(8-3)履軒教授
履軒は、懐徳堂講堂の書見机の前に着座した。約四十年ぶりである。竹山の遺言状にあった通り、四、九の日の日講を受け持つことになり、主に「書経」を講じた。
あの閉戸先生が懐徳堂の講席に出るということで、履軒の日講の日は大勢の聴衆が集まった。初講に際して、履軒は、
「久しぶりに穴倉から出てきた閉戸爺です」
と、まずは笑わせてから、
「竹山先生はすでにここには存在しませんが、みなさんが師と仰ぐべきは、爾後も竹山先生であることに変わりはありません。間違っても、ここに座っている履軒などではないことを肝に銘じて下さい。みなさんが竹山先生の徳義を偲んで学びを重ね、もって日々の家業にますます精励されることを望みます」
と話した。
竹山の葬儀後、懐徳堂の講師詰め所で、履軒と碩果は二人だけで対座した。
今後も履軒が北久宝寺町の借家に住み続けて、懐徳堂へは駕籠で行き来することは両者ともに合意した。だが履軒は、自分は学主にはならないと言った。
「なぜです?」
「懐徳堂の運営に参画しないわしが、学主を名乗るなどおこがましい」
「ですが、父の遺言状にも、叔父上が学主を継ぐようにとありましたし、病床の父と叔父上とでそう取り決めたとも父から聞いております。それを反故になさるのですか?」
「今後、懐徳堂の主宰者は碩果殿である。わしはあくまで、日講の一部を受け持つ一講師に過ぎない。そのわしが、名目だけ学主を名乗り、実際には実がないという状態はわしには耐え難い。履軒という爺も講師に名を連ねているということで、どうか勘弁願いたい」
履軒はあくまでもそう主張し、学主になることを拒んだ。懐徳堂の学主を名乗れば、対外的な面においても運営にまったく関与しないで済む話ではなくなる。いくら碩果がそうはならないと言っても、なし崩しにそういう事態になるのは明白である。
碩果は困惑した表情で、しばらく沈思した。
「では、主席講師ということで、叔父上には教授を名乗っていただきます。生前の父が望んだのは、懐徳堂の名声の失墜を何としてでも避けたいということだったと思います。そのためには、叔父上の名前がどうしても必要なのです。せめてこれだけはご承引下さい」
履軒は、これが落としどころであると理解し、教授を名乗ることを了承した。
履軒の一子で、二十三歳になった雄右衛門は、柚園と号していた。幼少期から履軒の指導を受けて成長した柚園は、三年前から水哉館で講義の一部を受け持っていた。履軒は、自身が懐徳堂へ出講するようになったのを機に、水哉館の運営全般を柚園に任せた。
そのため、履軒は以前にも増して手持ちの仕事が減り、経書研究と執筆とに割ける時間が増えた。眼疾と老眼が進んでいて、目が見えにくくなってはいたが、それでもこの時期、戦国近世の武将の言行逸事に関する史論「伝疑小史」を著し、続いて、経世に関する論文集「弊帚季編」をまとめた。
「華胥国王、老衰ますます奇説とも出で候様聞こえ候。老健喜ぶべく候」
尾藤二洲は、頼春水に宛てた手紙で、履軒の健筆ぶりをそう評している。
「私の小論の校閲をお願いします」
山片蟠桃が、分厚い草稿を持参して履軒宅を訪ねてきた。生前の竹山が校閲し、その助言を受けて加筆修正したものであった。今後は履軒に校閲を引き受けてほしいと言う。
「孔明殿の『宰我の償い』とはこれか?」
「はい。履軒先生の目が悪いことは重々承知しておりますが、実は私も眼疾を患っていて、完全にものが見えなくなる前に、何とかこれを仕上げたいと気が急いております」
履軒はこれを了承し、目が悪いながらも入念に蟠桃の草稿に目を通して、押紙に寸評を書いては草稿に貼付した。
履軒は、「宰我の償い」という書名が気に入らなかった。
