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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第6章 我が世の春
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(6-4)竹山、松平定信と会談する


 天明八年(一七八八)一月三十日未明、京都を流れる鴨川の東、(どん)(ぐりの)辻子(ずし)にある空き家から出火した。何者かによる放火とみられた。

 東からの強風に煽られて火事は延焼を繰り広げ、北は鞍馬口通から南は七条通まで、東は鴨川東岸から西は千本通までと府内の大半を焼き尽くした。鎮火したのは二日後の二月二日早朝であった。

 天明の大火、京都大火、あるいは団栗焼けなど、さまざまな名称で呼ばれるこの火事は、京都史上、最大の火難であった。京都御所や二条城、京都所司代屋敷などが焼け落ちたほか、焼失した町数千四百二十四、家屋三万六千七百九十七、寺院二百一、神社三十七、死者百五十という被害が生じた。実際の死者数は、その十倍以上だったとも言われる。

 この火事によって、光格天皇は御所再建までの間、本山修験宗(しゅげんしゅう)の総本山、聖護院(しょうごいん)を仮御所とし、後桜町上皇は天台宗の門跡寺院の一つ、(しょう)蓮院(れんいん)に仮寓した。

 公儀では京都に対し、御救(おすくい)として、米三千俵、銀六十貫目、それに大坂城に貯蔵してあった味噌などを配給した。

 竹山は以前、高辻胤長からの要請を受けて、京都に学校を建設するための趣意書、「建学私議」を著した。この書は天覧にも供され、公儀へ学校建設を打診する寸前まで話が進んでいたが、この火事によって学校建設構想は白紙に帰した。

 五月二十二日、京都復興の使命を帯びて、前年六月に老中首座となり、かつ二ヶ月前の三月に将軍補佐にも就任した陸奥白河十一万石の藩主、松平越中守定信が入京した。このとき定信は三十歳であった。

 定信の父は、八代将軍吉宗の三男で、御三卿の一つ、田安家初代の宗武である。つまり、定信は吉宗の直孫であり、時の十一代将軍家斉にとっては(いとこ)叔父(おじ)に相当する。

 将軍家との血縁が近く、かつては十代将軍家治の後継候補の一人と目されたこともあったが、経緯があって、定信は十六歳のときに白河藩の養子となった。一説には、定信が当時の老中、田沼主殿頭意次(たぬまとのものかみおきつぐ)の政事に対し批判的だったため、意次が画策して定信を諸侯の養子へと追いやり、将軍職襲位の可能性の芽を事前に摘んだ人事であったとも言われる。

 定信は二十五歳のとき、養父定邦の隠居に伴って白河藩の家督を継いだ。

 天明の大飢饉の際には、白河藩領も深刻な凶作に見舞われたが、定信はいち早く他藩や大坂から米を調達して藩内に流通させた。その結果、陸奥、出羽の諸藩が多くの餓死者を出したのに対し、白河藩ではほとんど餓死者を出さなかった。

 この実績によって、定信の声望は大いに高まり、多くの要人からの推挙を受けて、一気に幕閣の主役へと躍り出た。

 定信は、五月二十五日に聖護院の仮御所に参内して光格天皇に拝謁し、五月末まで京都で執務した。

 六月一日の夕刻、定信は伏見から淀川の船便で川を下り、二日未明に大坂へ入った。

 大坂では、中之島にある伊予松山藩十五万石の蔵屋敷を宿舎とした。松山藩の藩主は、定信の実兄、松平隠岐守定国である。

 定信の来坂は、だいぶ以前から決まっていて、大坂町奉行所へも事前に通達が来ていた。奉行所ではそれを受けて、町方に対して次のような指示を出していた。

「一 越中守様御通行の際、店先や格子越しに見物することは禁止する

 一 軒先の(すだれ)、日覆い、(むしろ)など、見苦しいものは片づけること

 一 大通りに接する横道の通行は禁止する

 一 越中守様が参詣される寺社の門前での出店は禁止する

 一 境内を見下ろす二階家の窓はすべて閉めること

 一 雪隠(せっちん)には囲いをし、路上の小便桶などは片づけること

 一 町年寄は(あさ)(がみしも)を着用し、辻合にて平伏して越中守様をお迎えすること」

 定信は、大坂城内を巡視した後、神君家康を祀った川崎東照宮に詣で、さらに住吉大社、四天王寺、生国(いくくに)(たま)神社に参詣するなど、大坂市中を視察して回った。

 六月三日の朝、竹山宛てに一通の切紙が届けられた。

「越中守、少々御尋ねしたき儀があるゆえ、明日四日七つ時(午後五時頃)過ぎ、越中守旅宿まで御越し致されたく候」

 差出人は、定信の用人三名の連署であった。

 竹山は、定信が京坂を訪れる際、もしかしたら呼び出しがかかるかもしれないことを事前に聞き知っていた。その情報をもたらしたのは、米の仲買商、升屋の番頭で、竹山の弟子でもある山片蟠(やまがたばん)(とう)だった。升屋は、陸奥仙台藩伊達家六十二万石の蔵元として知られているが、白河藩とも取引を行っていて、蟠桃は白河藩の内情に詳しかった。

