(7-3)尊号一件と、大御所称号問題
十一代将軍家斉の実父は、御三卿の一つ、一橋家の第二代当主である一橋中納言治済である。家斉は父治済に「大御所」の称号を贈り、合わせて江戸城西の丸へ住まわせることを望み、その議を幕閣へ諮った。
「将軍職に就いていない治済様に大御所の称号を奉るのは、筋が通りません」
松平定信は、そう言って反対した。
家斉は何度も定信に翻意を促したが、定信は筋が通らないの一点張りで、頑としてそれを受け付けなかった。
そういうことがあって、家斉は定信へ意趣を含むようになったという。
この問題に先立って、皇室でも、今上の光格天皇が父である閑院宮典仁親王へ「太上天皇」の尊号を贈ることを望み、朝廷から公儀へその承認を求めた。
だが、定信はこの件に関し、皇位に就いていない親王殿下に太上天皇の尊号を奉るなど、有史以来、あり得ないことだと反対した。実際には、過去に二例ほどあり、それを盾に朝廷は再三、公儀へその要望を突き付けたが、定信は強硬に突っぱねた。
「禁中並公家諸法度に、『現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次は、親王より上である』と明記されています。三公の下座にあられる親王殿下が太上天皇など、合議するまでもありません」
「尊号一件」と呼ばれるこの議は、結局立ち消えに終わった。
定信としては、先に朝廷からの要望に反対し、頓挫させた以上、同様な趣旨である家斉の求めにも反対する以外の選択肢はなかった。
家斉から不興を買った定信は、辞職願を提出した。はじめ、家斉は慰留したのだが、結局それが受理され、定信は職を退くことになった。
定信の行った改革は、厳しい倹約令が出されたりもしていて、思いのほかそれが庶民には不評だとの噂もあった。
「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
定信の御触の厳しさに、田沼意次が老中だった頃の賄賂政事の時代を懐かしむ狂歌が流行っているという。
「予は不肖にしてみだりに重職にあずかり、日々悩みつつ、かつ危ぶみながら政事に励んできた。在任中、幸いにも大過なく、譴責を免れることができたのは、ひとえに卿らの補翼の力による。この恩、いずれの日をもってか報いたい」
御用部屋を退出する際、定信は配下の役人たちに対しそうあいさつしたという。
その身の処し方のさわやかさに、竹山は感心した。と同時に、定信ほどの清廉公正な人物が、幕閣に長く留まることができず、志半ばで辞職する羽目になる世の現実というものに、やりきれない憤りを覚えた。
改めて思い返してみると、江戸で定信が竹山の謁見に応じなかったのは、定信自身の立場が揺らいでいる状況下、安易に面会を許して懐徳堂官学化の内諾を与えた場合、それが空手形になることを懸念したためだったのかもしれない。竹山は、会わなかったことが定信の配慮だったのだとあえて思い込もうとした。
奉行所へ再提出した書類に対する返答は、なかなか来なかった。これは、定信辞任の影響で、幕閣での事務決裁が滞っているためであろうと思い、竹山は気長に待った。
年末になり、ようやく奉行所から呼び出しがあった。
「城代は、『千五百両も、過大と言わざるを得ない。もっと工夫し、減額せよ』との由」
与力からそう言われた。
これは相当に骨が折れる。竹山はやむなく、削れるところは可能な限り削って図面を作成し直し、費用見積もりを千両として提出した。
年が明け、桜が散り始めた頃になって、出頭せよとの連絡があった。
「『千両でも高過ぎる』とのお考え」
そう言われて、三たび突き返された。
「具体的に、費用はいくらぐらいにすれば良いのでしょうか?」
もっと減額せよと言われても、目安が分からないため、この先何度もこういうやりとりが続くことにもなりかねない。竹山は、たまりかねて与力にそう質問した。
与力は、改めて城代へ打診し、おって知らせると言った。
後日、呼び出されて奉行所へ赴くと、与力から言われた。