「宰我は、臨淄の大夫となった後、謀反を起こして一族皆殺しにされ、孔子はそのことを恥じたと『史記』仲尼弟子列伝にある。ゆえに、宰我を書名に冠するのはいかがなものか?」
履軒がそう言ったので、蟠桃は、宰我が昼寝で見た夢の代償という意味で、書名を「夢の代」へ改めることにした。
「夢の代」は、履軒が校閲したものを蟠桃が加筆修正し、それを再度履軒が校閲することが何度も繰り返された。それによって、当初の草稿が大幅に膨れ上がり、章立ても、当初の四章から、天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経綸、雑書、異端、無鬼(上、下)、雑論の十二章に増えた。
「竹山、履軒先生に聞きたる事を書きつらねおき、子孫の教戒にもせば、此の上の本望ならんか」
蟠桃は、自序にそう記した。凡例の末尾にも、
「竹山先生は、我が常の師なり。ゆえに、我が論ずる処、みな先生に聞くところのものなれば、別に師名を顕すことなし。その後、履軒先生に校正を請いて、その論を聞き、書中に加えた箇所は、別に『履軒先生曰く』と注記し、これを分かつものなり」
と書き、竹山、履軒の学恩に負うところが大きい点を強調した。
蟠桃は天文について、当時ようやく本邦に紹介されるに至った地動説を支持し、また、太陽系の惑星には地球のほか、水星、金星、火星、木星、土星の六つがあり、各惑星には地球同様、人や禽獣、草木が生息していると述べた。
履軒同様、蟠桃も筋金入りの無鬼論者であり、仏教を讐敵のように批判し、霊験や迷信邪説を強く排した。この書の跋に、蟠桃は二首の歌を載せている。
「(死したる跡にて)地獄なし極楽もなし我もなしただ有るものは人と万物」
「神仏化物もなし世の中に奇妙不思議なことは猶なし」
履軒は「夢の代」の出来栄えを賞し、まさに孔明の名に違わぬ御仁だと蟠桃をねぎらった。
かつて、履軒は月に一度、伊丹へ出講していたが、足が不自由になり、片道四里の道を行き来することができなくなったため、八年前から出講をやめていた。それでも伊丹の門人たちは、毎年、履軒あてに謝金を飛脚に託して送り届けてきていた。履軒はそのお金を使わずに引き出しにしまっておいた。
ある日、伊丹の門人が履軒宅へ訪ねてきたとき、履軒は引き出しから、過去八年分の謝金を取り出した。
「せっかくのご厚意ながら、不労のお金を私が受け取るわけにはいかない。これを伊丹の衆へご返却あれ」
と言い、その門人へ託した。
労働の対価に相当しないお金は一切受け取らない。それが履軒の面目であった。
文化五年(一八〇八)、履軒は、「史記」の注釈書である「史記雕題」を完成させた。
「史記」は、中国前漢時代の太史令で、武帝の怒りを買って宮刑に処された司馬遷が、失意の中で筆を紡いだ畢生の大作である。五十二万六千余字からなるこの史書を、履軒は精読すること五、六十遍だったと、履軒の弟子、早野橘隧は「史記雕題」の序に記している。
履軒は、「史記」だけではなく、中国の主要な経書や史書はおしなべて何十遍も精読し、かつ、各種注釈書の多くも渉猟していた。
「それぐらい読み込まなければ、文意を正確に把握することなどできない。手っ取り早く古典を己が掌中に収めようと思っても、それは不可能である」
履軒はつねづね、門人たちにそう語った。
「新奇を好んで故常を厭う人とは共に経を論ずることはできない。また、故常に安んじて新奇を憎む人とも、共に経を論ずることはできない。ただ平心に書を読み、新故に愛憎を生ぜしめない。いまだ古経の不明確な点があるのを慨き、憤悶し、寝食を忘れ、毀誉褒貶を度外視して地道に研鑽を積み、老いを知らない者。そういう人と経を論じたい。だが当今、そういう人はいったい幾人いるだろうか」
興が乗ると、履軒は熱くそう吐露した。