 定信は以前、江戸にいる頼春水を引見したことがあり、その際に春水が、大坂の著名な儒者として竹山の名前を挙げたらしい。また、公儀の儒官となった柴野栗山の口からも、何かの折に竹山の名前が出たのかもしれない。定信が竹山の名前を知っていたのは、そういう背景があったものと推測された。

「京都復興の事務などで御多忙の中、老中首座、将軍補佐ともあろう幕閣の第一人者が、わざわざ一介の儒者を呼び出すとも思えない」

 もとより竹山は半信半疑だったが、実際に呼び出しがかかった。竹山は感激すると同時に緊張し、切紙を持ってきた使いの者へ承諾する旨を伝えた。

「どんなことを訊かれるのだろうか?」

 一抹の不安はあるが、またとない機会である。ここで老中と面識を得ることは、懐徳堂にとって何かと好都合ではあるまいか。竹山は、そんな功利的な想像を働かせながら、明日着る(かみしも)を用意した。

 翌四日、竹山は正装し、八つ半時(午後三時半頃)に松山藩蔵屋敷へ入った。定信は市内視察中で、まだ帰館していなかった。

 控えの間で待っていると、七つ半時(午後六時頃)に用人がやってきた。

「殿はご帰館遊ばされたが、町奉行殿とのご用談があるゆえ、今しばらくお待ちあれ」

 そう言われて、さらに待つこと四半刻、ようやくお呼びがかかった。竹山は用人に先導されて、定信がいる書院まで案内された。

 竹山は、書院入口の敷居ぎわで平伏した。

「中井竹山でございます。このたび、お招きにあずかり、ありがたき幸せに存じます」

「どうぞ、お入り下され」

 定信にそう言われると、竹山は書院の中ほどまで進み、そこへ正座して再び平伏した。

「いやいや、先生のご高説を拝聴したいゆえ、もそっと近くまでお越し下され」

 定信にそう促されたので、竹山は思い切って定信の近くまで進んだ。このとき、初めて定信の顔を仰ぎ見た。理知的な美男子である、と竹山は思った。

「今宵は急にお呼び立てして申し訳ありません。お初にお目にかかります。私が越中でございます。かねがね、竹山先生のことは聞き及んでおり、一度ぜひお会いしたいと思っておりました」

「恐悦至極にございます」

 このとき、竹山五十九歳であり、三十歳の定信とは親子ほども年齢差があった。

 中間が入ってきて、竹山の横にたばこ盆と茶を置くと、そそくさと退室した。

 二人の会談は、定信の発する問いに対し、竹山が答えるというやりとりで進められた。

 話題は、懐徳堂の沿革から始まって、経書の文言についての解釈、昨今の政事経済や社会風俗についての議論、肥前長崎の噂、畿内の儒者の評判、閲読すべき書物についてなど、多岐にわたった。

 竹山は、畿内の儒者で誰が優れているかと問われた際、

「それがしの家弟に、履軒という儒者がおります。この者の学識は、畿内で右に出る者はいないと存じます。もちろん、それがしも履軒には及びません」

 と答えた。

 また、竹山門下で優れた儒者は誰かと問われた際、豊後の(わき)愚山(ぐざん)と、備中の丸川松陰の名を挙げた。

 定信は終始、一方の手を畳に突いて、竹山の話に傾聴する姿勢を貫いた。定信からの質問は間断なく続けられ、会談は二刻(四時間)にもわたった。終わったときには四つ時(午後十時頃)を過ぎていた。

「本日は先生のお話をいろいろと拝聴することができ、蒙を啓かれた思いです。今後とも何事によらず、存じ寄りの義を忌憚なく申し述べて下さい」

「この上ないお言葉、我が身一生の誉れでございます」

 竹山は感激し、深々と平伏した。

 定信が退室すると、竹山は筆と硯を借り受けて、即興で七言絶句を賦した。題は、「大執政源公に拝謁し、席上恭しく賦を上呈す」とした。

 控えの間に下がると、食事と酒をふるまわれた。献立は、(なます)、菜汁、油揚げ、豆腐、ごぼう、干魚であった。

 翌五日、懐徳堂に切紙と、鯉三(こう)の肴が届けられた。切紙には定信の用人三名の連署で、前夜の来邸を謝する旨の文言が記されてあった。

 六日未明、定信は、東帰のために松山藩蔵屋敷を出立した。正装した竹山は、大坂城玉造口まで定信一行に付き従った。玉造口で一行から離れた竹山は、遠ざかる定信をいつまでも見送った。


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