(6-1)悪友、上田秋成
天明三年(一七八三)春、履軒は家主の都合によって、米屋町の「華胥国」から、一時的に博労町へ引き移った。約半年後、米屋町に戻り、またもとの暮らしに復帰したが、五十二歳という年齢のせいもあってか、老いを実感するようになっていた。
「履軒先生の髪は、雪が降り積もったかのように白いものが目立つようになりましたね」
「いや、まだ雪にはなっておらず、霰です」
知人から指摘され、履軒は下手な抗言を試みたが、内心、心穏やかではなかった。
この時期の履軒は、上田秋成という、医者であり、国学者でもある男とよく遊んでいた。
履軒よりも二歳年下の秋成は、幼少期に紙油商人の養子となり、一時期、懐徳堂で学んだことがあった。そのため、竹山、履軒とは以前から顔見知りであった。
やがて家業を継いだが、火災に遭って破産したため、医学の道へ進んだ。医院を開業する傍ら、主に俳諧と国学を研究し、みずから古典の注釈書を著したり、物語を執筆したりしていた。怪奇現象にも興味があり、その著書「雨月物語」は、中国や日本の古典に取材した怪異小説九編からなる短編集である。
ある日、秋成が怪奇現象について熱く語ったところ、履軒は即座にそれを否定した。
「おぬしは文盲か? 幽霊や狐憑きなど、この世には存在しない。だいたい狐憑きというのは、癇性病みが語ることだ。もしや、おぬしは癇性病みか?」
無鬼論者の履軒は、こういう話は一切受け付けない。
「何を言うか。わしは以前、京で狐に化かされて目がくらみ、町をさまよい歩いて疲れ果てた挙句、ようやく家にたどり着いたことがあった。実際にそういう経験をしたから話しているのであって、癇性病みなどではない」
「おまえは阿呆か? それがなぜ狐の仕業だと言えるのか? 単におまえが道に迷っただけではないのか? それを狐のせいにするなど、おまえの分別はちゃんちゃらおかしい」
履軒は辛辣であり、怒った秋成は、ぷいと帰ってしまった。
これでしばらくの間、お互いに行き来しなくなるが、ある程度の月日が経過すると、どちらからともなく声をかけて、また二人で酒を飲んだりする。さすがにそのときは、二人とも怪奇現象の話は持ち出さない。
「石庵先生の頃の懐徳堂は、商人の子らに人の道を語り聞かせるような塩梅で、あまり学問じみた硬い話はしなかったと聞いておる」
秋成がそう語り始めた。
「わしも石庵先生のことは父からしか聞いていないが、どうやらそうだったらしいな」
「わしは小さい頃、懐徳堂で、竹山殿と履軒殿の師でもある蘭洲先生に教わったが、今から思うと、蘭洲先生は謹厳で志操が高く、立派な儒者だったと思う」
「うれしいことを言ってくれるではないか。わしもそう思う」
履軒は、尊敬してやまない蘭洲が褒められたことで、上機嫌になった。
「竹山殿は、懐徳堂を一人で切り盛りしてよくやっているとは思うが、俗な部分が鼻につくのが玉に瑕だな。ときどき大言を吐くのもいかん。まるで山こかしだ」
「何だと?」
「履軒殿は、竹山殿と違って俗気がなく、学識と器は竹山殿以上だなどと噂する人もいるらしいが、決してそんなことはなく、ただ隠者ぶっているだけの貧乏儒者に過ぎまい」
「おまえ、何を言うか!」
履軒は腹を立て、にわかに立ち上がると、秋成はそそくさと帰っていった。先日の意趣返しであった。
これでまた、しばらく没交渉になるが、ほとぼりが冷めると、再び二人でつるんだりする。そんなことの繰り返しだった。
履軒が水哉館を開いてから、かれこれ十六年になる。世間では履軒について、
「懐徳堂の竹山の舎弟で、閉戸生を名乗り、だいぶ変わり者らしいが、学者としてはかなりの腕前であるらしい」
との評判が定着しつつあった。
水哉館の玄関には、このような掲示が貼り出されてあった。
「虚名をお聞きになり、初めてご来訪の方は、必ず紹介状をご持参下さい。無縁の方との対面は堅くお断り申し上げます。また、寄宿はお引き受けできませんので、あしからず」
履軒の人嫌いは徹底していた。
飛び込みの来訪や、悪客がやってきたりすると、不平の色がたちまち言動にあらわれ、あるいは叱して追い返し、あるいは避けて会わなかった。
「忙しさにかまけて、だいぶご無沙汰してしまいました」
ある知人が履軒宅へやってきて、そうあいさつすると、履軒は、
「お訪ねなきは何より有難いこと」
と返したりした。
あるとき、履軒は宴会に誘われたが、気乗りがしなかったため、
「せっかくのお誘いながら、当日はきっと体調不良になるゆえ、参加は遠慮申し上げます」
などとわざわざ手紙に書いて断ったこともあった。
そんな調子ゆえ、履軒の学者としての実力は相当なものであるとの世評がありながら、水哉館の門下生はそれほど多くなかった。そもそも、履軒がわざわざ入門の敷居を高くしていたので、容易に門をくぐれないしくみになっていた。
一時期、履軒の家計は相当に逼迫した。布団が不足し、知人に頼んで布団を送ってもらったり、また、替えのふんどしがなくなってしまい、他人の古袴を使ってふんどしを手製し、それを身につけたりした。
