(6-7)寛政異学の禁
寛政二年(一七九〇)五月、老中松平定信は、湯島聖堂の学主、林大学頭錦峯あてに、「学派維持ノ儀に付申達」という文書を発信した。
この文書には、聖堂においては朱子学を正学とし、それ以外の異学を禁じる旨が記されていた。
「家康公御在世の慶長以来、其の方の家に対し、代々学風維持の事仰せ付けられ、油断なく正学に相励み、門人共取り立てるべき筈なるも、近年、世上では種々、新規の説をなし、異学流行、風俗を破る風があると見受けられる。これは正学衰微のゆえであり、はなはだ相済まざる事である。其の方門人共の内にも、学術純正ならざる者がいるやに聞くが、これは如何なものか」
と、錦峯に詰問している。
異学とは、朱子学以外の儒学、主に陽明学や、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学、山鹿素行の古学などを指す。
いわゆる、「寛政異学の禁」である。
定信自身は、儒学における各学派にはそれぞれ一長一短があり、どれが優れているとは一概には決め難いという考えを自著で吐露している。にもかかわらず、今般、あえて朱子学を正学に指定した狙いは、世の中の風儀の乱れや、武士階級の安逸堕落の流れが目に余り、この機に人倫を重んずる朱子学を賞揚し、もって風紀更生につなげることにあった。
これに先立つ五年前、広島藩では、藩儒である頼春水の企図もあって、藩学を朱子学に統一することが決定された。春水は、定信に呼び出されて学問に関する諮問に答えたことがあり、また、春水の友人で、公儀儒官、湯島聖堂取締となった柴野栗山も朱子学を信奉していたことから、定信の通達には、春水や栗山の考えもあずかっていた。
もともと湯島聖堂は、家康から家綱まで四代の将軍の侍講をつとめた林羅山が、上野忍岡の自邸内に孔子廟を祀り、儒学の私塾を開いたのが起源である。
元禄年間、学問好きの五代将軍綱吉は、林家に対して神田湯島に約六千坪の土地を与え、私塾もここへ移転させた。このときから、林家の私塾は湯島聖堂と称されるようになり、半官半民ながら、実質上、公儀の学問所となった。当時の林家当主で、羅山の孫である鳳岡が大学頭に任じられると、以後、林家が代々、聖堂の学主として大学頭を世襲していた。
定信の異学の禁は、あくまでも湯島聖堂に対してのみ発せられたものであって、諸藩の藩学や民間の儒学塾に対し、朱子学を強制したものではなかった。
だが、その影響は全国各地にじわじわと浸透し、諸藩では、定信の白河藩のほか、仙台藩、米沢藩、佐倉藩、尾張藩、長州藩、熊本藩などは、藩学を朱子学に統一して、異学の禁に追随した。また、民間の儒学塾でも、朱子学以外の学派の塾では、一時期、入門者が減少して運営に難儀をきたす事例もままみられた。
異学の禁が発せられた翌年、朱子学者の尾藤二洲が公儀儒官として招聘されることになり、大坂から江戸へ発った。
「おぬしも大坂を去るのか。ただでさえ少ないわしの飲み仲間が、これでまた一人減る」
二洲の送別の宴で、履軒はそうぼやいた。
「華胥国王なる奇人が、白河侯からの招聘の際に伊丹へ逃亡し、頭をまるめて断ったそうです。それゆえ、そのお鉢が私に回って来ました。私は決して、江戸行きが嫌というわけではありませんが、こういう仕儀になったのは、その奇人にも責任の一端があります」
二洲がそう言うと、履軒は、すっかり伸びた頭髪に手をやり、苦笑した。
竹山は、松平定信あてに提出する意見書、「草茅危言」の続編を執筆していた。この中で、 異学の禁について、公儀が湯島聖堂の学風を正し、学問振興の意志を明確に示した施策であると評価している。
竹山の提言は、多岐にわたっていた。
「王室ノ事」と題して、皇室について触れているが、天皇家の権威を高めるために、即位礼を立派なものとし、また、天皇による行幸を復活させよと述べている。その一方で、崇神佞仏の惑いを廃せよとも主張している。
朝廷の権威が衰えた一因として、古来から天変地異や戦災、凶作や悪疫などが発生する都度、効験もない祈祷や仏願に多額の出費を行ってきたことを指摘する。そのような神頼みや、仏へすがるだけの無策が人民を害してきたと難じている。竹山流の無鬼論であった。
これに付随して、天皇の院号や、皇子皇女の出家、法親王門跡などを廃止し、皇室から仏教色を拭い去るべきだと述べている。
