カラカラ
ブーツを履いて舗装路を歩く、君の足音がなかった。
気付いたのは一週間前からだった。最初は気のせいかと思って、僕は何も言わなかった。
異変は、徐々に君を蝕んでいった。
スカートの布ずれの音が消えた。
パスタを巻き取る食器の音が消えた。
君を抱きしめた時に聴こえるはずの、心臓の音が消えた。
それでも君は生きていた。
「君の音が聴こえないんだ」
僕は言った。君の胸に耳を寄せたまま。
「どうして?」
君は言った。僕の頭を撫でながら。
「わからない」
「そう。こうして話せるのに、なにか不都合がある?」
「……ないよ」
僕は答えた。本当は不安だったのに。
医者に診てもらった。僕の耳を、だ。
異常は何もなかった。
精神科にも行った。睡眠薬を貰った。
君の身体のどこかに原因があるとしても、誰に相談したらいいのかわからない。
「 」
とうとうその日、君の声が消えた。
「君の声が聴こえない」
「 」
「聴こえないんだよ。どうしたらいい」
「 」
「……」
君の口が開いたり閉じたり、ぱくぱくと、池の鯉のように動いている。
君は微笑んでいる。
僕は台所から包丁を取ってきた。
「 」
君は微笑んでいた。僕に何かを伝えようとしていた。
僕は包丁を振りかぶる。
「 」
君は両腕を上げて顔をかばう。その腕をこじあけて、僕は切っ先を君の口にねじこむ。
君の唇を切り裂いた。
君の喉を切り裂いた。
君の胸を切り裂いた。
何かが君の身体に詰まっていて、君の音を邪魔しているのだろうと思っていたんだ。
でもそんなものはどこにもなかった。
全身が君の血に塗れて、赤く、ぬるぬるとして、鉄臭くて……
ふと、思い出した。
僕は、君が大好きだったゴッホの複製画が掛かっている壁を見た。
黄色いひまわりを切り裂いて、僕は壁を掘り進めた。包丁が欠けたので、僕は立てかけてあったつるはしを手に取った。叩きつけると額が二つに割れて落ちた。
いつからそこにいたんだろうか。
白く、肉が完全に腐れ溶けた君が、そこには居た。
崩れ落ちていく君の音が、カラカラと鳴る。
「今朝、三十年間行方不明だった田中美音さんが遺体で発見されました。遺体は損傷が激しく、警察は発見現場である民家に住んでいた男性を重要参考人として保護しています」
終




