(6-2)辛辣な徂徠批判
天明四年(一七八四)十二月、竹山は、荻生徂徠の「論語徴」への反駁書で、蘭洲が著した「非物篇」と、その続編としてみずから筆を執った「非徴」を、懐徳堂蔵版として刊行した。
「非徴」を脱稿したのは十七年前、蘭洲が「非物篇」を完成させたのは四十五年前のことだった。竹山は、この二冊の出版を以前から企図していたが、資金面ほか諸事情でそれが進んでいなかった。
徂徠の古文辞学の流行がようやく収まりつつあり、朱子学を再評価する風潮が高まってきたことも、反徂徠を標榜したこの二書の刊行を実現に至らしめる背景にあった。
「一時的に陽明学にかぶれたり、古文辞学に幻惑されたりした儒者もかなりいたが、紆余曲折の末、朱子学に帰着した者が多い。やはり朱子学こそ、儒学の正統と呼ぶべきである」
実際、尾藤二洲は、はじめ古文辞学を学んだが、やがて朱子学に転向した。また、古賀精里は、はじめ陽明学を深く信奉していたが、来坂後、頼春水、尾藤二洲と知り合い、三人で激しい議論を繰り返した揚句、朱子学を奉ずるようになった。
竹山は「非徴」で、かなり辛辣に徂徠批判を展開していた。それは「論語徴」の内容に対する批判のみならず、徂徠の人格中傷にまで及んでいた。
「徂徠は、名声を得るために学問を行った。学術の病弊と言うべきである」
巻頭でまずそう述べ、さらに、次のように付け加えた。
「『論語徴』は、伊藤仁斎への対抗意識に燃えて執筆したものであり、純粋な学術的態度でこれに臨んだものではない」
かつて徂徠は、伊藤仁斎の著書を読んで疑義が生じたため、辞を低くし、かなりへりくだった言葉づかいで、仁斎へ質問状を出した。
だが、首を長くして返信を待ったものの、結局、返信は来ずじまいで、翌年、仁斎は七十九歳で没してしまった。徂徠は、返信を寄越さなかった仁斎に対し立腹したという。
「仁斎はすでに病が重く、徂徠からの手紙へ返信を書くことができなかっただけの話であって、それを徂徠が恨むのはお門違いである」
竹山は、この件についてそう指摘した。
仁斎没後、その息子東涯が、仁斎の伝記資料集を刊行したが、それに、徂徠が仁斎宛てに出した手紙がそのまま掲載された。もちろん、徂徠の承諾なしにである。
その慇懃な文面を公然と晒された徂徠は、赤面するほどの屈辱を感じ、以来、仁斎を憎み、仁斎を凌駕することを大目標にして発奮したという。
竹山は、徂徠の仁斎への対抗意識はこのとき芽生えたと述べ、児戯に類すると罵倒した。
「古文辞学は、不遜にも儒学の大柱である道徳の涵養という側面を軽視しており、世の風俗を乱すばかりか、青雲の志を抱く若者たちへ不治の悪弊を植え付けるものである」
さらに竹山は、徂徠の臨終の際の逸話を書き記している。
「消息筋から聞いた話では、徂徠は病の床に就くや、側にいる者に対し、『宇宙の偉人が死ぬときには、必ず霊怪があるという。今まさに、紫雲がこの家の屋根を覆っていることであろう。そなたたち、外へ出て見てきなさい』と毎日のように言ったという。
病膏肓に入ると、徂徠は『紫雲だ、紫雲だ』と叫びながら床を転げ回った。家人と弟子たちはこれを深く恥じ、見舞客が来ても徂徠に会わせなかった。それゆえ、一時は徂徠の死は狂死だったとの噂が立ったという」
言葉が過ぎるかもしれない。竹山自身、そう思わなくもなかったが、あえて過度の徂徠批判を行い、古文辞学に対し徹底的に打撃を与えようとした。
「非徴」の徂徠批判は、特に江戸の儒学界で波紋を呼んだ。
広島藩儒となった頼春水は、世子、浅野斉賢の伴読となり、前年、広島から転じて江戸勤番となっていた。春水は江戸で、陸奥白河十一万石の藩主、松平越中守定信に呼び出され、学事についての諮問に答えるなど、儒者として名が知られるようになっていた。
その春水から、竹山あてに書簡が届いた。そこには、「非徴」が激烈過ぎることを懸念していること、実際、江戸では反撥の声が多く出ている旨が書かれてあった。
それに対して竹山が返信し、またさらに春水から書簡が届くというやりとりが続いた。
竹山は、江戸の非難に対し一歩も引くつもりはなかった。
「もとより、あえて意図して激烈に記述したのであって、もしそのことだけを江戸の儒者たちが指摘しているのであれば、それは想定範囲内であり、懸念には及ばない」
竹山は、ついでながらと前置きした上で、次にように春水への手紙に書いた。
「臨終の床での態度は、その人の平生の心がけが表出するものである。近江聖人、中江藤樹は、胸中安らかに死を迎えたという。一方、徂徠は、心術の工夫を廃して欲に走り、弟子たちには正心誠意を禁じた。それが死に臨んで紫雲の逸事となって表れたのであろう」
竹山はさらに、唐の玄宗皇帝に反旗を翻した安禄山の故事に倣って、朱子学を否定した徂徠を安禄山に見立てたり、「孟子」の逸話で、小才はあるが、君子が踏むべき大道が分からずに殺された盆成括という人物に徂徠を見立てたりと、徂徠批判を繰り返した。
「もし徂徠が生き返って、わが『非徴』を読めば、必ずや感服することであろう」
竹山は、熊本藩儒の藪孤山と対酌したとき、そう言い放った。
「さすがにやり過ぎではありませんか?」
履軒は、竹山の徂徠批判が過度であることに眉をひそめた。
「いや、これぐらい強く言わなければ、古文辞学の害毒を断ち切ることなど到底無理だ。かつて古文辞学は、儒学界の一世を風靡する勢いであった。最近、ようやくその勢いは収まりつつあるが、たとえ間違った教えであっても、ひょんなきっかけでそれがもてはやされたりするのが世の中の怖ろしいところだ。ここでとどめを刺しておかなければ、またぶり返すかもしれん」
「つまり、兄上の徂徠批判には、多分に誇張も含まれている、というわけですね?」
「人聞きの悪い物言いだが、そういう面がないとは言いきれない」
竹山がそう言うと、履軒は笑い出した。
「ついに白状しましたな。上田秋成が兄上のことを『山こかし』などと馬鹿にしていましたが、さもありなん」
「何だと? 秋成がそんなことを言ったのか? 徳二、笑い過ぎだぞ」
もともと竹山は、石庵や甃庵と同様、朱子学一辺倒の徒ではなく、朱子学を主体としながらも、各学派の酌むべき識見を排除しない立場をとっていた。熱心な朱子学者である頼春水などは、竹山が純粋に朱子学を奉じていないことに不満を抱いているぐらいである。
そんな竹山は、懐徳堂を官学化するという大目標に向けて、あえて反徂徠を標榜し、奉ずるべきは朱子学であることを強調していた。儒学界では、朱子学を正学とし、異学を廃する動きが徐々に出始めていて、竹山はそういう空気を敏感に察知していた。
履軒は、俗気たっぷりで、策を弄する竹山に苦笑した。それもこれも、懐徳堂を維持伸長させることに身命を賭しているゆえの行動であろうと一定の理解を示しはしたものの、
「兄弟ながら、わしと兄上とはまったく違う人間だ」
と嘆息を漏らした。




