(7-7)竹山、禁酒する
享和三年(一八〇三)一月、竹山は、山片蟠桃から自著の校閲を依頼された。
「私も、はや五十代半ば、升屋の仕事に余力ができたのを契機に、日頃の思いを書き留めようと発起して昨年から筆を起こし、ようやく第一稿が成りました」
蟠桃はそう前置きし、分厚い草稿を竹山に差し出した。
「『宰我の償い』か」
稿の題字にはそう記されていた。
宰我とは、孔子の門人であり、弁論と実務能力に長けた人物だったが、道徳心が薄く、しばしば孔子に奇妙な質問を投げかけて、孔子にあきれられていたという。
「宰我は昼寝をしていて孔子に怒られたといいます。その償いのためにこの稿を書いた、という想定であるとご認識下さい」
竹山は笑った。懐徳堂の諸葛孔明と呼ばれる蟠桃は、竹山の弟子の中で最も実務能力に長けた人物と言えるが、道徳心は人一倍篤く、その点、宰我とは似ても似つかない。
内容は、歴代、政事、天文、経学の四章からなっていた。
竹山は草稿を預かり、夜間に目を通したが、老眼のため、蟠桃が欄外に細字で追記した注まではすべて読み切れなかった。蟠桃へはそうことわった上で、思ったことを記した押紙を草稿に貼り付けて返却した。押紙は全部で三十八葉あった。
蟠桃は、竹山の意見を参考にして、内容の追記と改訂を行った。
前年から体調不良の様相を示すようになった蕉園の容態は、日に日に悪化していた。
医師に診てもらい、処方薬を飲んでも、いっこうに良くなる気配がみられなかった。
「一度、懐徳堂を離れて、別天地で養生するのが良かろう」
竹山はそう言い、付き添いの下男も同道させて、蕉園を京都郊外へ静養に行かせた。
懐徳堂の外回りの仕事は、老躯をおして竹山が出向いたり、碩果が代行するようになった。また、日講は碩果と竹山、それに早野仰斎の息子、橘隧ら助教が蕉園の受け持ち分を分担することになった。
二ヶ月後、蕉園は静養から戻ってきた。
すっかり元気になったと蕉園は言い、笑顔を見せたが、顔にはやつれの色が濃く出ていて、豊かだった頬のこけ方は目を見張るほどだった。
やがて発熱し、咳き込みが激しくなり、ついには吐血した。
竹山は驚愕した。病が労咳であることに疑いはなかった。
蕉園は立ち上がることができなくなり、寝たきりになった。食事や用便も自力ではできず、介添えが必要になった。
才識豊かで、前途有望な蕉園が、なすすべもなくやせ衰えていく姿に、竹山はこの世の理不尽を痛感した。竹山が歯噛みする以上に、蕉園自身が無念の思いに包まれていることであろう。そう思い、胸が締めつけられた。
心労のためか、竹山も体調を崩してしまった。中風を得て、床に臥したが、病床に就くのは物心ついて以来、初めてのことだった。手足の痛みが激しく、蕉園同様、起居眠食に介添えが必要になった。
「日頃の暴飲暴食が祟ったのです」
碩果に厳しく叱責された。
父の甃庵も、師の蘭洲も中風であった。以前、病床の蘭洲から、あまり酒を飲み過ぎるなと諭されたことを思い出していた。それ以来、今日に至るまで、その教えを忠実に守ってきたとはとても言い難い。
「おぬしは、あまり酒を飲み過ぎるな。わしの二の舞になるぞ」
かつて師から言われた言葉そのままを碩果に伝えた。
「言われるまでもありません」
碩果の反応は冷たかった。竹山は急に可笑しみが湧き、天を仰いだまま哄笑した。そんな竹山を、碩果は不審そうな面持ちで眺めていた。
十日ほど臥せると、竹山の中風は小康状態となり、床上げを行った。以後、日頃の食生活を悔い改めて酒を絶ち、暴食を控えるようになった。
五月、広島藩儒、頼春水は、江戸勤番の任を解かれ、国元勤務を命ぜられた。帰国の途次、大坂に立ち寄り、懐徳堂へ顔を出した。
竹山は、久しぶりに春水の顔を見て喜び、酒をふるまったが、竹山は緑茶であった。
「竹兄は酒を飲まないのですか?」
「すっかり体力が衰えてしまい、酒はやめた。それに、倅が……」
蕉園が重病であることを、春水はすでに聞き知っていた。
翌日、春水は、履軒の水哉館へ行った。
二人で酒を酌み交わしつつ、春水は、息子の不行跡について愚痴をこぼした。
春水の長男、久太郎は、山陽と号していた。幼少期から学問の筋が良く、十八歳のとき、義理の叔父でもある昌平黌の尾藤二洲に一年間師事した。その後、国元へ戻ったが、二十一歳のとき、親戚の弔問に出かけたまま、行方をくらました。
出奔前、上洛したいと話していたことを思い出した母の静子は、山陽が京都に居るのではないかとあたりをつけた。そのことを春水の実弟で、広島藩儒でもある杏坪に告げると、杏坪は京都へ赴いて山陽を見つけ出し、広島へ連れ帰った。
春水は、突拍子もない行動に出た山陽を廃嫡とし、広島の自宅へ幽閉した。山陽は今も座敷牢で起居しているという。
「長年、離れて暮らしたことが、山陽を甘やかせてしまったようです。私もこれからは国元勤務になるゆえ、山陽へはみっちりと人の道というものを仕込んでやろうと思います」
「ぜひ、そうするがいい」
履軒は、春水の話に笑いながらも、出奔するなど山陽はとんでもない奴だと憤った。
履軒はこの時期、「弊帚続編」という論文集を著した。この書で履軒は、南北朝時代の武将、新田義貞と足利尊氏について論じている。
「大義名分論の観点からは、新田義貞は後醍醐帝に忠義を尽くした忠臣、対して足利尊氏は、後醍醐帝に弓引いた逆臣だと言われている。だが、双方とも権力欲に根差した行動原理は同じであり、五十歩百歩である」
また、戦国時代の武将、武田信玄と上杉謙信についても論じていて、
「武田信玄、上杉謙信を古今の良将なりと世間は喧伝するが、良将とは、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず獲る将帥を指す。しかるに、信玄、謙信は、五度にわたって川中島で会戦し、勝敗決せず双方ともに軍を引き上げた。いたずらに干戈を交えて功を成さず、数多の死者を生むだけにとどまったこの二将を、果たして良将と賞するのが妥当だろうか?」
と、神格化すらされかねない世評に対し疑問を投げかけている。
権力欲、領土欲、名誉欲、それに必要以上の物欲というものに対し、履軒は一切の理解を示さなかった。そういう欲こそが世人一般の生きる糧であると人から諭されても、履軒は耳を貸さなかった。
「他人のことはいざ知らず、一個の履軒は、唯に書を読み、唯に書を著すのみ。そこに一盞の酒があれば尚のこと好し」
古希を過ぎ、生来の眼疾に加え、老眼でものが見えにくくなった履軒だが、学問への熱意は壮年時に勝るとも劣らなかった。
「これから江戸へ行き、尾藤二洲先生とお会いしますが、何か言伝はありますか?」
華胥国へやってきた知人からそう問われると、履軒は言った。
「二洲へ伝えて下され。学業が進むのは、けだし七十を過ぎてからである、と」
少壮時に書いた稿を改めて読み返してみて、若書きが目に余るものは火にくべて焼却したりもした。年月を経て学問がより深化したことの証であり、自身の成長ぶりに感懐を抱くこともできるはずだが、履軒はかつての未熟な自分を許さなかった。




