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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第8章 「先生」
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(8-1)履軒に託す


 文化元年(一八〇四)、竹山は病床で年明けを迎えた。

 毎年正月、懐徳堂には大勢の人が年始のあいさつに訪れるが、前年八月に蕉園、刀自を相次いで失い、服喪中ということもあって、この年は訪問客が少なかった。竹山は、床に臥して天井を眺めながら、これほど寂しい正月を迎えるのは初めてではないかと思った。

 三年前の享和元年(一八〇一)、公儀は、全国の孝子、孝婦、奇特者等の事例八千件以上を集成した「孝義録」五十巻を刊行した。これは、倫理道徳の作興を目的として、かつての老中首座、松平定信の建議で事例収集が開始され、それを昌平黌の林述斎、柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里ら儒官の手によって編集されたものである。

 竹山は、この書物の出版を歓迎した。老後は手薄になったものの、壮年時は、甃庵以来の孝子孝婦顕彰活動を積極的に推進し、募金活動を展開したこともあった。懐徳堂のそういう取り組みは、公儀に先駆けたものであった。

 竹山が辛辣過ぎるほどの荻生徂徠批判を行ったのは、徂徠が儒学における倫理道徳の涵養という側面を蔑視し、政事学芸への寄与のみを重視したためであり、徂徠学は人心を惑わす危険思想だと危惧したことが主な理由である。

 ただ、竹山には、公儀や諸藩が朱子学を官学、藩学として採用する時勢を敏感に嗅ぎ取り、徂徠学を仮想敵とすることで世の流れと歩調を合わせたという側面がなかったとは言い切れない。

 懐徳堂の官学化。それが、竹山の悲願であった。

 懐徳堂が除地であり、尼崎町の管轄外である旨のお墨付きを町奉行所から獲得したり、三宅春楼亡き後、その息子二人を懐徳堂から立ち退かせて、三宅家と絶縁状態になったりと、果断な行動は軋轢を生んだ。

 春楼が学主の時代、学風が大いに弛緩したため、竹山は学主兼預人に就任後、日講を拡充した。また、公儀の現地機関である大坂町奉行所、大坂城代との接触を密にし、求められれば喜んで出講した。さらには全国の儒者や貴顕とも積極的に交流し、懐徳堂の名を高からしめるように努めた。

 懐徳堂の運営に忙しい日々を送りつつ、その合間を縫うようにして経学研究や歴史研究にも時間を割いた。父の甃庵が懐徳堂の運営だけに埋没し、ほとんど研究に手が付けられなかった同じ轍を踏まないようにと自分自身を戒め、文机に向かった。

 そんな努力のおかげか、竹山は、履軒とともに浪華における最も高名な儒者という世評を獲得し、それが松平定信との面会にもつながった。

 竹山は、「草茅危言」のほか、「社倉私議」や「建学私議」など、政事への提言も行って、経綸家としての評価も勝ち得た。

 これら竹山の活動はすべて、懐徳堂の官学化という大目標につながっていた。

 懐徳堂の名が全国に知られるようになり、しかも定信という大きな後ろ盾が得られた矢先、火難によって懐徳堂は灰塵と化した。

 竹山は再建に奔走し、これを機に官学化をと考えたものの、事態は目論見通りには進まなかった。それどころか、同志や門下生の商人たちの援助を得て、ようやく原状回復まで漕ぎつけるのが精一杯であった。

 以前、上田秋成に、「山こかし」などと揶揄されて腹を立てたことがあったが、竹山は、確かにそうだったかもしれないと思った。甃庵は、懐徳堂の官許取得を成し遂げた。自分は、官学化を実現させることで父の業績を凌駕し、「懐徳堂の世祖」と呼ばれたかった。そんな子供じみた夢のために、長年にわたってかなり無理をしてきたような気がする。

 あれこれと忙しく立ち振る舞った挙句、官学化の夢はついに実現しなかった。夢破れて無残だとも言えるが、振り返ってみるに、中身の濃い毎日だったと竹山は思い、後悔の念は湧き起こらなかった。

 竹酔日に生を受けた竹山を祈念して、甃庵は書斎の窓外に竹を植えた。甃庵没後、その書斎は竹山が使うようになり、窓外の竹をときどき眺めては、亡き父に思いを馳せた。

 その竹は、八年前の惣嫁(そうか)火事で建屋もろとも焼失してしまった。その後、懐徳堂は再建され、竹山は新しい書斎に収まったが、何かが足りない。そんな思いにずっと駆られながら、その何かが分からずじまいだった。今、窓外に竹がないことにようやく気がついた。

