(7-2)白河侯辞職
八月十一日、江戸へ到着した竹山一行は、日本橋本石町の貸座敷に落ち着いた。
翌日、竹山は、八丁堀にある白河藩上屋敷を訪れ、定信への拝謁を求めた。
「ただいま御城にて公務中です。帰邸が何時になるかは分かりません」
応接した用人にそう言われたため、いったん引き下がり、また後日、訪ねることにした。
老中松平乗完のほか、元大坂城大番頭の堀田正穀、元大坂城加番の遠山友随など、大坂で面識を得た在府の大名や、かつて大坂城や町奉行所に勤務していた旗本など、竹山は逐一訪問して回った。面会できた面々からは、時宜に適った企て、その趣旨に賛同申し上げる、など好意的な回答が得られた。だが、実際にそれを決裁し、実行に移すためには、白河侯を動かすに如かず、と異口同音に言われた。
竹山は、何度も白河藩上屋敷を訪ねた。
「肺腑を残らずお示し仕りたく存じ候」
懇願したものの、公務中である、多忙につき今はご遠慮あれと都度言われてしまった。
「なにとぞ、これを越中様のご高覧に供していただきたく、伏してお願い申し上げます」
やむなく、持参した建白書を用人に渡して、貸座敷へ戻った。
日をおいてから、再び白河藩上屋敷を訪れると、
「殿からの言伝は、『今般の被災、誠に心痛の至り。先生の願いの筋は了解したゆえ、大坂町奉行所へ文書にて申請下され』とのことです」
用人からそう言われ、奥州紙布三端を下賜された。
竹山は、これ以上嘆願しても、定信への拝謁は叶わないものと悟った。当初の目的を達することはできなかったが、「願いの筋は了解した」との定信からの言質を取ることができただけで多とせざるを得なかった。
その翌日、湯島聖堂の柴野栗山、尾藤二洲と会った。竹山は、二人から懐徳堂の火難について哀憐の情を述べられ、かつ、懐徳堂の官学化を支持すると言われ、心を強くした。
江戸での用向きがすべて済み、そろそろ帰坂しようかと思っていた矢先、同行した渋井小室から驚きの情報がもたらされた。
「我が主君、堀田正順が、八月末に、大坂城代から京都所司代へ転出した由にございます」
「何ですと!」
正順にとって出世と言える人事であり、竹山は祝意を伝えたが、本心では、懐徳堂官学化に向けての大きな支援者を失ってしまったと落胆した。正順には、官学化の目処が立つまでは大坂城代の職に留まっていてほしかった。
九月十六日、竹山一行は江戸を発った。竹山にとって、思うに任せない日々であった。
かつて甃庵は、懐徳堂の官許取得のために、二年間に六度も江戸と大坂を往復したと聞いていた。当時の甃庵はまだ三十代前半で、気力、体力ともに充溢していたのであろうが、それにしても往復二百五十里、移動だけで一ヶ月近くかかる行程を思うにつけ、その熱意の程に圧倒される。
「老体のわしも、懐徳堂官学化のために、今後何度も江戸へ赴くことになるであろう」
果たして、それに耐えられるだろうかと不安が頭をよぎるが、気力、体力が続く限りは自分が出府し、それが難しくなったら、蕉園に代行してもらえばいい。いずれにせよ、懐徳堂の官学化は何としてでもやり抜かねばならない。そんなことを竹山は思っていた。
木曽路を経由して西行し、九月二十九日、大坂へ帰り着いた。
懐徳堂の仮普請はすでに完了していた。竹山は、大火後に寓居していた商家を引き払い、懐徳堂の敷地内の家屋に移り住んだ。仮設の講堂も完成していたので、日講を再開し、主に蕉園と碩果に講義を任せた。
定信の言伝にしたがって、竹山は、懐徳堂再建と官学化についての願書を作成し、大阪西町奉行、松平石見守貴強あてに提出した。
だが、奉行所から大坂城代へ願書が渡るはずが、堀田正順の後任の城代で、越後長岡七万四千石の藩主、牧野備前守忠精がまだ着任しておらず、願書はしばらく、奉行所に留め置かれたままになった。竹山はやきもきしたが、どうにもならなかった。
年を越して、寛政五年(一七九三)三月、ようやく奉行所から、建屋の図面と費用見積もりを提出するようにとの指示があった。
竹山はすでに、詳細な再建計画書を作成してあった。官学化に際して添え地を付して敷地を広げ、講堂、事務住居棟、寄宿舎に加えて聖堂を配し、それも大、中、小三通りの絵図案を提示した。費用見積もりは最大三千両とそろばんをはじいた。
この計画書を奉行所へ提出した。いよいよ官学化の夢が実現に向けて動き出す。竹山は、期待を胸に秘めて奉行所からの返答を待った。
二ヶ月後、ようやく出頭せよとの連絡がきた。竹山は、麻裃に身を包んで、西町奉行所へ赴いた。
「城代が言われるには、『敷地を広げ、あまつさえ聖堂を新設するとは何事であるか。費用見積もりもあまりに高過ぎる。原状回復が原則ゆえ、それに則り、再度図面と費用見積もりとを提出せよ』とのことです」
知人の与力からそう言われた。与力はさらに付け加えた。
「『官学化うんぬんは、江戸表の裁可が必要であるため、現時点、どうなるかは分からない。一応、その方の希望を伝えはするので、おって沙汰する』とも付言されました」
竹山は、棍棒で頭を殴られたような気がした。懐徳堂の官学化を支援していた前城代とは打って変わって、新任の城代の言葉はあまりにも素っ気なかった。しかも、竹山が思い描いていた懐徳堂増改築の計画は、あえなく却下されてしまった。
原状回復。竹山はそうつぶやき、奉行所を後にした。
「どうやら、新城代からの前向きな支援は望めそうもない」
竹山の落胆は激しく、その後しばらくの間、何事も手につかず、無為に日々を過ごした。
やっと気持ちを切り替えて、竹山は、原状回復の再建図面と見積もりとを作成した。敷地の拡大と聖堂新設は諦め、ほぼ火災前と同じ構成とし、費用は千五百両とした。
当初の見積もりから相当に減額しており、これなら問題なく認められるであろう。奉行所へ書類提出後、竹山はそう思いながら、呼び出しの連絡を待った。
そんな折、山片蟠桃が慌てた様子で懐徳堂へやってきた。
「白河侯が、御役職を辞されたとのことです」
「……」
竹山は、蟠桃の言葉の意味が理解できなかった。
「松平越中守様が、ご老中と、将軍補佐のお役目を退かれたそうです」
「まさか……」
松平定信が老中に就任してから、まだ六年しか経っていない。しかも、定信はまだ三十五歳の働き盛りである。かつて「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱は、三十八歳で老中に就任してから、六十七歳で死去するまでの二十九年間、その職にあって幕政を主導した。「白河侯は、知恵伊豆に勝るとも劣らない名老中として、後世に語り継がれるべき人物であり、この先まだ三十年はその職務に従事することになる」
竹山は、ごく自然にそう思っていた。
詳しい経緯は分からないと蟠桃は言うが、蟠桃が嘘の情報をもたらすはずもなく、事実と認めざるを得なかった。
堀田正順に続いて、最大の後ろ盾と目していた定信までが職を辞してしまった。竹山は、これで懐徳堂官学化の道筋は完全に暗礁に乗り上げたと感じた。
その後、江戸の柴野栗山、尾藤二洲から竹山あてに長文の手紙が届いた。それに、定信辞職についての経緯が書かれてあった。




