(7-4)潮時
竹山が懐徳堂再建に向けて奔走していた間に、履軒の身辺にも変化が起きていた。
履軒は、絹と離縁した。正しくは、絹が履軒のもとを去った、と言うべきであった。
絹は、北久宝寺町の水哉館兼華胥国から、養家の尼崎屋へ戻った。
「無理もない。わしのあまりの奇矯、閉戸ぶりに、絹も愛想を尽かしたのだろう」
履軒は、絹の希望を甘んじて受け入れた。金に無頓着で、替えの下着にも事欠くことがあるほどの貧窮ぶりも、絹には気に入らなかったのだろうと思った。十三歳になった一子、雄右衛門は履軒が養育し、学問を授けるが、母に会いたければいつでも尼崎屋へ行っていいという条件付きであった。
水哉館では、掛け買いした米や魚、野菜、酒などの代金を歳末に支払う際、玄関に金を入れた箱を出しておいて、商人に勝手に取らせるやり方が恒例であった。遅れてきた商人は、箱の中がすでに空になっていて取りはぐれることがあるが、それでも苦情を言わず、
「出足が遅れました。またの機会に頂戴します」
と言ってそのまま帰った。金に執心しない履軒先生ならやむを得ない、と言ったという。
ある日、履軒がふと古道具屋を覗いたとき、刀剣の古鐔が目に留まった。その古格ぶりと意匠とが気に入って、値も聞かずに店主に銀二分を支払い、古鐔を手に店を出た。
「これは、それほどの値ではありません」
店主は慌てて履軒を追ったが、履軒は手を振り、そのまま歩き去った。
後日、その古鐔を目にした水哉館の門人がそれを欲しがり、譲って欲しいと履軒に乞うた。履軒は拒んだが、門人は執拗に譲渡を求め、一両小判を財布から取り出し、履軒の目の前へ置いた。
やむなく、履軒は小判と引き換えに古鐔を門人へ譲った。
すると履軒は、その足で古道具屋へ赴き、
「あの古鐔は、結構な値打ちものであった」
と言い、再び銀二分を店主へ渡して店を出た。先に支払った二分と合わせて、総額一両を支払ったことになり、履軒自身の金銭の出納はなかったことになる。
店主は、呼び止めても立ち止まらない履軒の後をつけ、巨眼で首に瘤があり、髪を茶筅様に結んでいるこの人物が、水哉館の閉戸先生であることを突き止めた。
翌日、店主は差額分の鮮魚を購い、それを籠盛りにして水哉館の玄関へ投げ入れた。
履軒は、経学研究の基本である七経への注釈書き入れ(「七経雕題」)を三十年来継続してきた。だが、余白が少なくなってこれ以上の追記が難しくなり、しかも記載内容が入り乱れてしまっていて、自分以外は読めない状態になっていた。
そのため、改めて注釈をきちんと清書し直すことにし、それを「七経雕題略」と名付け、地道な作業に着手した。
「『大学』の著者は、孔子の直弟子だった曾子だと言われているが、どうやらそうではないらしい。後世の別の人物が、孔孟の思想に準じて書き起こしたものと見る」
履軒は、長年の研究成果としてそう述べ、四書のうち、「論語」「孟子」「中庸」の三書のみが、孔子の道を直に伝えるものだとの見解を示した。伊藤仁斎も同様なことを述べていて、履軒は、仁斎の意見に賛同した。
「三書以外の経書は、秦の始皇帝が行った焚書坑儒によって滅失してしまった」
とも付言した。
膨大な書き込みの整理はかなり骨の折れる仕事であり、何年もかかると思われたが、履軒はときどき酒を飲みつつ、粛々と筆を進めた。
懐徳堂の再建が完了してからまもなく、竹山のもとへ、大名家からの仕官要請二件がほぼ同時に舞い込んだ。
一件は、加賀百二万五千石の前田家、もう一件は、薩摩七十二万九千石の島津家からであり、いずれも藩儒として禄千石という破格の待遇であった。
全諸侯の中で、石高第一位の前田家と、第二位の島津家から、それも高禄での仕官要請ということで、儒者としての竹山の声望の高さが改めて浮き彫りになる出来事だった。竹山は、雄藩から評価され、求められたことに歓喜したが、懐徳堂学主としての責務があるとの理由で、二家の要請をそれぞれ断った。
齢六十七歳となった竹山は、気力面、体力面において仕官には耐え難いことも事実であった。還暦を過ぎても衰えを知らず、精力的に活動を行ってきた竹山だが、火難に遭い、再建に奔走したことで神経をすり減らし、消耗してしまった。官学化の夢を断念せざるを得なくなったことも、気持ちの張りを失う遠因になっていた。
そんな折、竹山は北堀江にある木村兼葭堂の邸へ顔を出した。するとそこに、江戸の画人で、白河侯松平定信の家臣でもある谷文晁がいた。定信の命を受けて、畿内の社寺什宝の調査に出張してきたとのことであり、この日は兼葭堂を訪ねて来ていた。
竹山は、定信の近習でもある文晁との邂逅を喜び、
「再建した懐徳堂の襖絵を描いてもらえませんか?」
と持ちかけた。文晁はそれを承諾し、懐徳堂に数日逗留して、講堂の襖に「帰馬放牛図」と「鵲巣図」二幅の画を描いた。
「聞きしに勝る出来栄え、見事です」
竹山は謝意を述べると、いくばくかの金子を包んで、しぶる文晁に手渡した。
同時期、佐賀藩儒の古賀精里が公儀の儒官に就任し、湯島聖堂で勤務することになった。
精里はこれまでも、公儀から何度か仕官の打診を受けていたが、君恩忘じ難く、それを断っていた。だが、主君である佐賀三十五万七千石の藩主、鍋島肥前守治茂から、
「そなたの学才、ひとり佐賀藩のためだけではなく、本邦のために尽くせ」
と言われ、精里は決心した。
「我らが同朋、一様に湯島に集結か」
「栗山、二洲に続いて、精里までもが公儀へ出仕するとは」
一夕、竹山と履軒は、懐徳堂で酒を飲みながら、そんな会話を交わした。
「わしは、このあたりが潮時かな……」
「兄上、今何と?」
「いや、何でもない」
いぶかる履軒の横で、竹山は杯を重ねていた。