「どうして八年もの間、そんなことに気づかなかったのだろうか?」

 竹山は、ふと哀しみに襲われた。

 二月になると、竹山の病状はさらに悪化した。下痢と、喘息による咳き込みがひどくなり、体力を激しく消耗した。

 北久宝寺町の履軒宅へ、使いの下男がやってきた。竹山先生がお呼びであり、急ぎ懐徳堂までお越し願いたいとの口上であった。外には駕籠が待機していた。

 履軒はすぐに駕籠に乗って懐徳堂へ赴き、竹山の枕元に座った。

 壮時は二十四貫目もの体重があり、顔は丸々と太り、あごと首との境目が判然としなかった竹山だったが、床に臥せった竹山の顔は細長く、あごが際立っていた。

「徳二に、お願いがある」

 竹山は、息も絶え絶えに言った。履軒は、か細い声を聞き取るために耳を近づけた。

「懐徳堂の学主を引き受けてくれないか?」

「何ですと?」

「わしが死んだら、おぬしに懐徳堂の学主を引き受けてもらいたいのだ」

「いや、それは……」

 履軒が懐徳堂を離れてから、はや四十年近くになる。しかも、私塾の水哉館を主宰している身である。まさか竹山から、後継学主の指名を受けることなど想定していなかった。

「碩果がいるではありませんか? 碩果なら、儒者としての学識は十分であり、学主を継ぐのに不足はないではありませんか?」

「いや、碩果はまだ若い。もう少し経験を積み、世に経らないと、学主の任には耐え難い」

「ですが、兄上」

「履軒先生!」

 竹山の声は、ひときわ大きくなった。これまで竹山から、通称の「徳二」と呼ばれることがほとんどで、「履軒」と号で呼ばれることはめったになかった。ましてや、「先生」と呼ばれたことなど、過去に一度もなかった。

「懐徳堂は、今や全国に名を知られた漢学塾だ。その学主を誰が継ぐのか、多くの儒者が注目している。残念ながら、碩果の名では弱い。どうしてもおぬしの名が必要なのだ。三年でいい。三年経ったら、学主の任を碩果に譲っていい。日講の受け持ちは最低限で構わない。同志の了解も得ているし、碩果にもその旨、すでに言い聞かせてある」

 竹山は、いったん言葉を切った。

「履軒先生、どうか、懐徳堂の学主を引き受けて下され。この通りだ」

 竹山は再度、履軒「先生」と言い、目に涙を浮かべた。履軒の目からも涙がこぼれ落ちた。

「兄上、分かりました。不肖、私めが、兄上の後を継ぎます。どうかご安心下され」

「聞き届けてくれたか。ありがとう」

 竹山は目をつぶり、大きく深呼吸した。

 履軒は、竹山が生涯をかけて大事にしてきたものを、たとえ短期間であっても自分が引き継ぎ、安心して旅立たせてあげたいと思った。

 兄弟二人、幼少期からともに儒者としての研鑽を積んできたが、竹山は陽で、履軒は陰と、まるで正反対の道を歩んできた。

「竹山先生は子張(しちょう)、履軒先生は子夏(しか)ですな」

 ある人が、竹山と履軒をそう評した。

 子張、子夏ともに孔子の弟子である。子張は徳に優れ、人付き合いの良い人物であり、子夏は学芸に優れ、人付き合いの好悪がはっきりしていた人物だったという。

 著名な儒者となった二人には、これまで数多の招聘話が持ち込まれた。竹山は、それらに対し丁重に接して辞退の意を表明したが、履軒はぞんざいに接し、やってきた使者を邪険に追い帰したり、使者を置き去りにしたまま姿をくらましたりした。

 履軒は三十代半ばの頃、京都の高辻家へ一年間だけ賓師として赴いたことがあったが、それ以外はずっと在野の儒者として孤高を持してきた。

 竹山も、官許懐徳堂の学主とは言え、在野の儒者という身分に終始したことは履軒と同じであった。だが、やはり二人は同じではなかった。履軒は甃庵の次男として生まれたため、自分の身の振り方を選択する自由があり、実際、懐徳堂を出て水哉館を営み、さらには華胥国なる理想郷で遊びつつ、思う存分経書研究に没頭できた。

 それに対し、竹山は長男として生まれたゆえに、必然的に懐徳堂という重い荷物を背負う定めであり、選択の余地はなかった。そういう定めを粛々と受け入れ、むしろ石庵、甃庵、春楼の時代以上に懐徳堂を大ならしめようと努めた竹山の生涯を思うと、履軒の嗚咽はしばらく止まらなかった。


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