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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第6章 我が世の春
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(6-6)竹山の妻、順死去


 寛政元年(一七八九)四月、竹山の妻、順が死去した。享年四十九歳。

 朝は特に変わった様子もなかったのだが、昼頃、急に胸を押さえて苦しみ出した。すぐに医師を呼んで診てもらったが、手の施しようもなく、やがて息を引き取った。

 竹山は、三十三年間連れ添った妻の突然死に茫然とした。

 竹山二十七歳のとき、十六歳で輿入れした順は、多忙な竹山を陰で支えながら、生涯に九男五女、十四人もの子を産んた。

「竹山には、妾がいるのではないか?」

 一人の女性が、十六歳から三十七歳までの二十二年間で十四人もの子を出産するものかと疑われ、一時はそんな噂が立った。健啖家で、懐徳堂の運営だけではなく、役所への出講や著述など、精力的に活動する竹山なら妾がいても不思議ではないと見る向きもあった。

 だが、竹山には妾はおらず、十四子はみな順が腹を痛めて産んだ子たちであった。このうち、十一子は夭折したが、四男の蕉園が二十三歳、七男の七郎が十九歳、末子で、五女の刀自が十三歳になっていた。

 多くの子らに先立たれる悲しみに何度も見舞われ、都度それを乗り越えてきた竹山だったが、順の死は、自分の胸にぽっかり穴があいてしまったかのような喪失感であり、しばらくは何事も手につかなかった。

 順が亡くなった年の竹酔日に、竹山は還暦を迎えた。門人たちが、竹山の還暦を祝う会の開催を企図したが、順の死から間もなかったため、竹山はそれを辞退した。だが、内々だけでささやかに行いたいとの門人たちのたっての希望があり、会は簡素に行われた。

 北久宝寺町に転居した履軒は、華胥国王としてますます恬淡寡欲の境地を深めていた。ふだんはほとんど外出せず、朝起きてから夜寝るまで、天楽楼に籠って飽くことなく書物を読み、あるいは執筆、ないしは漢籍への注釈を施していた。

 辺幅を飾らず、つねに弊衣を身にまとって(てん)(ぜん)としていたが、ある日、厳寒の季節に、面識のない西国の学者が履軒宅を訪ねてきた。

「うるさいのう」

 書物から目を上げた履軒は、迷惑だと言って追い返そうと思ったのだが、玄関に立つその学者の風体を見て、驚嘆した。

 その学者は、黒麻の薄手の夏羽織を着ていて、それでまったく恥ずる気色もなかった。

 履軒は、その学者を家に招じ入れて、しばし会談に及んだが、話の内容はまったく記憶していなかった。

「かの者は、この寒中に夏羽織を着て平然としていた。その気骨と心胆、わしはとても彼には及ばない」

 学者が辞し去ってから、履軒はそう嘆賞してやまなかった。

 履軒は、自分の机の近くにいつも備前徳利と、硝子でできた阿蘭陀(おらんだ)製の金縁(きんぶち)盃を備えていた。書物を読んで興が乗ってくると、その徳利と盃で酒を飲みつつ、読書を続けた。

 ある夏、履軒は二斗の酒が並々と入った(こも)(だる)を入手し、それを天楽楼の片隅に置いていた。夜、暑さのあまりふんどし一丁の姿で読書していたとき、会心の箇所に至るや、欣然とひざを打ち、立ち上がった。

 履軒はふんどしをたなびかせながら菰樽から柄杓で酒を酌み、徳利に注いだ。

「まるで赤裸の一老鬼が、喜々として酒を酌んでいるようでした」

 たまたまその姿を目撃した門人が、のちにそう証言している。

 履軒は、表面に(いにしえ)の聖賢や本邦の儒者名を書き、その裏面に、酒に例えて各々の寸評を記した扇を自作し、それを「聖賢扇」と名付けた。

 筆頭には孔子、孟子を挙げ、これを「伊丹極上御膳酒」とし、さらに「賞賛に(ことば)なし」と付記して、最大限に評価した。

 老荘は、「薩摩あわもり」とし、「たまには賞玩するも、酒宴には出されぬ」と評した。

 釈迦、つまり仏教は、「チンタ(赤ぶどう酒)」とし、「夷狄人にはうまかるげな」と評した。

 ほかにも、神道を「濁醪(どぶろく)……古代はこれにて事すみたるか」、朱子学を「伊丹並諸白(もろはく)……どちらから見ても江戸積み。並酒の古道具を用いて造られた故、少しの移り香あり。実が薄くて足が弱い。ここが御膳酒に及ばぬ所」、陽明学を「贋伊丹酒……極上の印はあれど、実は並酒に焼酎を合わせたもの。燗してはいけない」などと評した。

 さらに、伊藤仁斎を「新酒……下戸が好く」、荻生徂徠を「鬼ころし……荒きばかりにて酒とも思えず」とし、仁斎はともかく、徂徠についての評価は辛かった。

 酒を好む履軒だが、摂養極めて自分に厳しく、定量を過ごさなかった。

 ある日、履軒宅へ、知人が重詰の佳肴を携えてやってきた。

「ともに一盞(いっさん)傾けましょう」

 そうすすめられたが、履軒はすでに、その日の飲酒を了えていた。

「だまされるなよ」

 履軒は佳肴を眺めながら、そう自分に言い聞かせて、ついに盃を手に取らなかった。

 健康についての配慮も徹底していて、つねづね人にも次のように語っていた。

「人寿に悪影響を及ぼす事項、第一は飲食の節度を失うこと、第二は思慮が度を超すこと、第三は女性と過度に交わること、第四は誤った医術を施すこと、以上を四害という」

 このうち、第一については、竹山のことが履軒の脳裏をかすめた。還暦を過ぎても、竹山の健啖と豪飲は相変わらずであるが、病を得ることもなく精力的に活動を続けている。竹山を見ていると、四害の第一は正鵠を得ていないのではないかと自信がぐらつくこともあるが、何事にも例外はあるものだと自分に言い聞かせていた。

 砂糖が人体に及ぼす害についても一家言があり、履軒は、「老婆心」という書物でそのことを書き記している。

 砂糖は、人体の血流を滞留させて病気を誘発し、麻疹や癇癪、喘息の原因にもなると警告している。そんな有害物質である砂糖の使用、輸入はすぐに禁止すべきとも述べている。

 尾張藩大坂留守居役の知人が、履軒宅を訪ねてきたことがある。その知人は、「小倉野(おぐらの)」という、京都嵯峨野産の菓子を持参してきた。白玉粉に砂糖を加えて練り上げた餅を餡で包み、その上に蜜漬けの粒あずきを付けた菓子で、子供にも大人にも人気があった。

「これはうまい菓子だが、毒だから食ってはならんぞ」

 小倉野を見た履軒は、傍らにいた雄右衛門に向かってそう言った。

「毒とは、どういうことでしょうか?」

 知人は、やや気色ばんで訊いた。

「せっかくご持参下さった菓子ですが、砂糖の甘味は、特に小児の体に障るものであり、病気を発症しかねません。そのため拙家では、子供に菓子は食べさせない方針なのです」

 履軒がそう答えると、知人は、そういうことですかと合点した様子だった。

知人が菓子を持ち帰った後、履軒は絹に怒られた。

「せっかくのご客人からの贈物に対し、砂糖が毒などとは、ぶしつけにも程があります」

 絹は、ぷいと履軒の前から立ち去ってしまった。

 最近、絹はずっと苛立っている。亭主の奇矯な言動の数々に、大人しい絹もさすがに辟易しているように見受けられる。履軒はそう思い、先刻の知人とのやりとりを反省した。


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