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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第8章 「先生」
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(8-6)中井履軒、出立


 文化十四年(一八一七)二月十五日、中井履軒は息を引き取った。享年八十六歳。

 葬儀は和泉町の自宅で行われ、喪主は柚園、世話人は、碩果と、その養子の鵠齋(こくさい)、それに履軒の弟子、三村昆山(こんざん)、早野橘隧(きっすい)、竹島簣山(きざん)が務めた。

 派手なことを嫌った履軒の遺志を尊び、葬儀はしめやかに行われるはずであったが、門下生や知人など弔問客が引きも切らず、狭い借家の路地は人でごった返すこととなった。社交嫌いだった履軒だが、意外にもその人望の厚さが示された形であった。

 履軒は文清と諡され、遺体は、甃庵や竹山らが眠る上本町の誓願寺へ葬られた。仏教嫌いだった履軒を仏寺に埋葬するのはどうかという意見もあったが、死した今となっては、一族と一緒に葬るべきとの意見が多数を占め、それが採用された。

 墓誌は三村昆山が揮毫した。

「履軒先生、往々、前説いまだ尽くさざるところを尽くし、前論いまだ発せざるところを発す。人あるいはその著書を梓行せんことを請えば、すなわち(ふつ)(ぜん)としてこれを許さず」

 履軒の死後、昆山は、履軒の膨大な著作の筆写を数多く手がけ、後世の学問へ資するようにと骨を折った。

 早野橘隧も、履軒の著書の筆写を多く行った。橘隧は履軒の墓前で、

「塚頭、今日空しく相憶う、ただ寒梅、遺香を送るあり」

 と詠んだ。履軒は生前、梅を好み、しばしば梅の枝木を花瓶に挿したものを書斎の机の上に置き、愛でていた。

 生前の頼春水は、履軒を、

「やや偏僻(へんぺき)なるも、事々超凡。持論奇僻、皆、人と(そむ)く」

 と評し、偏りが大きい性格ながら、人並外れた持論の持ち主だと述べた。

 古賀精里は、履軒を天下の偉人であると評した。老中松平定信からの招聘や、来坂した老中松平乗完(のりさだ)からの呼び出しにも応じず、市井風塵の間に幽居して超然逸民として終始したその生きざまを爽とした。

 履軒は、楠木正成父子を尊崇し、赤穂義士を欽慕した。人の善行を聞けば涕泣(ていきゅう)して喜ぶ半面、悪を憎み、君臣父子兄弟における不義理を厭忌(えんき)すること人に過ぎていた。頼山陽を面罵して追い返したのもその表れであった。

 歯に衣着せず、直截に物言いするのも履軒の特徴であった。ある知人の富豪が贅沢放題に濫費し、ついには産を破って病を得た。履軒はその見舞いに訪れた際、

「美食飽食の限りを尽くした貴君が病気になったのは当然だ。摂生と養生とを度外視した報いであることを知りなさい」

 と言い放った。

 酒を好んだが、竹山のようには過ごさず、節度をもって一定量で切り上げた。人寿に悪影響を及ぼす四害を唱え、砂糖を毒と見做して摂らなかった。

「父は、摂生の達人であり、そのよろしきを得て長寿を全うしました」

 柚園は、葬儀の参列者へそう語った。

 山片蟠桃は、三年前からほぼ失明し、自身で歩くことができなくなっていた。履軒の葬儀へは、家人に支えられながら参列した。後日行われた遺品分けでは、蟠桃は履軒愛用の竹製の孫の手と、真鍮製の耳かきを受け取った。

 履軒亡き後、碩果が懐徳堂教授に就任し、鵠齋が預人となった。結局、碩果は学主には就かなかった。

 この年の五月、古賀精里が江戸で死去した。享年六十八歳。

 大坂懐徳堂の竹山、履軒がこの世を去り、広島の頼春水も身まかり、また江戸昌平黌の三博士もみな没した。寛政の朱子学を支えた儒者が相次いで物故し、儒学界は新たな時代へ突入しようとしていた。

 履軒が京都の高辻家から帰坂し、鰻谷(うなぎだに)町の借家に住んだのは三十六歳のときであった。このとき履軒は、便宜上、龍野藩脇坂侯家中という身分となり、借家へは「一時逗留」しているという体裁であった。引っ越しの都度、「逗留先変更」ということになったが、死去した際には、「和泉町の借家へ逗留中」となっていた。

 家主の鴻池与作名義で、次のような口上書が大坂町奉行所へ提出された。

「恐れ(なが)ら口上 和泉町 鴻池屋与作

 脇坂中務少輔様御内、中井履軒様、文化六年八月より、私支配の借家貸座敷へ御止宿成さるるの所、文化十四年二月十五日辰の刻、御()()成され候。此の段、恐れながら申し上げ奉り候。何卒御聞届下され候はば有り難く存じ奉り候。以上。

 文化十四年二月                           与作

 年寄 鴻池屋吉蔵

 御奉行様」

 旅宿通行人の死去の場合、奉行所による検視が行われる等、手続きが面倒になる恐れがあることから、履軒は一時逗留先から「出立」したという体裁で、出立届が出された。奉行所役人は、高名な履軒の死を知っていながら、この出立届を従容として受理したという。


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