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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第6章 我が世の春
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(6-8)麒麟児、蕉園(しょうえん)


「私に賦題を出して下さい」

 寛政四年(一七九二)早春、二十六歳になった(しょう)(えん)は、竹山に請うた。懐徳堂講師として、すでに竹山の片腕と言っていい存在になっていた蕉園は、午の刻(正午頃)から子の刻(午前〇時頃)までの半日の間に、賦題に即して賦を十首書き上げるという。

 賦は、中国古来の文体の一つであり、散文詩に近い。一首でも相応の分量になるため、そう矢継ぎ早に書けるものではなく、言葉を選り抜いて、半日で十首をひねり出すのは容易な仕業ではない。

 さすがにそれは難しかろう。竹山はそう言いながら、賦題として、天象、地理、草、木、禽獣、虫、魚、器用、人事の九つの題を授けた。

 蕉園は、机に向かって詩想を練り、筆を執った。その結果、賦題に即して露、川、芭蕉、海棠(かいどう)、鶏、猫、鈴虫、金魚、印、読書の十首の賦を子の刻前までに書き上げた。

「本当に、これはそなた一人で書いたのか?」

 竹山は、蕉園の賦を読み、どれも言葉が洗練され、優雅な内容であることに舌を巻いた。

 後日、蕉園は再度、竹山に賦題を請うた。

「私が作したものかどうか、お疑いのようでしたので、もう一度賦したいと思います」

 竹山は疑っていたわけではなかったが、それならばと、今度は人事の一題のみで十首を詠んでみよと言った。

 蕉園は、宵のうちに天爵、嘉遯(かとん)、得志、失意、畏、怒、哀、楽、自悼(じとう)、自叙の十首の賦を書き上げた。

「……見事である」

 (いっ)(しょう)十賦(じゅっぷ)を詠む詩才を二度も見せつけられた竹山は、賞賛してやまなかった。

 蕉園はさらに、中国三国時代の魏王、曹操の五男で、詩才に優れていた曹植にちなんで、七歩歩むうちに一首を詠む試みを二度行った。いずれも出色の出来栄えであった。

 ほかにも、線香に火を灯し、燃え尽きるまでに七言律詩を二首詠むことを三十日間続けたり、蠟燭が燃え尽きるまでに六百六十四言からなる賦をつくったりと、蕉園の詩才を示す逸話は枚挙に暇がなかった。

 竹山のもう一人の息子、七郎は二十二歳になり、碩果(せきか)と号することになった。碩果も、儒者として十分な学識を身につけ、懐徳堂の一講師として日講を受け持つようになっていたが、社交的な蕉園とは逆に、部屋に籠って黙々と読書していることが多く、あまり人と交わるのを好まなかった。

「蕉園の社交性はわしに似ており、碩果の閉戸ぶりは徳二に似ている」

 十一人もの子女の夭折という不幸に見舞われたものの、二人の息子は儒者として立派に成長した。麒麟児の蕉園と、閉戸生で学者肌の碩果がいれば、懐徳堂の将来はまず安泰である。竹山はそう思った。

 この時期、懐徳堂への入門者、遊学者は引きも切らなかった。

「懐徳堂に生徒蝟集、塾容るること能わず、すなわち屋上楼を架す」

 と、升屋の番頭、山片蟠桃は著書に記している。

 二月、元美濃岩村藩士で、二十一歳の佐藤一斎(いっさい)が、短期間の学問修行のために江戸から大坂へやってきて懐徳堂へ入門し、竹山に師事した。一斎は四ヶ月後、江戸へ戻ったが、その際、竹山は、

「困而後悟 仆而復興((くる)しみて而後(しかるのち)に悟り、(たお)れて(しかるに)()()つ)」

 という句を一斎に贈った。下句は王陽明の語録から採った。困難を経ずして悟ることはできず、もし事に敗れて仆れたとしても、また()ち上がって取り組めばいい。学問修行も人生処世もこの句が要諦であると述べて、一斎を激励した。

 また、鴻池別家の婿養子で、鴻池本店の番頭に出世した草間直方(くさまなおかた)は、懐徳堂で竹山の教えを受けつつ、水哉館で履軒からも学んでいた。

「ともに商店の番頭である点、それに竹山、履軒両先生に師事している点まで、我らは良く似ておりますな」

 山片蟠桃は直方にそう言い、互いに笑った。

 四月、大坂町奉行所から口達が触れ出された。

「儒業にて町家に在る者は苗字を名乗ること勝手次第、その旨相心得るべし」

 それに加えて、町年寄が儒者の姓名、学風、師匠名を奉行所に届け出れば、戸籍に「儒者」として登録することが可能となった。

 大坂に限っての口達であり、全国的に敷衍されたわけではないものの、これは竹山の「草茅危言」での建言が実現したものであった。竹山は、定信が「草茅危言」を仔細に読んで、その建言に耳を傾け、実行に移したことに感激した。

「我が世の春、か……」

 すべてのことがうまく回っている。竹山は晩酌の盃を傾けながら、一人そうつぶやいた。

「これで懐徳堂が官学として認可を得ることができれば、もう何も思い残すことはない」

 恐らくそれも、白河侯が幕閣にある間に実現できるであろう。そうなれば、あとは懐徳堂を蕉園と碩果に任せ、自分は楽隠居の身となって、履軒のように朝起きてから夜寝るまで書物に埋もれるようにして暮らしたい。竹山は、そんな老後を思い描いていた。

 履軒の経書研究はかなり進んでいた。

 七経への注釈書き入れを継続して行っているほか、「国語」、「戦国策」、「漢書」、「後漢書」などの史書や、「荘子」「老子」などの道学書への注釈をほぼ終えていた。今は「史記」を精読しつつ、「晋書」、「五代史」、「世説新語」、「楚辞」へ注釈を施す作業を進めている。

 履軒はまた、古代中国の地図を熟視して、黄河の氾濫を防ぐ方法について考察を行った。具体的には、黄河上流を分枝させて下流への流入量を減らす方策を論じ、これにより、下流域での氾濫はほぼ防げると述べ、「治水濶論(ちすいかつろん)」という論文にまとめた。

 単に書物を読むだけではなく、得られた知見を実際の政策に生かすことを考案する。ただの閉戸生ではない、履軒の真骨頂であった。


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