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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第7章 官学の夢
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(7-5)竹山、預人を退く


 寛政九年(一七九七)六月、竹山の娘、()()が男児を出産した。

 刀自の夫、並河尚誠(なみかわしょうせい)は大坂で医院を開業する医師であり、尚誠の祖父は、伊藤仁斎の高弟でありながら、やがて仁斎の古義学批判に転じ、四十歳でこの世を去った並河天民である。天民の兄、並河誠所(なみかわせいしょ)は、かつて懐徳堂の講師を務めたことがあった。

 男児は(また)(いち)と名付けられた。

 蕉園も碩果もすでに妻帯していて、それぞれ子がいるが、みな女児であった。兄弟には以前、一人ずつ男児が生まれたものの、いずれも夭折していた。そのため、この時点の竹山にとって、復一が唯一の男孫であった。

 八月、六十八歳の竹山は、隠居することを内外へ公表した。

 気力、体力の衰え甚だしく、特に大阪城や町奉行所への届出や伺候など、外向きの仕事に支障を来たすようになったことがその理由であった。

 同志の商人たちにそのことを諮り、承諾を得ると、三十一歳になった蕉園が懐徳堂預人を引き継ぐことになった。

「私儀、老年に及び歩行難渋仕り、表向きの務め出来かね候に付き、当秋中に隠居仕り、倅淵蔵(蕉園)が家督相続仕り、学校預人相務め、表向きの諸事、年来私が相務め候通りに仕らせたく存じ奉り候」

 と、町奉行所へ隠居願を提出した。

 ただ、学主の職には留まることにした。日講も、受け持ちは減らすものの、引き続き竹山みずからが講席に立った。

 竹山は、隠居を機に、(せつ)(おう)の号を称することにした。

(せつ)(おう)、と、雪の字を冠した方がいいかもしれない」

 一時は食事量を減らし、瘦せた時期もあったが、すぐに肥満体へと逆戻りした。暑さが体にこたえ、寒さを好む竹山が冗談めかしてそう言うと、蕉園と碩果から、もっと養生するようにと真顔で諫められた。

 預人の職務を蕉園へ引き継がせた竹山は、得られた余暇を使って、徳川家康の編年体の一代記である「逸史(いっし)」の完成を急いだ。この書を起稿したのは三十年以上前であった。草稿はほぼ出来上がっていたのだが、業務や雑事に追われてなかなか考証や推敲の時間が取れず、作業が中断したままになっていた。

 豊後の脇愚山(わきぐざん)に序を書いてもらったが、竹山もみずから自序を添えた。

「おしなべて大坂庶民は太閤贔屓であり、東照神君を悪しく思う者が多い。これは感情の私から発していることであって、是非の公論ではない。今日の大坂の昇平、徳川家の恩沢に由来することを大坂人は公正に知るべきである」

 時間をかけて全十三巻の浄書を終えた。さらに副本を筆写し、正副二部を手元に備えた。

 十二月、湯島聖堂が公儀直轄となり、昌平坂学問所、あるいは昌平黌と称せられることになった。従来から半官半民ではあったが、これで正式に官学の学問所となった。

 柴野栗山からの手紙でこのことを知った竹山は、胸のざわめきを覚えた。

 すでに諦め、心の奥底へと追いやったはずの懐徳堂官学化の夢であったが、「官学」という文字を目にすると平静ではいられなかった。

 もう過去の話。竹山は、何度も自分にそう言い聞かせると、背筋を伸ばして端座、黙想し、心の波打ちを鎮めようと努めた。

 昌平黌発足と同時に、湯島聖堂取締だった柴野栗山が江戸城西の丸奥儒者へ転じ、十一代将軍家斉の次男で、将軍世子である五歳の(とし)次郎(じろう)改め家慶の侍講になった。栗山に代わって、古賀精里が昌平黌取締に就任した。

