん……」
胸元に手を当てながらついてくるルシエット。
「暗いけれど、明かりは我慢してもらえるかな」
「平気。私も、顔とか、恥ずかしいし」
声が大きくならないように、身体を少し寄せる。
「本当は、こういうのは苦手なんだけれど。なんていうか、このままだといつもの僕を取り戻せないんだよ」
「うん」
だから、聞いた。
「ハワード・モーゲル君について、教えてくれないかな」
「……はい?」
いくら待ってもルシエットはそれ以上言葉を発しない。
「こういう、どうでもいいことで人に頼るのも気が引けるけど。ちょっと、頼まれてて」
「あっ、あ~。そういう……」
そして、彼女は深く、深くため息を吐き出した。
「さすが、学年首席のアリューゼルなんだから」
「ありがとう、とても光栄な評価で嬉しいよ」
なぜか、足を踏まれてしまった。
「あのね、アリューゼル。ハワードのことは私たちの界隈ではわりと有名なの」
「界隈?」
こくりと頷かれる。
「恋に浮かれたとんちき野郎」
「……とんちき野郎?」
こくりと頷かれる。
「アリューゼルは知らないのかもしれないけれど。人は恋をすると、相手を知りたくなって、会いたくなって、とても行動的になるの」
「じゃあ、ハワードは今恋をしているの?」
はあ、とため息をつかれる。
「そうよ」
では、いったい誰にだろうか。
考えるまでもないのではないだろうか。
食堂でも、訓練場でも、さっきも。ハワードがいるところに彼女がいた。
小柄な少女。
ハワードは、彼女の近くに現れていたのだ。
食堂ではわざわざ空席の広いテーブルを避けてまで、彼女の近くに座っていた。
普段本を読まないのに、図書館まで来て本を開いていた。
ハワードが、彼女の近くにいたかったから。
「ぷっ、あはは、あははははは」
「え、ど、どうしたの!?」
アリューゼルは笑ってしまった。
これが笑わずにはいられないのだ。
「ハワードが好きなのは、エルシーなのかと思ったら……」
「笑うのは可哀想だよ。あの子小さいしおとなしいから、ハワードの相手だなんて不憫じゃない」
大人しい。
そうだ。確かに大人しいのだろう。
「どうやら、僕の問題は解決したようだよ」
終わったのだ。
「それがわかっただけで、もういいの?」
「うん。こういうのは苦手だったんだ。僕ができるのは、僕ができることだけだから」
§
あれから一週間が経っていた。
空には穏やかな晴天が広がっていた。
夏の到来を告げる眩しい白雲がゆっくりと流れていく。
正門からもっとも遠く、なんの設備も隣接していないこの場所は、その位置関係から裏庭と呼ばれていた。
とはいえ、その名称の響きからはかけ離れた、手入れの行き届いた庭だった。
短く刈り揃えられた芝と、肉厚の葉が生い茂る立木の木漏れ日。
アリューゼルは、ハワードを調べることをやめていた。
だからここに、毎日のように訪れることができている。
お気に入りのベンチに座りながら過ごす午後。
人の声の届かない場所で。
風の音だけを聞きながら。
好きな本を読む。
それがなんだか、健全な学生らしさみたいなものを感じさせるのだった。
一つだけ、鐘の音が鳴る。
訓練場の使用時間の終わりを告げる音だった。
アリューゼルはページをぱらりとめくった。
ピーヒョロロと鳶の鳴き声が通る。
ちらりと備え付けのテーブルを見て、何も乗っていないことを確かめる。
そしてまた、ページをめくった。
そこに、澄んだ声が通り抜けた。
「かの公爵閣下はたいそう立派な方であると、老僕たちはみな口を揃えたのだ。それが嘘偽りなき本心であることを誓い、滞りなく申し述べていった」
気づけば、隣に彼女が座っていた。
アリューゼルと同じように本を開き、視線を落としたまま続ける。
「しかし、その誰一人として、件の公爵閣下を見たことはなかったのだ」
素朴な女の子である。
書庫を住みかにしていそうな、従順という語を擬人化させて服を着せたような、そんな、小柄な少女である。
「やあ、エルシー。昨日ぶり、だね」
アリューゼルは本を置いた。
「わたしも、読んだことがあるの」
小さな口がわずかに開く。
顔を俯かせたまま、彼女の視線は今しがたアリューゼルが置いた本に向いていた。
「ああ、僕も二回目なんだ。いい本だよね」
「アリューゼルみたいだと思った」
触れれば折れてしまいそうな女の子。
というのが、彼女と初めて会ったときの印象だった。
「へえ、とても光栄な評価で嬉しいよ」
彼女は小さく笑う。
「だって、誰も見たことが無いでしょ?」
今では、それだけではないことをアリューゼルは知っている。
「今日は、何を読んでいるんだい?」
持っている本に水を向けると、彼女は嬉しそうに表紙を見せてくれる。
「『泉のヘカテ』よ。素敵なお話でしょう?」
「悲しいお話、ではなくて?」
彼女は本をテーブルに乗せる。
そして、水筒を取り出して、持参した二つのカップに注ぎ始めた。
「わたしね、最後ヘカテは生きているんじゃないかと思っているの」
アリューゼルの前にもカップが置かれた。
芳醇な紅茶の香りと、酸味がかった檸檬の香りが微かに混じっている。
触れると、少し熱かった。
「それは斬新な解釈だね」
「だってね」
彼女は口元にカップを近づけ、はたと止まって息を吹きかける。
