(8-4)履軒、頼山陽を追い返す
文化六年(一八〇九)八月、七十八歳になった履軒は、北久宝寺町の借家の家主から、老朽化による建て替えが必要であるとのことで退去を求められた。そのため、柚園とともに、そこから東へ約十町離れた和泉町の借家へ転居した。この借家は鴻池家の一族、与作の所有物であり、与作は師でもある履軒の転居のために便宜を図った。
和泉町の家の厠は、隣家の窓に面していて、向こうから丸見えであった。そのため、履軒は、「掩鼻亭」と書いた横板を厠の外壁に吊るして目隠し代わりとした。
この横板の存在に気づいた来客から、「掩鼻亭」とはどういう意味かと質問された。
「鼻を掩うに如くはなき場所、という意味です」
履軒はそう回答し、来客の笑いを誘った。
竹山の死後、履軒が懐徳堂の教授となってから五年が経過していた。
「碩果殿は、わしの閉戸を引き継いだ」
履軒は周囲にも、碩果本人へもしばしばそう語っていたが、碩果の閉戸は、履軒のそれとは性質が異なっていた。碩果は理財に長じており、懐徳堂の蔵書や備品は竹山が学主の時代よりも増えていた。大坂町奉行所や大坂城への伺候も卒なくこなし、瑕疵がなかった。
一方で、各地の儒者との交流にはかなり消極的であり、手紙のやりとりを好まなかった。
「足下は、文通をお好みではないご様子」
頼春水は碩果あての書簡にそう記し、尾藤二洲は、
「碩果殿、大舞台さぞお困りとお見受けし候、此方へは絶えて便もこれなく候」
と、履軒あての手紙に書いている。
そんな碩果は、来年で不惑の年を迎える。懐徳堂の堅実な運営ぶりを見た履軒は、碩果なら大丈夫だと安堵した。一方、履軒は以前よりもさらに目が悪くなり、かつ身動きに支障を来たすようになったこともあって、和泉町への引っ越しを機に、懐徳堂への出講を退くことにした。代わりに、柚園を懐徳堂の講師として派遣し、日講の一部を受け持たせた。
「これからは碩果殿が学主に就任し、名実ともに懐徳堂の顔となるがいい」
「いいえ、私は学主にはなりません」
「なぜじゃ?」
五年前とは逆に、今度は碩果が学主就任を固辞し、履軒がその理由を問う図式となった。
懐徳堂創設時から、町奉行所や大坂城への伺候、町内との交渉などは預人の仕事であった。現在も、竹山が亡くなってからの五年間、学主不在ながら、運営上何ら支障は生じていない。ならば、学主は不要である、ということで同志ともども意見が一致したと言う。
確かに、石庵、春楼の時代の学主は、名誉職に近かった。創設当初から預人が運営全般の責務を負うのが実態であり、あえて学主を設ける必然性はないのかもしれない。
「承知した。ならば、今後は碩果殿が預人のほかに、教授を兼ねるがいい」
「いいえ、日講の受け持ちがなくなったとは言え、叔父上がご健在な間は、叔父上が主席講師である教授のご身分のままです。これも同志のみなさまと確認済です」
碩果は、にこりともせずに言った。日講の受け持ちがないのに教授とは、名ばかり学主を廃することと矛盾するのではないかとも思ったが、履軒という名前を消さずに残しておいた方が何かと都合が良い、ということなのだろうと理解し、あえて拒まなかった。
この年の六月、履軒の悪友、上田秋成が京都で死去した。享年七十六歳。
死の直前、秋成は、随筆集「胆大小心録」を脱稿したが、この書物に、竹山と履軒の悪口を書いていた。そのことを知った履軒は、
「あの男は、わざわざ兄上とわしに悪態をついてから死ぬとは、何たる執念深さだ」
と苦笑しつつ、秋成の死を悼んだ。
二年前、柴野栗山が江戸で亡くなっていた。享年七十二歳。
履軒は、相次ぐ故友の死に、身辺の寂しさを感じていた。
文化八年(一八一一)、八十歳になった履軒は、経世に関する論文集「髦言」を著した。
老いてなお、精力的に書を読み、かつ執筆に励む履軒に、ある知人が養生法はいかにと問うた。
「床に就くとき、力を込めて足を伸ばす。これを三度行う。それだけだ」
履軒はそう答えた。
「ものを食べても飲んでも美味を感じるし、ぐっすり寝て、すっきりと目覚める。どうもわしは、人並みに死ぬ気がしない」
ときどき、そんなことを柚園に話したりもした。
ある日、知人の儒者で、尾藤二洲の弟子でもある越智高洲が、三十歳前後の男を伴って、和泉町の履軒宅へ訪ねてきた。履軒が玄関で応接すると、高洲は横に立つ男を紹介した。
「この御仁は、頼春水先生の一子、山陽殿です。山陽殿は広島での謹慎を解かれた後、備後神辺にある菅茶山先生の廉塾で助教を務めていましたが、先般、京都で漢学塾を開きました。畿内に出てきたのを機に、ぜひ履軒先生とご面識を得たいとのことで、このたびお連れした次第です」
すると履軒は、瞬時に顔を真っ赤にして、怒鳴った。
「おまえは天下の親不孝者だ。長子として生まれし定めもわきまえずに京師へ出奔し、春水に廃嫡された痴れ者だ。我が家の敷居をまたぐことは許さん。今すぐ出ていけ!」
二人は、履軒のあまりの剣幕に度肝を抜かれた様子で、早々にその場から立ち去った。
人にはそれぞれ定めと役割とがある。兄、竹山は、甃庵の長男として生まれた自分の境遇に粛々と従い、懐徳堂運営に生涯を捧げた。また、碩果は、七男ではあるものの、竹山のただ一人の遺子であり、閉戸生の気質でありながらも従容として懐徳堂を受け継ぎ、その維持運営に日々心を砕いている。我が息子の柚園ですら、貧寒な水哉館を引き継いで、特段不満を述べる様子もない。
それに比して、山陽はどうか。その根底にあるのはおのれの立身出世主義ではないのか。春水の長男として生まれながらも京都へ出奔、連れ戻されて幽閉中は神妙に過ごし、国史の執筆などに励んだらしいが、官茶山の塾の助教をわずか数年で辞め、京都で開塾するなど、いまだに自身の野心なるものを飼い慣らせていない何よりの証左ではないのか。
履軒はそう思い、この日は終日不機嫌であった。




