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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第8章 「先生」
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(8-5)永劫に生き続ける?


 履軒の経書研究の集大成である「七経逢原(しちけいほうげん)」全三十三冊が完成したのは、履軒が八十歳を過ぎてからであった。

 儒学の七経、すなわち「論語」、「孟子」、「礼記」、「易経」、「書経」、「詩経」、「春秋」について、その原文に履軒の説としての注釈を逐一施した労作であった。この作業に着手してから約十五年が経過していた。

 果たして自分の存命中に完成を見ることができるかどうか。はなはだ心許なかったが、無事作業を終え、胸をなで下ろすと同時に、大きな達成感に浸った。

 履軒は、その序に「水哉館学」と記した。ここに至って、ようやく自分自身の学派を名乗る自信がつき、その意思表明であった。

 春慶塗の書函へこの著作を収納し、その表面に「假山(かさん)(ほん)」と書いた紙を貼り付けた。これは「貨さん本」、つまり人には貸さない本という意味であり、履軒はこれを柚園のほか、高弟の三村崑山(みむらこんざん)早野橘隧(はやのきっすい)竹島簣山(たけしまきざん)のみに閲読を許した。

 「七経逢原」を仕上げると、履軒は、古代史についての評論、「弁妄」を書いた。この稿では、賀茂真淵や本居宣長らの国学者が、中国から文物が移入される以前の古代日本は、法制や儒仏がなくても自然によく治まったと主張したことを批判し、過去における権力簒奪や反逆の事例を多数挙げて、国史はそのような甘ったるいものではないと述べた。

「人は日本を『神の国』と称するが、どの国でも天孫降臨伝説に似た建国の神話を有していて、日本だけが特別ではない。日本が特異であるのは、神武以来の皇統が温存遵守されて現在に至っていることであり、どのような奸物もこれを敬して絶やさなかった点にある」 

 一見、日本の分別礼譲の高さを物語っているようだが、履軒は辛辣である。

「実はこれ、()(もう)の謂であり、本邦の風習に他ならない。この風習を名付けて神の国の徳と云い伝えているに過ぎず、まさに愚蒙と称すほかなし」

 「神の国」という言葉には、人知や理性を鈍麻させ、賢人をして甘美な陶酔に浸らしめる害毒の響きがあることを履軒は察知していた。それは妄信の道につながるものであり、排すべきであると考えた。

 文化十年(一八一三)、竹山の娘、刀自の遺子で、十七歳の並河復一(なみかわまたいち)は、伯父である碩果の養子となり、かつ弟子として懐徳堂へ入門し、中井鵠齋(なかいこくさい)と号することになった。鵠齋の父、並河尚誠は、二年前に死去していた。

 すでに儒学の基礎を身につけていた鵠齋は、みるみる頭角を現し、一年後には助教として日講の一部を受け持つようになった。さすがは竹山先生の孫、と賞賛する声が多かった。

 この年の暮れ、尾藤二洲が江戸で死去した。享年六十七歳。

「学業が進むのは七十歳を過ぎてからだと言い伝えてあったのに、二洲め、古希を待たずして死ぬとは。江戸での珍味佳肴の食い過ぎが祟ったのではないか? 怪しからぬ奴だ」

 履軒はそう毒づきつつ、その死を悼んだ。

 文化十三年(一八一六)二月、頼春水が広島にてこの世を去った。享年七十一歳。

「まさか春水まで先に逝ってしまうとは……」

 履軒にとって二洲と春水は、十四、五歳あまりも年下ながら、数少ない親友と呼べる存在であった。二人が大坂に在住していた頃、よく三人で集まっては酒を酌み交わしていたことを思い出し、しばし郷愁に駆られた。

