(6-5)草茅危言(そうぼうきげん)を奉呈
「格別の御礼待であり、首尾は上々であった」
竹山は、周囲にそう漏らした。
定信ほどの幕閣の大立者が、自分のような一介の儒者にも師礼をとり、下にも置かずに真摯に話に耳を傾けた。その懐の深さを思う都度、竹山は感激の余韻に浸った。あの御仁になら、率直に愚見を開陳する甲斐がある。竹山は、大きな後ろ盾を得た思いであった。
「今般の儀、学校の面目が大いに立ちました。門下生、知旧もみな歓び、学校を訪れる人々で雑踏の体を示しております」
竹山は、龍野の親類に宛てた手紙にそう記した。
実際、定信との会見後、竹山と懐徳堂の名は全国に知れ渡り、懐徳堂への入門者が大幅に増加した。公儀や諸藩の大坂在勤者も懐徳堂へ通い、また、各地の儒者が大坂へ立ち寄る際、懐徳堂を訪れるようになった。
竹山は、白河藩の大坂蔵屋敷へ出講するようになり、歳末には、定信の名でご祝儀の金子が贈られてきた。
また、大坂城代で、下総佐倉十一万石の藩主、堀田相模守正順の要請を受けて、大坂城内へ出講した。正順は、正式に竹山の門人となったばかりか、十歳になる嫡男の諱の名付けを竹山に託した。
堀田家では代々、嫡男の諱の名付けは、湯島聖堂の林大学頭に依頼してきたが、その慣例が破られたことに、竹山は感激した。竹山は、正順の嫡男の諱を正功と命名した。
正順からはそのお礼として、紋付麻裃と肴一折、それに金子が竹山に贈られた
さらに町奉行所から、大坂城代名義で竹山へ通達が発せられ、大坂城への出入り自由を許す旨が申し渡された。これも、市井の一儒者にとって異例の待遇であった。
名実ともに、竹山は、当代における最も著名な儒者の一人となった。
会見の折、定信から、今後とも意見を申し述べるようにと言われた竹山は、さっそく意見書の起草に着手した。
まずは犯罪者に対する教育刑の適用について具申することにした。
当時の刑罰は、磔や獄門、火あぶりなどの死刑にせよ、鞭打ちや入墨などの身体刑にせよ、加罰によって庶民を威嚇し、もって犯罪を抑止する見懲らしの思想が強かった。そこには情状酌量の余地はあまりなく、ややもすると残酷過ぎる側面があった。
その改善策として、犯罪者に反省を促し、更生させる教育的な刑罰のあり方として、竹山は「永牢」を提案した。
具体的には、犯罪者を入牢させたら、ただ牢内に監禁するだけではなく、仕事を与える。その報酬として、食事と、いくばくかの賃金を支給する。もし犯罪者に改心が見られれば解き放ち、社会復帰させる。
竹山は、その仕事内容や賃金体系についても明記している。
このしくみは、履軒がその著書「恤刑茅議」で述べている内容であり、竹山は、履軒のこの構想を引用し、定信への提言に用いた。
次に、正月の子供の遊び事や勝負事、寺社の縁日や見世物、それに、寺社の境内に小屋掛けして興行される宮地芝居などはすべて禁止せよと述べた。
「勝負事は、子供に悪事の稽古をさせているようなものである。年を経るごとに功者になっていき、やがて、親の財布から銭を掠め取ってまでやるようにもなりかねない」
竹山のこの厳格過ぎる提言は、自身の年少時、師の蘭洲から、独楽や双六などで遊ぶことや、縁日に立ち寄ることを禁じられた経験から出たものであった。当時はそれをつらいと感じたものの、結果的にそれが専一に学問に打ち込む姿勢を身に付けることに奏功したという実感があった。
その効用は、学問を志す者ばかりではなく、絵師や木彫師、鍛冶陶芸、はたまた武芸や商道、農に携わる者にまで及ぶこと間違いなしというのが竹山の信念であった。
