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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第1章 妙知焼け
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(1-8)再会


 大坂城から南東へ二里の場所にある平野郷は、森と田園が広がる一帯であり、人家はさほど多くない。商家などはほとんど存在せず、船場の殷賑ぶりとは好対照である。

 生まれてこのかた、石庵は京都、江戸、讃岐、大坂船場と移り住んだが、一貫して街中で暮らしてきた。讃岐にいた四年間も、金毘羅大権現の門前町に住んでいたため、参拝客で一年中賑わっていた。そのため、閑静な環境下で暮らすのは生涯で初めての経験だった。

 妙知焼け後、含翠堂の井上赤水の屋敷で寓居することになった石庵父子は、火事で焼け出された衝撃からようやく立ち直りつつあった。石庵は、含翠堂で儒学の講義を一部受け持ちし、春楼は、井上家の家僕に混じって炊事や掃除、洗濯に汗を流した。

 石庵は、病弱だった春楼へはあまり儒学の手ほどきをしてこなかった。七歳を過ぎてから、無理のない程度に四書の素読をやらせ、かつ講釈を行ったが、それ以上に勉強を強いることはしなかった。とにかく達者に育ってほしい、それが石庵の切なる願いであった。

 早起きの石庵は、薄明かりのうちに赤水宅を出て、近くの平野川まで散策するのが日課であった。川は穏やかに流れていて、木々からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。川面を眺めながら、両腕を目いっぱいに広げて朝の空気を存分に吸い込む。

 今まで賑々しい中で暮らすのに慣れていた石庵にとって、平野郷での毎日は新鮮だった。

「このまま平野郷に永住し、春楼の成長を見守りながら、含翠堂の講師として生涯を終えるのも悪くない」

 そんなことを漠然と考えつつ、丸薬製造もおいおい再開しようと思い始めていた。

 船場一帯はほとんどが灰燼と化したと伝わっていた。石庵は、もと住んでいた家や、その近隣がどうなったかが気にはなったが、現実の恐ろしさを目の当たりにする勇気がなく、妙知焼け以降、一度も平野郷から外へは出ていなかった。

 家僕の嘉吉は、避難途中にはぐれて以来、行方知れずである。多松堂の門下生たちの消息も分からないままである。みんな無事でいてくれたらいいが、と石庵は日々祈っていた。

 夏が過ぎ、涼風が肌に冷たく感じられるようになったある日のこと、井上家の家僕が自室にいた石庵を呼びに来た。石庵の門下生と名乗る者三人が訪ねてきたという。

 石庵はすぐに部屋を出て、玄関へ行った。すると、懐かしい三人の顔が目に入った。

「石庵先生、ご無事で何よりです」

「みなさんこそ、よくぞご無事で」

 石庵と三人は手を取り合い、久方ぶりの再会に喜悦した。

 来訪した三人は、三星屋武右衛門、道明寺屋吉左衛門、それに中井甃庵であった。

 石庵は家主である赤水の了解を得て、三人を奥座敷へ招じ入れた。

「石庵先生が含翠堂に避難されたとの噂を伝え聞き、こうしてやって参りました」

 三星屋がそう言った。

「おかげさまで、何とか生き延びました。みなさんのご家族や、お屋敷はご無事でしたか?」

「幸い、家族は無事でしたが、私が老後のために用意してあった隠宅は焼け落ちてしまいました。まあ、店舗や居宅が小火(ぼや)で済んだので、よしとしなければなりません」

 道明寺屋がそう答えた。

 三星屋は、管理する家屋で被害が出たと述べた。幸い、甃庵の住む借家は無事だった。

 他の主だった門下生とその家族も無事だったと聞き、石庵は安堵した。家屋や、商家の店舗に被害が出た人はいるが、今回の場合、命が助かっただけでも好運だった。

「私ら大坂商人は、ただでは転びません。これしきのことでへこたれているようでは、船場で商売などできません」

 道明寺屋が言った。

「みなさんは実にたくましい」

 茶菓子などが供され、四人はしばらく談笑していたが、話が一段落したとき、三人は突如、居住まいを正した。石庵は、何事だろうかとにわかに緊張した。

「ところで、本日は石庵先生にお願いの儀があって、こうして参上した次第です」

 甃庵がそう言った。

 お願いとは、いったい何か。甃庵の真面目な表情を見て、石庵は一抹の不安を抱いた。


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