 すっかり目が悪くなり、読み書きができなくなった履軒だが、机上に読み古した「論語」を開いて置き、そのまま坐してじっとしている姿がしばしば見られた。

 訪ねてきた知人に、何をしているのかと問われると、履軒は、

「目がほとんど見えず、書を読むこと能わざれども、こうして『論語』を開いているだけで心淋しくはない。『無絃(むげん)(きん)』の理なり」

 と答えた。「無絃琴」とは、中国六朝時代の詩人、陶淵明が愛蔵していた絃のない琴のことである。陶淵明は酒を飲むときにそれを手元に置き、実際には弾くことはできないものの、陶然としながら心中で演奏を楽しんだという逸話がある。

 眼疾の悪化に加えて、手足に痛みが走るようになり、歩行することができなくなった。やがて、座っていることすら困難になり、ついには寝たきりになった。

「おかしいのう。わしは永劫に生き続けるものだと思っていたのだが」

 履軒は病床でそんなことを言い、しきりに首をかしげていた。

 竹山とともに、少年期から蘭洲の厳しい薫陶を受けて成長し、兄弟そろって儒者としての学識を身につけるに至った。甃庵の長男であり、社交的な竹山が懐徳堂の後継者と目される中、次男で、人と交わるのが苦手な履軒は、自分が表立たないで済む身分であることを歓迎し、当初は各地を旅して回るなど、青春を謳歌する時期もあった。だが、父甃庵が没すると、懐徳堂における自分の立ち位置というものに悩みが生じた。

 そんな折、高辻家から賓師としての招聘を受けて、単身京都へ移り住んだ。このまま京都へ永住するのも悪くないと思って勇躍乗り込んだものの、高貴な人々が頻繁に出入りする環境になじめず、気鬱となって一年で大坂へ戻った。このとき履軒は、自分が元来、閉戸生の性質であることを自覚していたにもかかわらず、世に出て出世を目論んだことを恥じた。それ以降、世に出ることはせず、さりとて懐徳堂からは独立して、市井の儒者として清貧に生きることを心に決めた。

 以後、漢学塾の水哉館を主宰しながら、余暇にはひたすら経書研究や史学研究、著述に明け暮れた。余人が真似できないほどに経書や史書を何十回も繰り返し精読し、その注釈書や史論、詩論、政事論文等、手稿本ながらその著作数は膨大な数に上った。

 華胥国(かしょこく)という理想郷を立ち上げてその王を名乗り、空想上の世界で遊んだりもした。また、自然科学にも興味を示し、人体解剖図や動植物の画を描いたり、暦をつくったり、天図や深衣、楽焼や自転輪を自作したりと、机上論だけでなく、みずから手を動かし、実体験することの重要性を唱えた。

 世に出ず、人ともめったに会わず、著書も刊行しない履軒でありながら、懐徳堂学主として著名になった竹山とともに、いつしか学識では並ぶ者なしとの世評が浸透し、図らずも世間に広く知られるようになった。そんな履軒を招聘しようとしたり、面会を求めたりする人が後を絶たなかったが、それらを邪険に追い帰したり、あるいは押し入れに隠れたり、はたまた家の勝手口から退避したりと、あくまでも招聘を拒絶し続けた。

 辺幅を飾らず、お金には無頓着で、一時は赤貧洗うがごとく、替えのふんどしすら買えない時期もあった。そんな暮らしぶりでも、経書さえ読めれば履軒は満足だった。竹山に後事を託されて、一時的に懐徳堂の教授として復帰したこともあったが、懐徳堂を出てから五十年余、借家を転々としながら、市井の儒者として半生を過ごした。

「やはりわしも、人並みに死ぬのか」

 布団に横たわり、手足の節々の痛みに耐えながら、履軒は、妙な感懐に襲われた。人が死ぬのは自明のことであり、不老不死などあり得ない。無鬼論を唱え、淫祠邪教を憎む履軒だが、いつしか自分が不死の存在であると思い込むようになっていたことに気づいた。

 寿命が尽きれば人は死ぬ。思い込みが激しいと、そんなことすら判然としなくなり、自分は不死身だと信じて疑わなくなる。履軒は自分の愚かさに気づき、かつ恥じた。


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