(7-1)惣嫁(そうか)火事
寛政四年(一七九二)五月十六日子の刻(午後十一時頃)、西横堀の七郎右衛門町にある材木問屋から出火、強風に煽られて、火は高麗橋筋、今橋筋、北浜筋など北船場一帯へ延焼した。
けたたましく半鐘を打ち鳴らす音で目が覚めた竹山は、家族や寄宿生に指示し、家財や書籍、それに玄関に掲げてある石庵筆の懐徳堂幅など、ゆかりの品々を複数台の大八車に積み込ませた。
火は西側から迫っていた。ごった返す今橋筋を、竹山はじめ、懐徳堂の面々は大八車を押して東横堀方面へ向かって逃げた。
約七十年前の妙知焼けで、石庵や蘭洲が焼け出された話は、幼少期に甃庵からよく聞かされていた。石庵はこのときに、書き溜めた著書をすべて失ったという。
大坂ではその後も火災が多く発生していて、近年でも、三年前に東横堀で大火があり、去年も堀江、嶋之内で大火があった。
そういう過去の教訓から、竹山は退避用に複数台の大八車を懐徳堂内に備えていて、いざというときに持ち出す物品も事前に決めてあった。そのおかげで、必要最低限のものを持ち出すことができたが、結局、猛炎は懐徳堂にも飛び火し、建屋は全焼した。
鴻池本店や道明寺屋、尼崎屋、山片蟠桃の升屋など、懐徳堂同志の店舗も多くが被災し、火は中之島や天満へも燃え広がった。天満宮や周辺の寺社、蔵屋敷、町奉行所の与力・同心の組屋敷なども焼け、十七日の申の刻(午後四時頃)になってようやく鎮火した。
被害は八十九町に及び、大坂の町家約一万一千戸、橋九ヶ所、神社三ヶ所、寺二十九ヶ所、蔵屋敷十六ヶ所が焼失した。
火事の原因は、付け火であった。
西横堀付近で商売していた惣嫁(夜鷹)が、客と口論になった。客から激しく侮辱されて腹を立てたその惣嫁は、腹いせに客である材木問屋、志方屋へ火を付けた。それが燃え広がって、甚大な災禍になった。そのため、この火事は「惣嫁火事」と呼ばれた。
鎮火後、竹山と履軒は、懐徳堂の焼け跡を目の前にして、茫然と立ちすくんだ。
「付け火が原因で、このような惨事になるとは……」
この二人だけではなく、大坂の住民は皆、やり場のない怒りと落胆とに打ちひしがれた。
松平定信との会見以降、妻の順を失う不幸に見舞われたものの、それ以外の面では良い流れが続いていた。この先もずっとそれが続くものと思っていた竹山にとって、この火事は大きな番狂わせであった。
竹山一家は、類焼を免れた同志の商家に身を寄せた。焼け出された不運は、ひとり自分だけではなく、大店の鴻池や三井呉服店なども同じであり、いつまでも落ち込んではいられない。竹山はそう気を取り直して、懐徳堂再建に向けて動き出した。
まず、町奉行所の許可を得て、懐徳堂の敷地に板囲いをした。両隣りを含めて建屋が焼失してしまったため、敷地の境界線があいまいにならないようにするための措置であった。
それから、敷地内に講堂と住居の仮普請を行った。費用は、懐徳堂の運用基金と、同志の商人からの義金でまかなった。
本普請には、相当な資金が必要になる。それをどうしたものかと考えあぐねていたとき、竹山はふと思いついた。
「再建を機に、懐徳堂を大坂の官学として認可を得て、公儀にその資金を拠出してもらう」
そうすれば、資金確保に奔走する必要がなくなるばかりか、懐徳堂の地位向上にもつながる。一石二鳥、まさに災い転じて福となす方策であった。
今こそ、大坂城や町奉行所への伺候や出講を丹念に積み上げてきた強みを生かす機会である。それに、江戸には老中首座、松平定信という、儒学奨励に理解が深い後ろ盾もいる。
竹山は、懐徳堂を官学にしたいという内容で、「学校再建文書」という口上書を書き上げ、門人でもある大坂城代、堀田正順へ提出した。
「随分尤もの義」
正順から、賛意を示す返答が得られた。ただ、官学の認定は江戸の決裁事項であり、それにはやはり、幕閣首脳を動かす必要があるとの申し添えがあった。
竹山は、江戸へ赴いて松平定信へ面会、直訴することを決断し、定信へ提出する建白書を作成した。
正順へ江戸行きのことを伝えると、事が成就することを願うとの添え書きとともに、袴地一反と銀十枚が懐徳堂へ贈られてきた。
それのみならず、この江戸行きを、老中松平定信ならびに松平乗完への「御機嫌伺巡勤」という公務とし、正順の家臣で、佐倉藩儒見習の渋井小室を同道させることにした。
「格別なるご高配、感謝に堪えません」
大坂城代からの手厚い支援が得られた竹山は、希望通り事が成就することを確信した。
竹山は、後事を蕉園に託し、七月二十二日に大坂を出立した。一行は竹山のほか、息子の碩果、門人の伊三郎、下男、それに渋井小室とその従者の総勢六名であった。
二十年ぶり、二度目の出府である。六十三歳の竹山にとって、江戸までの道中は難儀したが、ここが正念場であり、天王山であると位置付けて、一歩一歩踏みしめながら進んだ。
道中、竹山は和歌を詠んだ。その詞書に、
「難波の災ありし後、公に告ることありて、東に赴かん。古人が、紅葉散り敷く白川など詠みしを思い出して詠める」
と記した。白川は、白河のことであり、つまり、白河侯、松平定信を指していた。