また、年号を天皇一代で一号とし、天災や吉凶による頻繁な改元の廃止を提言している。
「御麾下ノ事」では、公儀の諸制度や政事について意見している。
経費削減のために、参勤交代制の緩和や諸役免除、大名妻子の江戸住み廃止に触れている。合わせて、外聞や体裁を気にする武家の弊風が、いたずらに出費を増大させ、公儀や諸藩の財政危機をもたらしていると指摘する。
「武士は往々にして商人を軽んじていて、借りた金を返さずに平然としている。義を重んじ、恥辱を許さないのが武士の一分であるはずなのに、人から借金して返さないという、大いなる不義を働いて恥と思わないのは何とも奇怪な風習である」
そう苦言を呈した。
ほかにも、武士の世禄制を廃止し、賢愚による禄の増減を行うことや、蝦夷地は開拓せず、不毛な緩衝地帯のままとすることが国防上の得策であるとも提言している。
儒者についても触れている。民間の戸籍登録上、「儒者」という身分は存在せず、わざわざ「医師」や「商人」など、別の称号を名乗らなければならないのが現状であり、これは儒者を軽んじている証左であると指摘する。儒者という称号を戸籍登録可能にすれば、儒学振興にもつながると述べている。
経済や民政については、貨幣や物価、農業水利などについて触れているが、かつて龍野藩へ意見具申した「社倉」、すなわち飢饉に備えてあらかじめ米穀を蓄えておく制度の導入を提言している。
教育については、全国の一村に一つずつ寺子屋をおき、主な都会地には中等教育機関として学校を設けること、さらに高等教育機関として、江戸、京都、大坂に官学を設置することを提案している。
官学に相当するものとして、江戸にはすでに半官半民の湯島聖堂があり、これを維持伸長していけば事足りる。京都には、以前、高辻胤長からの要請を受けて著した「建学私議」の内容を改めて開陳し、朱子学を講じる「観光院」の新設に触れた。
では、大坂はどうするか。
「大坂城下の殷賑、すでに土地は商店や民家で埋め尽くされ、学校の敷地確保がそもそも難題である。ゆえに、すでに存在する官許の大坂学校、つまり懐徳堂を整備拡充して官学に充てれば、新たな敷地確保と校舎新設が不要となり、費用も大幅に削減可能である」
竹山が最も意見具申したかったのは、このことであった。
懐徳堂を官学にしたいという宿願。その実現に向けて、この機会に松平定信という幕閣の権力者へ腹案を提示し、布石を打っておく。竹山にはそういう目論見があった。
寛政三年(一七九一)、足掛け三年にわたって「草茅危言」を書き上げた竹山は、これを松平定信へ呈上した。ややもすると皇室批判、公儀批判とも受け取られかねない内容を含んでいるが、聡明かつ謙虚な定信なら、言葉尻をとらえて不敬であるなどとは咎めないであろう。竹山はそう見立てて内容を吟味、勘案して文章を練り上げた。
十月、用務があって江戸から国元へ向かっていた広島藩儒の頼春水は、移動の途中、大坂へ立ち寄った。また、佐賀藩儒の古賀精里は、藩侯に随伴して国元から江戸への道中で大坂へ立ち寄った。
二人はたまたま大坂の知人宅で遭遇し、久闊を叙し合うと、連れ立ってまず履軒宅を訪問し、翌日、懐徳堂へ顔を出した。
夜、竹山、春水、精里の三人で酒を酌み交わした。
三人は、松平定信が発した異学の禁によって、朱子学が正学として全国に浸透する状況を我が意を得たりと嘉し、盃を重ねた。
「栗山に続いて、二洲も江戸へ招聘された。徳二も、白河侯からお声掛かりがあったものの、使者を玄関に待たせたまま、伊丹へ逃亡したそうだ。まったく、やつの閉戸ぶりよ」
「お詫びのしるしに頭を丸めたそうですね」
春水がそう言うと、一同、哄笑した。
「精里も、湯島で経書を講じたそうだが、白河侯からの招聘話は断ったそうだな?」
「はい、佐賀侯の君恩もありますので、せっかくのお話でしたが、お断りしました」
「かつて赤貧の書生だった我らは、みんな偉くなりましたね」
「本当にその通りだ。豪商鴻池の当主、善右衛門殿は我が弟子、人気の横綱谷風も我が懐徳堂へ出入りする。それぞれ畑は違うが、わしとこの二人は均しく天下第一流、試みに三人の肖像を描いて三幅画にでもしたらどうであろう」
「出ましたな。竹兄の大言豪語」
「今宵の酒はひときわ美味い」
この日、春水と精里は懐徳堂に泊まった。
翌日、懐徳堂講堂で、春水と精里は特別講師としてそれぞれ経書を講じた。竹山は、末席で二人の講義を聴きながら、充足感に包まれていた。




