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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第6章 我が世の春
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(6-3)浪華学者評判記


 天明五年(一七八五)八月、竹山と履軒の母、早が懐徳堂で死去した。享年七十四歳。

 夫、甃庵の死に遅れること二十七年、物静かな婦人であり、食べ物について特に嗜好はなかったが、晩酌で御酒を嗜み、微醺(びくん)を楽しんだ。

 葬儀後、早は、上本町の誓願寺(せいがんじ)にある甃庵の墓の隣りに葬られた。

 竹山と履軒は、三年の喪に服することにした。二人とも酒量を抑え、好きな佳肴を口にするのを控えた。

 竹山はまた、懐徳堂の事務仕事の一部を、十九歳になった淵蔵に任せることにした。甃庵の晩年、竹山が甃庵に代わって懐徳堂の事務を担い始めたのと同じ構図であった。

 それに加え、淵蔵を懐徳堂の講師の一人として、日講を受け持たせた。

 淵蔵はこれを機に、(しょう)(えん)と号することになった。

 ただ、五十六歳の竹山は、まだ隠退する気など毛頭なかった。気力、体力ともに壮時のままであり、衰えを感じていなかった。

 喪に服したとは言え、竹山の対外活動は活発であった。竹山は、大坂城青屋口加番で、美濃苗木(なえぎ)一万石の藩主、遠山近江守友随(ともより)の要請に応じて、月六回の出講を行った。また、大坂城大番頭(おおばんがしら)で、近江宮川一万三千石の藩主、堀田豊前守正穀(まさざね)の要請にも応じ、月三回の出講を行った。

 正穀は、江戸で急逝した正邦の嫡男である。正邦もかつて大番頭をつとめていたため、父子ともに同一職務を襲ったことになる。

 竹山は正穀の紹介によって、もう一人の大番頭で、旗本五千石の花房因幡守正域(まさくに)にも出講した。このとき、竹山は蕉園も同行させ、やがて蕉園一人だけで花房家家中の者へ読書指南を行うようになった。

 大坂で、「浪華学者評判記」という、大坂を中心とした二十九人の学者についての寸評がつくられたが、竹山は筆頭の大極上上吉に位置付けられた。

「どう見ても、当時引っくるめての親玉」

「特に得手があるわけではないが、苦手はなく、及ばぬことがない」

「楽屋受け、町方の評判は悪いが、義理道理においては他人に引けをとらぬ大丈夫」

「身分不相応の大酒飲み」

「何かと人の目につくが、これもこの人の手柄と言うべきもの」

 傍目には、竹山は多分に俗な側面をもつが、大坂ではまず筆頭に挙げられる儒者と評価されていたことが垣間見える。

 履軒も、竹山と同じ大極上上吉に据えられた。

「結構な芸をもちながら、表に出ないところが奥ゆかしい」

「その芸を見たという人を知らないが、知る人ぞ知る」

 竹山と違い、履軒は表に出ないところが評価されていて、兄弟ながら好対照であった。

 大極上上吉と評されたのは、竹山、履軒、それに柴野栗山の三人だけであった。

 片山北海、尾藤二洲、頼春水、皆川淇園(きえん)らも評されていて、それぞれ大上上吉、至上上吉などに位置付けられた。

「懐徳兄弟の学、ついに大坂の盟をつかさどったと見える」

 尾藤二洲は、知人に宛てた手紙にそう記した。竹山と履軒は、この時期の大坂における屈指の儒者との世評がほぼ固まっていた。

 竹山は、門下生や商人、侍などから何かと相談事を持ちかけられることが多かった。

 ある商人が、本店をのれん分けし、別家を立てることになったが、その店を誰に任せたら良いか迷い、竹山に相談した。

「才智、忠実の両方を兼備する人が望ましいのは言うまでもありませんが、そういう人物がいなければ、才智は並であっても、忠実なる人物を取り立てる方が良いでしょう。一時の用に立つ人ではなく、着実に経験を積み重ね、四十歳ぐらいまで下積みを経た人の中から選べば間違いないと思います」

 竹山はそう述べた。才智よりも忠実の方が重要であることを竹山は強調した。

 竹山は、懐徳堂の書生たちに対し、書生が日常行うべき雑務の内容を提示した。

 すなわち、米ふみ、髪月代(さかやき)、使い廻り、風呂沸かし、掃き掃除、行燈掃除、たばこ盆掃除を、担当を決めて規則的に行うように指示した。風呂や打ち水に使う水は、約二町ほど離れた土佐堀川まで汲みに行かせた。

「日常生活をおろそかにする者は、君子とは言えない」

 竹山は、書生たちにそう諭した。

 天明七年(一七八七)、五十四歳の上田秋成は医業を廃し、北淡路庄村へ退隠することになった。隠居所の草庵を(じゅん)(きょ)と名付け、みずからの号も同じく鶉居とした。

「おまえはついに節を曲げて、船場から退散することに意を決したのか?」

 履軒は秋成に毒づいた。

「節を曲げるも何も、もとよりわしに節などはない。医業を営んだのは、あくまでも身過ぎでしかない。おぬしと違って、わしは身銭が貯まったので、これからは悠々自適、風雅の道に生きることにする。気の毒だが、おぬしは貧乏儒者ゆえ、食うために一生働かなければならないだろうよ」

 秋成はそう言い返した。

「おあいにくさま。わしはだいぶ以前から華胥国王として自適に暮らしていて、ほとんど隠退しているようなものだ。おぬしのような駆け出しの隠者もどきと一緒にされては困る」

「わしが船場を去る(きわ)なのに、はなむけの言葉ひとつも言えないのか。口の減らない爺め」

「阿呆言うな。おまえだって爺だろう」

 二人はいつものように罵り合ったが、悪友であり、親友でもある秋成が田舎へ引っ込むにあたって、履軒は一抹の寂しさを覚えた。

 後日、二羽の(うずら)が描かれた画一幅を入手した履軒は、それを持って北淡路庄村の秋成の草案を訪ねた。

「おぬしは鶉居と号し、住む場所が定まらないことを自分に寓したが、わしもこの先まだ、船場の借家をあちこち転々とするであろう。だから、この画の二羽の鶉はおぬしとわしだ。二人でこの画に賛を添えようではないか」

「それはおもしろい」

 履軒は漢詩を賦し、秋成は和歌を詠んで、鶉図に合賛した。

 同年十二月、京都堀川で漢学塾を開いていた阿波徳島藩儒、柴野栗山が、公儀の儒官として召し出されることになった。

 栗山が京都から江戸へ向かう際、江州大津で送別の宴が開かれた。履軒は大坂から大津へ出向いてこの宴に参加し、故友のために激励の詩を詠んだ。


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