 年が明け、正月十六日に懐徳堂で初講が行われた後、新年の宴が催された。

 この宴席で、余興に書画の競作が行われることになった。

 席に連なっていた絵師の(らん)(こう)が、深衣に身を包み、書見机に経書を置いて講義する竹山の後姿を紙本(しほん)墨画(ぼくが)で描いた。頬は丸みを帯び、肩から背中にかけての線が豊かな肉付きを思わせる画であった。

「私は、こんなにも肥えているだろうか?」

 竹山はやや不満だったが、参加者はみな、

「いやはや、よく描けています」

 と、笑いながら言った。

 せっかくの肖像画なので、竹山みずから賛を付すことにした。

「教師となって四十余年、浅学の自分は天意、人道を極めたとはとても言い難い。だが、微力を尽くして道を守り、異端の学を払い斥けることに注力してきた。こんな自分の営為を認めてくれる世もきっと来るのではあるまいか」

 画上の余白に漢文でそう記し、渫翁と署名した。

 矜持が過ぎたかもしれない。竹山はそう言って苦笑した。

 新緑の季節を迎えた頃、蕉園が江戸遊覧に出かけることになった。

 懐徳堂預人となった蕉園は、まだ江戸へ行ったことがなかった。一度江戸へ赴き、昌平黌の碩儒らと親睦を深めるのが将来のためにも得策だと竹山は考え、蕉園を出立させた。

 江戸での蕉園は、佐倉藩堀田家の下屋敷に逗留し、竹山、履軒の友人である西の丸奥儒者の柴野栗山、昌平黌の尾藤二洲、古賀精里を訪ねた。この三人は、公儀儒官の中でも特に重きを置かれる存在であり、「寛政の三博士」と呼ばれていた。また、かつて懐徳堂で竹山に師事したことがある佐藤一斎にも会い、一斎の主君であり、師でもある昌平黌の学主、林述斎とも面識を得た。

 蕉園は、ほかにも江戸在住の儒者を訪ねて回り、九月に帰坂した。

 十一月、大坂町奉行所から懐徳堂あてに、出頭せよとの連絡が来た。

 何事かと竹山は不安になったが、蕉園がすぐに奉行所へ赴き、事情を訊いてきた。

「父上が書いた『逸史』を公儀へ上納するようにとのお達しでした」

「なんと」

 竹山は、蕉園出府の際、「逸史」の副本を蕉園に託し、それを公儀儒官の三博士へ披露するよう依頼していた。長年の力作ゆえ、有力な第三者の意見を聴取したかったからである。斜め読みながら、三人からおおむね高評価が得られたと、竹山は蕉園の報告を受けていた。

 どうやら、三人のうちの誰かが「逸史」のことを林述斎に伝え、述斎が幕閣へ伝えたため、かかる上納の指示が大坂町奉行所経由で下りてきたのだろうと竹山は思った。

「身に余る光栄」

 竹山はそう言い、献上用の「逸史」の準備に取りかかった。

 清書に先立ち、句読点の打ち方や、使用を避けるべき文字、筆写にかかる人数、費用、納期、献上方法などにつき、町奉行所と綿密に打ち合わせを行った。

 合わせて、献上書に添える上奏文を起稿し、その草稿を昌平黌へ送って意見を求めた。後日、林述斎、古賀精里の意見が朱筆で入った草稿が送り返されてきたので、それを参考にして上奏文を完成させた。

 全十三巻の清書は、竹山、蕉園、碩果が手分けして行い、完了したのは寛政十一年(一七九九)七月であった。献上書は浅黄羽二重の袱紗(ふくさ)で包み、春慶塗の箱へ納めた。

 町奉行所への引き渡しの日、懐徳堂門前に高張提灯を立てた。町奉行所から使者がやってきて、箱を渡し終えると、竹山はようやく胸をなで下ろした。名誉なことではあるものの、上納を言い渡されてからの日々は緊張が解けなかった。

 十一月、「逸史」献上のご褒美として、葵紋の時服二着が町奉行所から届けられた。一着は、表が花色二十格子縞、裏が御納戸茶絹の熨斗目(のしめ)、もう一着は黒羽二重裏浅黄の小袖であった。