そのほか、老人や寡婦、捨て子に対する福祉政策などの事柄についても言及した。
十一月にはこの提言書をまとめ、これを「草茅危言」と名付けて、定信あてに奉呈した。
定信への提言は、他の事項についても書き綴ろうと、竹山は構想を膨らませていた。
「白河侯が、履軒先生を招聘したいと申されているそうです」
山片蟠桃が、米屋町の水哉館兼華胥国へやってきて、履軒にそう伝えた。
蟠桃が番頭を務める米の仲買商、升屋は、かつて仙台藩に絡む膨大な貸倒損失によって倒産寸前にまで追い込まれたが、幼い当主を補佐しながら蟠桃が経営を切り回し、ようやく危難を回避した。
それのみならず、蟠桃は仙台藩の財政再建にも有効な提言を行い、実績を上げた。
そんな蟠桃は、懐徳堂関係者からは「孔明殿」と呼ばれていた。孔明とは、中国三国時代の蜀の丞相、諸葛亮孔明のことである。升屋の立て直しと、仙台藩の財政再建を成就させたその神算鬼謀ぶりが、天才的な軍略家として伝わる孔明に比せられたあだ名であった。
凄腕の商人でありながら、仕事の合間を縫っては書物をひもとく学問好きな側面もあり、また、懐徳堂で竹山に師事しつつ、水哉館で履軒からも学んでいた。
定信は、竹山の口から履軒が学識深い儒者であることを聞き知り、履軒を公儀の儒官、あるいは白河藩の藩儒にしたいと考え、用人を通じてその周旋方を蟠桃へ依頼していた。
「これを機に、江戸へ赴く気はございませんでしょうか?」
「これは、孔明殿とも思えぬ戯れ言かな。まあ、白河侯から履軒へ伝えよと仰せつかったゆえ、やむなき仕儀でここへ参ったのであろうとはお察しするが」
履軒はそう言い、あとは別の話題に切り替えた。
履軒には、世に出たいという気持ちは毛ほども残っていなかった。以前、京都の高辻家から招聘を受け、いそいそと赴任した当時の自分を恥じてもいた。自分は宮仕えには向かない。そのことを痛感していた履軒にとって、たとえ幕閣の老中首座であろうとも、そういうお声掛かりは迷惑でしかないと感じていた。
蟠桃は、履軒の招聘が不首尾であったことを、白河藩の大坂蔵屋敷に在勤する用人へ伝えたが、その用人は、自分が直接、履軒に会って出府を要請したいと言った。
そこで蟠桃と用人は、日を改めて履軒宅を訪ねた。
二階の天楽楼で漢籍へ注釈を施していた履軒は、蟠桃の声がしたので階下へ下りた。普段着の弊衣に身を包み、顔には無精ひげが伸びていた。
「このたび、白河藩の御用人をお連れしました」
履軒は、目をしばたたかせながら、蟠桃の横に立っている用人を見た。
「お初にお目にかかります。すでに蟠桃殿からお聞き及びの事とは存じますが、我が主人、越中守においては、是非とも履軒先生からご高説を賜りたいとの由。よって」
「お待ちあれ。御覧の通り、私はこのように寝起きのような身なりで、頭髪は乱れ、ひげも剃っておらぬ始末。これから身じたくしますゆえ、しばしお時間を頂戴したい」
そう言うと、履軒は二人を玄関に立たせたまま、奥へと引っ込んだ。
二人は半刻ほど待った。が、履軒はついに再び現れなかった。
「つい今しがたまで居ましたのに、どこへ行ったのやら……」
玄関の二人に気づいた履軒の妻、絹はおろおろし、二人に非礼を詫びた。
履軒は、自宅の勝手口から外へ出て、北西へ約四里離れた伊丹の弟子宅に退避していた。伊丹へは毎月一回出講していたため、何人かの弟子がいた。
「お客様を玄関に待たせたまま、突然いなくなられては、私が困るではありませんか」
翌日、伊丹から戻ってきた履軒は絹に怒られ、すまぬと詫びた。