「『五百両で見積りせよ』との城代からのご指示」
竹山は、叫び出しそうになった。五百両では、原状回復すらままならないではないか。
「城代閣下への拝謁をお許しいただき、懐徳堂再建の意義をそれがしの口から直接お伝え申し上げたいと願いますが、それは可能でしょうか?」
「『本件に関し、直接の面晤には応じない。奉行所を通じてやりとりせよ』と城代は申されております」
ここまで冷ややかな応対をされるものなのか。竹山は、無力感に苛まれたが、建屋の本普請に漕ぎつけるために、耐えるしかなかった。
やむなく、もうこれ以上は無理というところまで削減した図面を作成した。実際、費用は五百両では収まらない見込みだが、それを五百両の見積もりとして提出した。
その一方で、竹山は鴻池や升屋など、同志や門下生の商人たちの間を奔走し、公儀からの支給金で不足する分の費用の拠出を依頼した。それでようやく、五年の掛金を条件に、資金調達の目処が立った。
すでに官学化のことは諦めていた。それどころではなく、建屋を再建し、火災前のような体裁に戻すことが最大の目的になっていた。
こういうやりとりにかなりの日数を費やし、結局、再建許可が下りたのは寛政七年(一七九五)七月であった。被災から三年以上が経過していた。
「『金三百両を公費から支給する。すみやかに再建せよ』との城代からの御下知」
五百両での見積もりを指示されたが、結局、満額は支給されなかった。
竹山は、もう驚かなかった。改めて同志や門下生に事情を伝え、不足分の資金調達に回った。幸いにも、みな竹山へ同情を示し、すぐに資金確保が実現した。
八月から工事が始められた。講堂ができるまでの間、講義は休講とし、竹山一家は、一時的に同志の商家へ移り住んだ。
懐徳堂を官学にする。竹山は、前のめりになっていた自分を恥じた。そもそも公儀―定信も含めて―は、懐徳堂の官学化などという考えはまったくもっていなかった。あくまでもそれは竹山の願望に過ぎず、それをものさしにして、再建費用に三百両しか支給されなかった、などと不満を抱くのはお門違いであった。むしろ公儀は、懐徳堂の存在意義を前向きに評価し、惣嫁火事で万を下らない家屋や施設が焼失した中、懐徳堂再建のために三百両もの大金を公費から支給した、ととらえるべきであった。
懐徳堂を格式張ったものにするための竹山の情熱とは対照的に、同志や門下生たちの懐徳堂への純真な敬慕と、厚い支援。竹山は、今回の出来事を通じて、自分の情熱が間違った方向へ向かっていたことを痛感した。
「学問は、忠孝を尽くし、職業遂行の資とするために修めるものである。懐徳堂の講義は、かかる目的達成のために行われるもの―」
懐徳堂開設当初に定められた壁書に、こう書かれている。船場の殷賑の只中に、懐徳堂は商人たちの手によって創設された。その存在意義は、碩学の儒者を輩出することではなく、近隣の商人たちの情操教育に寄与することにあった。
その原点を忘れていた。いや、忘れていたわけではないが、あえてその域を脱して、懐徳堂を江戸の湯島聖堂に並び称せられる西の学府に仕立て上げようと願望を抱いた。同志の商人たちが懐徳堂の運営に口出しすることさえも徐々に排するように仕向けていった。
だが結局、懐徳堂は商人たちによって支えられている。それは昔も今も同じであった。
一年後の寛政七年(一七九六)七月、懐徳堂の再建工事が完了した。総工費は約七百両であった。講堂、事務住居棟に加え、五棟からなる寄宿舎が建てられ、各棟はそれぞれ、梅舎、桃舎、槐舎、桂舎、楓舎と名付けられた。また、資金に余裕はなかったが、屋根瓦にはあえてこだわり、すべての瓦当に「學」の文字を刻印した。
竹山は、再建を機に「懐徳堂記」という一文をしたためた。そこには、まず懐徳堂の「懐徳」の意味について述べ、次いで、惣嫁火事による建屋焼失と、その再建に向けた同志や門下生たちの献身的な協力に言及し、かつ彼らの尽力を謝している。最後に、懐徳堂の教育方針と、学生が学ぶ際の心得について触れている。
この「懐徳堂記」は、講堂南面の鴨居に掲げられた。