そして、口を付けずにテーブルに置いた。
「彼女には新しい人生が待っているもの。小舟で流された先の都市は父親が治めてはいないのだから、ただのトロフィーではなくなった彼女は、自由に生き方を選べるわ。それって、やる価値があることだと思うの」
「なるほど」
アリューゼルは紅茶に口を付けた。
茶葉由来のほのかな甘みと、檸檬の酸味が口の中に広がり、そして鼻を抜けていく。
「そうすると、彼女は相当な策略家なわけだ」
「ううん。生き残る知恵なのよ」
エルシーは、『泉のヘカテ』をひと撫でする。
「女の子は英雄にはなれないわ」
「へぇ」
風がエルシーの髪を撫でた。
書籍談義に花を咲かせる庭でのひとときというのは、とても満ち足りたものなのだろう。
隣にいる少女が、深い洞察を語ってくれるのであれば、なおのこと。
アリューゼルは、この時間が嫌いではなかった。
「ハワード・モーゲル君を知っているかい?」
エルシーはまた紅茶に息を吹きかけていた。
「魔法実習が一緒なの」
動きが止まり、また口を付けずにカップを置いた。
「彼ね、とても怖かったの」
「そうだったのか」
彼女はうつむいたまま、それ以上は語らない。
そんな彼について、アリューゼルは顛末を聞いていた。
「なんでも、魔法実習のときに杖が暴発して、カエルのような声しか出なくなったらしいんだ」
エルシーは鞄から角砂糖を取り出して、三つほど入れた。
小さな手でカップを抱え、そのまま一口嚥下する。
温かさからか、深い息が漏れていた。
「そうなの」
「彼は今日、寮を引き払って行ったそうだよ」
エルシーは紅茶を置いた。
「魔法の暴発って、怖いわね」
とても柔らかい声だった。
「わたしも一つ、噂を聞いたわ」
今度はアリューゼルが紅茶に口を付けているところだった。
それを置いて、声の主に顔を向ける。
「どんな噂なのかな」
エルシーは周囲を見渡して、声を小さくする。
「なんでも、中世の魔女が使っていた呪い薬のレシピが書かれた資料の、翻訳に成功したらしいの」
「へえ、それは面白そうだね」
彼女の頷く様は、小動物のようだった。
「それでね、カエルの呪いに必要な材料って、蜥蜴の尻尾でも硫黄の灰でもなかったの」
そして、人差し指を口元で立てる。
「檸檬だったんだって」
彼女はちらりと、アリューゼルが先ほどまで口を付けていた紅茶を見やる。
その瞳は嬉しそうに輝いていた。
「それは、大変なことだね」
「そうでしょ。もし檸檬が禁制品になったら、レモネードの無い夏を過ごすことになるのかも」
そう言って、彼女は檸檬の香りを楽しむようにして、カップを傾ける。
そして、砂糖の甘さを堪能するように目をつむった。
「じゃあ僕も、お礼に面白い話をしなくちゃね」
「ええ、楽しみ」
ベンチに何気なく置かれた彼女の手。
それが、アリューゼルの手の甲に触れる。
少し撫でるようにして、離れていった。
「今度、図書館の管理に監査が入ることになったんだ」
「そう、大変そうね」
アリューゼルはテーブルに置いていた本を取った。
「そう、大変なんだよ。なんでも貸し出し記録に偽名を使っている人物もいるらしくて、その照合をするらしいんだ」
本の奥付の横に付いている、貸し出しカードを取り出した。
その末尾にはアリューゼルの名前が書いてある。
「膨大な作業になるのかしら」
「なるだろうね。なにせ図書館の蔵書は多いわけだし」
エルシーの持っていた本にも手を伸ばす。
そこに、小さい手が重ねられた。
「アリューゼルは志願するの?」
「それを悩んでいるんだ。確かに僕は図書委員だけれど、ここでのひとときを代償にするのは気が引けるから」
アリューゼルは軽く喉に触れる。
それを見て、エルシーは鞄から角砂糖の小瓶を取り出した。
「わたしもこの時間は嫌いじゃないわ。でもね、きっとアリューゼルには良い経験になると思うの」
装飾の施された、エルシーらしい、可愛らしい小瓶だった。
「そうだね。参加するのも、悪くないだろうね」
「応援するね」
そう言って、エルシーは角砂糖を三つ、アリューゼルのカップに入れる。
アリューゼルはその紅茶を飲み干した。
とろりとした、強烈な甘さが口に広がる。
「でも、わたしはここに来続けると思うの」
きっとエルシーは、ルシエットのような女の子ではないのだろう。
「僕もなるべく来るよ」
そして、そんな彼女のことを気に入っているアリューゼルも、本当は健全な学生ではないのだ。
それが、どうにも。
とても心地よかった。
§
「アリューゼル。ことの顛末を詳しく教えてくれ」
生徒会長がアリューゼルを訪ねてくるのは必然だった。
「僕は何もしていないですよ。顛末は会長もご存知でしょう?」
アリューゼルがするのは、後片付けだけである。
こちらについては、何をどうすれば良いのかの見当がつく分野である。
「あのなあ」
「問題は、解決したのですか?」
苦虫を噛み潰したような顔。
「……している」
「それは良かった」
「しかしだなあ」
食い下がる会長に対して、アリューゼルが言えることは多くない。
「魔法の暴発って、怖いですね」
エルシーは触れれば折れそうな女の子である。
ハワード・モーゲルは、そんなエルシーに触れたのだ。




