(7-6)天子知名
懐徳堂の門前を東西に伸びる今橋筋には、広壮な鴻池本店のほか、道明寺屋や尼崎屋、越後屋などの大店が軒を連ねている。ふだんは多くの人々が行き交い、繁華な様相を呈しているが、正月は商家の門前に門松が飾られ、人の行き来もまばらで、いつになく静かな佇まいを見せている。
公儀から拝領の時服を着て正月を迎えた竹山は、松の内に遺言状をしたためた。五通あり、宛先はそれぞれ、蕉園、碩果、履軒、同志門生、鴻池和三郎であった。和三郎は、懐徳堂創設時の同志、鴻池又四郎の玄孫である。
七十一歳になった竹山は、自分の死について考えることが多くなった。できれば百歳まで、いや、永遠にでも生き長らえたい。だが、現実には死はそう遠くない将来、自分の身に降りかかってくることは必定である。そのとき、向後の混乱を招かないように、きちんと指針を記しておくのが自分の責務であると考えた。
「今は見てはならぬ。わしの死後、開封せよ」
竹山は蕉園、碩果へそう厳命し、遺言状の保管場所だけを伝えた。
碩果は、前年の暮れに懐徳堂を出て、妻の幀子や娘たちとともに天満へ居を構えていた。そこから懐徳堂まで約半里の道を通って日講を受け持つ一方、天満で私塾を開いた。
「懐徳堂講師の仕事をおろそかにするつもりは毛頭ありませんが、私はもうすぐ三十路、自身の修養も兼ねて、一度懐徳堂を出て自活したいと思います」
碩果はそう意向を漏らし、竹山は了承した。焦園と違い、あまり社交を好まない碩果にとって、四六時中人が出入りする懐徳堂の賑々しさに気疲れしたのだろうと竹山は思った。
ただ、碩果がいずれ懐徳堂の講師を離れ、履軒のように完全に独立することになりはしないかとの心配もあった。竹山としては、自分亡き後、焦園と碩果が協力しながら懐徳堂を盛り立てて行ってほしいという思いがあった。
古希を過ぎた竹山あてに、二件の招聘話が舞い込んだ。
一件は、肥後熊本五十四万石の細川家から、禄千石で藩儒に、という話であった。以前、加賀藩や薩摩藩から招聘を受けたときと同様、官許懐徳堂学主としての責務があることを理由に、竹山はそれを固辞した。
もう一件は、昌平黌からであった。今般、「編年の大典」を編むことになり、昌平黌内に史局を新設することになったとの由で、その総裁に竹山を迎えたいという。「逸史」献上によって、竹山が史学にも造詣が深いことを知った公儀が白羽の矢を立てたものと思われた。
昌平黌への竹山招聘の旨が記された尾藤二洲からの手紙が懐徳堂に届いたとき、竹山は蕉園を伴って龍野へ出かけていた。懐徳堂預人となった蕉園のお披露目が目的で、龍野の親戚や龍野藩関係者の間をあいさつして回った。
帰坂した竹山は、二洲からの手紙へ返信をしたためた。高齢ゆえに、文書執筆に難儀しており、駕籠の乗り降りにも支障を来たしている状態であるため、固辞すると書いた。
「華胥国王にはいかがお過ごしのことでしょうか? 国王は以前、才鬱だと述べられておりました。私としては、国王の日本国への復帰、ならびにその才の縦横なる発揮を常々願っておりますが、一国の王ゆえ、それは難しい相談なのでしょうか?」
二洲からの手紙には別紙が入っていて、そう書かれてあった。竹山は、
「華胥国王は相変わらずの閉戸生ではあるが、経学研究は相当に進展を遂げている」
と返信に追記した。
そんな折、焦園が体調を崩しがちになった。
ときどき眉間にしわを寄せてうなだれたり、咳き込むことが多くなった。
「単に龍野行きの疲れが溜まっただけです。じきに回復します」
焦園は快活に笑って気にも留めない様子だったが、竹山は嫌な予感に襲われていた。
享和元年(一八〇一)、古賀精里から、亡母の墓碑銘揮毫の依頼が竹山あてに届き、竹山はそれを受けて筆を執った。
竹山は、これまで多くの人々から書の揮毫を求められてきたが、都度それらを快く引き受け、筆を振るってきた。それが官許学問所学主としての役割だとの義務感もあったが、竹山自身、そのことが好きだったことにもよる。
一方、履軒は、請われても容易に書の筆を執らなかった。そういう依頼を受けると、たいがいは表情を曇らせて押し黙り、ときには邪険に手を振って拒絶の意を示した。
そのため、履軒の書は稀少であり、「中井徳二」と署名した履軒の名刺は、好事家の間では一枚七百文で取引されているという。
そんな履軒には、お気に入りの按摩がいて、肩凝りがひどいときなどにときどき呼ぶが、その按摩にだけは自筆の書を与えることがあった。履軒の書が欲しい者は、その按摩に接触して、いくばくかの金品と引き換えに入手しているとの噂もあった。
「履軒子の書は、けだし三変せり。壮時は清らかなれども強健峻峭、中年時は高雅幽婉、老に至って飄逸恬澹、飛ぶが如く舞うが如し、あたかも竹葉の低垂する様にも似たり」
履軒の書について、ある識者はそう述べ、老の書をもって至極の域に達したと評した。世間でも、履軒の後年の書ほど価値が高いと見る向きがあった。
「私の書は、中年の作こそ上乗と見ている。老後は目が昏く、筆意ままならないのをもどかしく感じている。それなのに、世人が後者をもてはやし、前者よりも優れているとは、いったいどういう謂なのだろうか?」
世評を耳にした履軒は、疑問を呈した。剛健明瞭な書の方が良いことは明白であるのに、世の中は必ずしもそういう評価に帰着しない。かつての履軒なら、そのことに激しい憤りを覚えたが、最近は、世の現実とはそんなものだと苦笑するぐらいであった。
光格天皇が、高辻胤長と談笑の折、たまたま竹山と履軒のことに話が及んだ。
「朕は、かつて竹山の書は見たことがあるが、履軒の書は見たことがない。履軒はあまり書を書かぬそうだな」
お上がそう話されたと、竹山は胤長からの手紙で知った。竹山は、帝が自分と履軒の名前をご存知であることにいたく感激し、たまたま懐徳堂を訪れていた篆刻家の前川虚舟にそのことを話した。虚舟は若年時、懐徳堂で学んだことがあり、竹山、履軒と親しかった。
「これぞ儒林処士の誉れ」
虚舟は膝を叩いて喜び、帰宅後すぐに、
「天子知名」
の四文字を刻した磁印二顆を作製した。虚舟はこれを竹山と履軒へ一顆ずつ贈った。
竹山は磁印を押し戴くと、筐中深く収納して家宝の一つとした。
一方、履軒は、虚舟へは一応の謝意を表したものの、内心、さして喜びもしなかった。
受け取った磁印はほかの印鑑と一緒に無造作に籠に入れておいたのだが、いつの間にか紛失してしまった。しかも、そのことに気づいたのはだいぶ後年になってからであった。




