(1-7)愚かな奴め
そんな折、石庵のもとに江戸から早飛脚が到着し、衝撃的な内容の手紙を受け取った。
享保三年(一七一八)八月、観瀾が死去した。享年四十五歳。
執務中に突然苦しみ出し、介抱する余地もないまま息を引き取ったという。
公儀の儒官として、江戸で栄達を遂げた弟の突然の訃報を知り、石庵は書面に目を落としたまま、しばらく身動きができなかった。
十歳年下の観瀾が先に逝くことなど、つゆほども想定していなかった。兄よりも学問熱心で、人柄は温厚、人との関係を良好に保つ術も自然と身につけていて、どこまでも快活で前向き、好漢と呼ぶにふさわしい弟であった。
ただ、石庵には気になることがあった。
観瀾がこの世を去る二年前のこと。七代将軍家継がわずか八歳で薨去し、紀州藩主、徳川吉宗が八代将軍を襲位すると、家宣、家継と二代の将軍の侍講として幕政に重きをなしていた新井白石が失脚した。
白石の推挙で公儀儒官に就任した観瀾は、白石失脚のあおりを受けて、その後はやや肩身が狭い思いをした形跡があった。
「観瀾は、それを気に病んで心身に不調をきたし、死期を早めたのではあるまいか?」
石庵はその翌年二月、観瀾の墓前に花を手向けるために江戸へ向かった。
苦い思い出しかない江戸へは、今生、二度と行くことはないと思っていた石庵だが、図らずも観瀾の墓前に詣でるために、再び足を踏み入れる仕儀となった。
この江戸行きには、弟子の中井甃庵を伴っていた。石庵の門下生には町人が多く、本業の傍ら、儒学を学ぶ者がほとんどだったが、甃庵は若年時から石庵に就いて本格的に儒学を学び、儒者として身を立てようと志す数少ない弟子の一人であった。
甃庵はかつて江戸に住んでいたことがあり、その折に何かと観瀾の世話になった。甃庵はその恩義に対し、墓前で合掌したいと石庵との同行を希望し、了承を得ていた。
江戸に到着した二人は、観瀾の墓参後、石庵の旧知である三輪執斎を訪ねた。石庵と執斎とはかつて江戸で知り合い、意気投合した仲だったが、執斎はその後、石庵とほぼ同時期に京都へ帰り、以来約二十年間を京都で過ごした。だが三年前、ある大名家に請われて再び出府し、江戸で儒学を講じていた。
「御舎弟の突然のご他界、謹んでお悔やみ申し上げます」
「ご丁寧にありがとうございます。昨日、弟の墓前に赴きましたが、私にはまだ信じられません。そのうち、弟がふっと私の目の前に現れるような気がしてなりません」
石庵と執斎はしばらく沈黙し、亡き観瀾の在りし日のことに思いを馳せていたが、やがて執斎が、そうそう、と何かを言いかけた。だが、執斎はそのまま口をつぐんでしまった。
「何か、お話しされたいことでも?」
「ええ、いや……」
執斎が言いにくそうにしているのが石庵は気になった。
「どうか腹蔵なくお話し下さい。弟のことで、何かご存知なのでしょうか?」
執斎はそれでも言い渋っていたが、石庵に催促されてついに話し始めた。
「吉宗公が八代将軍に就任されると、新井白石殿は侍講を解任されましたが、その際、観瀾殿は、ある小文を幕閣へ提出したそうです」
「ほう」
「その小文には、自分は木下順庵殿の弟子ではない、という旨のことが書かれてあったそうです」
「えっ?」
観瀾はまぎれもなく順庵の弟子であり、木門十哲の一人に数えられているのは周知の事実である。明らかに事実と違う内容の小文を、観瀾はなぜ書いたのか。石庵は一瞬、理解に苦しんだが、すぐにはっと気づいた。
「それ以降、観瀾殿は順庵門下の仲間から顰蹙を買うようになり、他の儒者からも、その節操を疑われるようになったそうです」
石庵は言葉を失い、肩を落としてうつむいた。
「すみません。故人のこのような話、言わずもがな、とは思いましたが」
執斎はそう言って詫びた。
「いや、執斎殿が詫びる話ではありません」
白石が失脚した際、観瀾はそれに連座することを恐れて、自分は白石とは同門ではない、つまり順庵の弟子ではないと主張して、保身に走ったということなのであろう。
若い頃から、健全な意味で上昇志向が強かった観瀾ではあったが、そのような無理筋な挙に出れば、周囲からどのように見られるかは自明のことである。そんなことすら判断できないほど、観瀾は理性の鏡に曇りが生じていたのであろうか。
水戸藩に仕官して彰考館総裁に就任し、さらには公儀儒官にまで上り詰めた観瀾の人生は、いつの間にか出世主義に堕してしまったのだろうか。石庵は一点を凝視したまま考えに浸っていたが、やがて観瀾に対する怒りの感情が芽生えてきた。何と愚かな奴め、と。
大坂へ戻り、観瀾のことで鬱々として楽しまない日々を過ごしていた石庵は、さらに頭を悩ませる事実を知ることになった。
このとき住んでいた安土町二丁目の自宅兼塾舎は、六年前、三星屋をはじめ、道明寺屋、舟橋屋、寸木ほか複数の商人が出資して購入し、石庵へ無償提供されたものであった。
ところが、出資者の一人に、評判の悪い銭貸しが含まれていることが判明した。聞くところによると、その業者は、当初約束した金利を上回る利息の支払いを客に要求し、それを拒むと強面の無頼漢を数人差し向けて、腕力に訴えてでも取り立てるらしい。そのあこぎなやり口で、多くの庶民が泣かされているとのことであった。
そのことを知った石庵は激怒した。
「曲がりなりにも門下生へ仁徳を教える立場にある私が、そのような悪徳業者が出資した家に住むなど、道理が通らない」
石庵はみずから物件探しを行い、高麗橋三丁目に手頃な借家を見つけると、安土町二丁目の家を引き払ってそこへ転居した。
三星屋らは石庵の硬骨ぶりに当惑したが、むしろ、これぞ儒者の真面目なりと、石庵の行動を称賛する声が多く、結果として石庵の評判を高めることになった。
石庵としては、観瀾が晩年、保身に走ったことに対する怒りの余勢を駆った挙動、という側面もあった。もし観瀾のことがなかったら、怒りにまかせて家を引き移ることまではしなかっただろうと石庵は思った。石庵は、世間から称賛されることが少々面映ゆかった。
移転先でも多松堂の看板を掲げて、塾を再開した。従来の門下生はもとより、新たな入門者も加わったので、石庵の塾は繁盛した。このとき、大坂の有力商人であり、材木問屋を営む備前屋吉兵衛や、銀掛屋と蔵元を業とする鴻池又四郎もその門下に加わった。