後日、履軒は蟠桃に対し、
「たとえ私が白河侯へお目通りし、愚見を申し述べたところで、政事のご改革は出来難いであろう。さすれば、出府したとて無意味なことである」
と語ったが、もとより履軒は、江戸へ行く気はなかった。仕官などすれば、威儀を正さなければならないし、人との接触が増えるばかりか、雑務に追われ、漢籍をひもとく時間が確保できなくなるのは目に見えている。すぐに嫌気が差して気鬱に陥り、逃げ出す羽目になるであろう。高辻家のときの二の舞を演じるだけである。
履軒は床屋へ行き、頭髪をきれいに剃った。
折悪しく、北淡路庄村で悠々自適に暮らしていた上田秋成が、華胥国へやってきた。
「仏教を毛嫌いするおぬしが、まさか僧侶のように頭をまるめるとは笑止千万」
秋成は、履軒の坊主頭を指差して、露骨に笑った。
「白河侯からの要請を断ったのだ。わしとて、命は惜しい。せめてものお詫びのしるしだ」
「だからと言って、わざわざ頭を丸める必要があるのか? これでおぬしの人物というものも世間が噂するほどではなく、底が知れるというものだ」
履軒は腹が立ったが、秋成の言いたい放題にさせておくしかなかった。
公儀の儒官となった柴野栗山を通じて、ある大名家が履軒を招聘したい意向があると伝えられたときも、履軒は、水哉館の門下生から謝儀をもらっており、家計はこれにて足りていると述べ、その話を断っている。
翌年、老中に就任した三河西尾六万石の藩主、松平和泉守乗完が畿内巡見で来坂した際、竹山と会見した。このとき、履軒にも乗完から呼び出しがかかったが、履軒は押し入れに隠れたまま息をひそめ、結局、出向かなかった。
盲目の和学者で、公儀の検校でもあった塙保己一が来坂した際、履軒との面会を望んだ。その話が町奉行所から町年寄経由で履軒に伝わったが、履軒はついに承諾しなかった。
「塙氏は、源氏物語や伊勢物語に精通する和学者であると聞き及んでおります。しかるに、私は儒学の徒であり、そもそもの畑が違います。それゆえ、共に談じたとしてもお互いに益なきことと存じます」
なぜ会わぬのかと町年寄に理由を問われた際、履軒はそう述べた。
履軒は、蘭州の影響もあって、和学にも関心があり、実際、「古今和歌集」や「百人一首」、「伊勢物語」の注釈書を著していた。
「単に生の心情を吐露するだけの歌は、老人の繰り言のようである。枕詞や縁語などの修辞や技巧を駆使し、婉曲に心情を紡いだ歌こそ誠の歌である」
そういう持論があった。また、数ある和歌集の中で、古今和歌集が最も優れているとも評していた。そんな履軒が、塙保己一とは畑違いだから会わないと言うのは本心ではない。
世間に名のある人物が、安易、安直に面会を求めてくることに対する反撥心。こちらから声掛けしさえすれば、相手は喜んで出てくるであろうという、揺るぎない上から目線が、履軒は気に食わなかった。もともと人と会うことが嫌いな性質とも相まって、履軒は適当な理由をでっち上げて、そういう要請をことごとに断った。
「『天子も臣とするを得ず、諸侯も友とするを得ず』とは、まさに履軒先生のような御仁を指すのだ」
そんな履軒の硬骨ぶりを欽慕する町奉行所のある役人は、周囲にそう漏らしたという。
履軒はこの時期、米屋町から五町ほど南の北久宝寺町へ転居した。米屋町の借家は気に入っていたため、本意ではなかったが、家主の都合でやむを得なかった。絹と、八歳になった雄右衛門とともに引き移った履軒は、ここでも水哉館を営みつつ、華胥国と天楽楼も引っ越しさせて、相変わらずの閉戸生活ぶりであった。