 翌年元日、竹山は拝領した時服を着てお披露目とし、表情晴れやかに訪問客に応接した。

 「逸史」の献上と、時服の拝領について頼春水へ手紙で伝えると、春水からは、

「儒門の栄幸、大いなる御功績」

 と、賞賛の返信が届いた。

 一方で、この出来事を、竹山の公儀に対する阿諛迎合だと難じる儒者もいた。

「中井竹山が書いた『逸史』のあまりの諛説(ゆせつ)ぶりに、弟の履軒は、この書を仕官の種と為す悪書であると憤り、兄と義絶した」

 後年、ある儒者はそう述べたが、履軒は竹山と義絶しておらず、事実と異なる。

 竹山は、そういう風聞が聞こえてきても、いっこうに気にしなかった。そもそも、「逸史」を仕官の種などにしていない。何か事を為せば、あえてそれに反感を抱いたり、曲解したりする者が必ず存在する。それが世間というものの常態であると竹山は観じていた。

 一方、履軒はようやく、「七経雕題(しちけいちょうだい)」の注釈を整理し直した「七経雕題略」を書き終えた。

「我を知り、我を罪するはこの編にあり」

 約三年に及ぶ労作完成に、履軒はやや興奮気味にその序に記している。

 水哉館の門下生へは、この書物の自由な閲覧、筆写を許した。そのため、人づてにこの書物の存在が儒学界で知られるようになった。

 春侯のある日、履軒は、息子の雄右衛門や門下生たちとともに、住吉の(いで)(みの)(はま)へ潮干狩りに出かけた。白砂青松の海岸で、ひとしきり蛤を拾った帰りに、住吉大社の脇を通った。

 すると、地べたに茣蓙(ござ)を敷いてうずくまる乞食が何人もいた。見ると、みな一様に襤褸(ぼろ)を身にまとい、毛髪も髭も伸び放題、近くに寄ると異臭が鼻を突いた。

 乞食の一人が、汚れた木椀を弱々しく差し伸ばして、

「今日生きるのが精一杯で、明日をも知れぬ身の上にございます。どうかお恵みを」

 と銭を乞うた。すると履軒は、その乞食に向かい、

「『論語』に、幼少時に謙虚ならず、長じてからもこれと言った見どころがなく、老いてはただ生き長らえて死にもしないのは賊害だとある。五体に不備がないのに、坐して憐れみを乞う汝らの長生は無益だ。明日を待つまでもない。もし明日を知りたければ、今すぐに顔を洗って髭をあたり、港で船荷の水揚げ人足としてでも働け」

 と叱り飛ばした。みずから手足を動かさず、ただ人に乞うだけの怠慢が許せなかった。

 経書への注釈整理の大仕事を終えた履軒は、しばらくは熱した脳を冷ます日々を送っていたが、満足感とは裏腹に、何か物足りなさを感じていた。

 「七経雕題略」は、自説に加え、諸家の説も複数記載した体裁をとっている。そのため、履軒自身の結論はどうなのかということが分かりにくくなっている。どうやら、このもやもやした物足りなさの原因はその点にあると気がついた。

 そこで履軒は、経書解釈の諸説を吟味勘案し、自説として一本に集約する作業を改めて行うことにした。書名は、「七経逢原(しちけいほうげん)」とすることに決めた。

 このとき、履軒は六十七歳であった。最近、徐々に目が見えにくくなってきていることに加え、気力、体力も少しずつ下り坂である。壮年時のようには仕事がはかどらないだろうし、一字一句について考察を加える作業には、膨大な時間を要することが予想される。それを覚悟の上で、どんなに時間がかかってもやり遂げようと思った。

 果たして、自分の生命がもつかどうか。それが心配だった。一身の養生に配慮しつつ、あとは天命に委ねるしかない。そう考えて、新たな仕事にとりかかった。


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