水哉館の講義は、経書や史書の一字一句について解説する高度な内容であり、初学者向けではなかった。履軒は門下生からの質問に丁寧に答え、時に応じて門下生を激励した。入門の敷居は高いものの、一度門に入った弟子に対しては親切かつ厳しく指導した。
「学問を身につけるには、日々地道に学び、努力する以外に方法はない。それを抜きにして、手っ取り早く学ぶ方法だとか、鎮座して瞑想し、念じることで一挙に盲が啓かれないだろうかなどと考える者がいるが、それは誤りである」
履軒は門下生に対し、安易安直な手段を講じて学が成るほど甘いものではないと戒めた。
ある日、水哉館への入門を希望する書生が、紹介状を持参してやってきた。見ると、何か思い詰めた様子であった。
「そなたは学問をする前に、まず酒を飲むことを学べ。それからのちに学問せよ。さもなければ、鬱悶のあまり病を発し、死ぬことになるぞ」
履軒は、肩に力が入り過ぎていても学問はできないと注意した。
懐徳堂創設時の五同志の一人、鴻池又四郎は、豪商鴻池の分家の当主であった。その縁もあって、鴻池の本家当主をはじめ、鴻池関係者の多くが懐徳堂や水哉館で学び、かつ、彼らは懐徳堂の有力な支援者となっていた。
鴻池本家九代目当主、山中元漸は、履軒の弟子であった。元漸は、伊丹の鴻池発祥の地にある鴻池稲荷を再建するに際し、その碑文揮毫を履軒に依頼した。
鴻池稲荷は、宝暦十三年(一七六三)の台風で倒壊し、そのままになっていたが、このたび再建が決まり、合わせて碑文も建立することになった。
鴻池家の祖は、戦国時代の尼子家の勇将、山中鹿之助である。その子孫が伊丹で酒造業を興し、鴻池家隆盛の礎を築いた。「鴻池」の名は、自宅の裏に大きな池があったことに由来する。履軒は、鴻池の起源から稲荷を祀るに至るまでの経緯を四百字余の漢文で綴った。
履軒の経書研究は進んでいた。
主に、四書五経を繰り返し何度も読み、各種注釈書なども参照して、正本の余白に独自の解釈も加えた注釈を書き込む作業を行っていた。
四書五経は、全部で九種の書物からなる。履軒はこのうち、「大学」と「中庸」がもともと「礼記」の一篇であることから、この三つの書物を一つと数えて七経とし、これらにみずから注記した注釈書群を「七経雕題」と名付けて、経書研究の基本としていた。
履軒はこれと並行して、「史記」、「国語」、「戦国策」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」、「晋書」、「五代史」などの史書や、「老子」、「荘子」などの道学の書、それに、「世説新語」、「楚辞」などにも注釈を施す作業を行っていた。
精力的に活動を続けてきた履軒は、久方ぶりに気鬱に襲われて、あまり眠れない夜が続いていた。家計の逼迫や、老いの足音という、個人的な事情もあるが、世の中は、岩木山と浅間山の大噴火から始まる未曽有の凶作と飢饉とに見舞われ、多数の餓死者が出ていたことも、履軒の心を重くしていた。死人の肉を食って飢えを凌ぐという惨状すら呈していて、江戸や大坂を中心に、各所で打ちこわしも頻発していた。
履軒は眠れぬ夜に、憂いを含んだ詩を多く賦した。鬱した気持ちを詩に吐露することで、辛うじて自分の内面の波立ちを鎮めることができた。冬から翌春にかけて、約五百首ほども詠み、それを一冊に編んで、「枕上雑題」という書にまとめた。
履軒ほどではないものの、竹山の家計も、決して豊かであるとは言えなかった。
竹山の個人収入は、懐徳堂で決められた給金手当のほか、直弟子からの束脩や、出講による謝礼、それに刊行した著書の稿料からなるが、懐徳堂学主兼預人という立場上、冠婚葬祭や各種お祝い事での出費が多く、生活費に充てられる金にあまり余裕はなかった。
「一に家に産無し」
竹山は、節をつけてうたった。
「二に衣に替え無し、三に親に奉物無し、四に妻に余暇無し、五に嚢に金無し、六に倉に米無し、七に食らうに魚無し、八に出ずるに輿無し、九に樽に酒無し、十に門に轍無し」
これを「十無の詩」と名付けて、家族や親しい友人の前でときどき披露した。
「さしずめ、兄上には、九がいちばんこたえるのでしょうな」
履軒は、にやにや笑いながら言った。
「おぬしはまた、酒のことでわしをいじるのか。だが、当たっていなくもないのが癪だ」
「やっぱり」
「実際、しばらく晩酌を断っているが、それは家計の苦しさからだけではない。昨今、陸奥や出羽ではひどい凶作や飢饉に見舞われているらしい。それを思えば、悠々と酒を飲んでなどいられない」
「餓死者が路上にあふれ、ひどい惨状だと聞いております」
「普通に衣食が足るというのが、どれほど幸せなことなのか、改めてそうかみしめている。飽衣美食などは余計なことだ。ただ、人というものは、天変地異でも起こらない限り、そういう気づきに至らないのは情けないことではある」
「まったく同感です」
竹山と履軒は目を閉じ、しばらく無言のまま向き合っていた。




