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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第5章 儒者兄弟
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(5-18)竹山、学主に就任


 天明二年(一七八二)、竹山は、京都高辻家の当主、胤長から、京都に学校を建設するための趣意書の起草を依頼された。

 以前、履軒は高辻家から招聘を受けて、約一年間、高辻家の書楼で賓師として起居したが、履軒の帰坂後も、高辻家と懐徳堂とは交流が続いていた。預人として懐徳堂を堅実に運営し、学校に関して一家言ある竹山に趣意書起草の白羽の矢が立った形であった。

 竹山は、胤長からの依頼を受けて、「建学私議」と題した趣意書を著した。この書で、京都公家町の御築地(おついじ)内に土地を確保し、朱子学を講じる「観光院」という名称の学校を建設することを提案し、その図面も添えた。

 この趣意書は、胤長を通じて関白九条尚実(くじょうなおざね)も目を通し、光格天皇の天覧にも供された。朝廷では、これを基本に、京都の学校建設を公儀に打診するところまで話が進んだ。

 九月、履軒の妻、絹が男児を出産した。

 五十一歳になった履軒は、産着にくるまれて静かに息をしている嬰児(やや)を見て、目を潤ませた。前妻のみわとの間に授かった二男一女はみな夭折し、みわもすでにこの世を去った。せめてこの児だけは無事に成長してほしいと、無鬼論者ながら、履軒は痛切に願った。

 男児は、()()衛門(えもん)と名付けられた。

 それから間もない十月九日、懐徳堂の三代目学主、三宅春楼が病没した。享年七十一歳。

 幼少期は病弱だった春楼だが、少年期以降、大病を患うことはなかった。学問修行を始めた年齢は遅かったが、努力して儒者としての学識を身につけた。

 だが、父石庵以来の家業である製薬業に忙しく、学主に就任してからも兼業でその仕事を続けた。そのため、学主としての働きぶりは傍目にも褒められたものではなかった。

 竹山は、春楼の学問を「器用学問」と評した。一通りの学識はあるものの、さらに研究を重ねて新たな学説を提唱したり、著述を行うことをほとんどしなかった。

 一つだけ、春楼には、「四書国読刪正(さんせい)」という学術の著書がある。

 石庵は、四書五経に独自の訓点を施して読むことを試み、それを「懐徳堂点」と名付けたが、完成前に没した。春楼は、石庵の遺志を継いで懐徳堂点を完成させ、それを書物にまとめた。竹山はこの書物を高く評価したが、それ以外の事柄については、春楼に対する評点は辛かった。

「毎月六回分の日講以外、学主による講義は一切行われず、春楼先生が学主に就任してからの二十五年間、懐徳堂の学風は大いに廃れたと言わざるを得ない」

 後日、竹山は、同志たちに回覧した文書にそう記している。

 春楼の葬儀は懐徳堂で行われ、竹山が葬儀主幹を務めた。

 葬儀後、同志が集まって協議した結果、竹山が預人を兼務したまま、四代目学主に就任することが決まった。このとき、竹山五十三歳であった。

「懐徳堂の学風を立て直す」

 竹山は、周囲にそう語り、精力的に動き出した。

 大坂町奉行所へは、竹山が懐徳堂の四代目学主兼預人に就任した旨、届を提出した。

 また、「(はく)鹿(ろく)(どう)書院掲示」を樫の板材に刻ませ、それを講堂の長押(なげし)に掲げた。

 白鹿洞書院とは、中国宋代における四大書院の一つだが、宋王朝が金に華北を奪われて南渡後、その学風が大いに廃れた。それを嘆いた朱子は、典籍から学問の心得となる文言を引用して白鹿洞書院の学生たちに掲示し、かつ、みずからも講義を行い、書院の復興に尽力したという。

 竹山は、その故事を踏まえてこの掲示を行った。

 日講も、回数を増やして充実させた。一、六の日の昼講は「左伝」、二、七の日の朝講は「書経」、夜講は「近思録」、三、八の日の昼講は、朱子の著作「伊洛(いらく)淵源録(えんげんろく)」、四、九の日の夜講は「大学」とし、竹山は、早野仰斎らの講師陣と分担して講ずることにした。

 五、十の日は休講とした。五と十がつく日は五十(ごと)払い、すなわち商店での清算支払いに忙殺される日であり、門下生に商人が多いことに配慮しての措置であった。

 このほかにも、月一回の同志会や、門下生たちの会読の会、寄宿生たちへの講義や指導、それに各講師陣の直弟子たちへの教導も行われた。

 竹山は、懐徳堂での講義や指導の合間に、大坂城や大坂町奉行所へも出講したので、ほとんど休む日はなかった。

 十二月二日、懐徳堂講堂にて、学主となった竹山のお披露目講義が行われた。百人ほどの聴講者たちを前にして、竹山は「論語」学而篇の一節を講じた。

 履軒も最後列でこの講義を聴いた。また、竹山、履軒と以前から交友があり、たまたま大坂に滞在していた高山彦九郎も、酒一樽と鯛をご祝儀に持参し、この講義を聴講した。

 高山彦九郎は、一種の名士であり、奇人であった。もとは上州出身の郷士だが、勤皇思想を抱いて故郷を飛び出し、北は蝦夷松前から南は薩摩まで全国を遊説して回り、各地に友人や支援者がいた。彦九郎は、大坂に来ると決まって懐徳堂を訪ね、竹山と談笑した。

 春楼没後、竹山は、懐徳堂の今後の運営について同志たちと協議し、その内容を「覚書」として文書にし、関係者へ回覧した。

 覚書では、竹山がこれまで踏み込めなかったことにまで言及していた。

「懐徳堂は、三宅家、中井家の私有物ではありません。官許を得た大坂学校であって、あくまでも公儀からの拝領物です。これが大原則です」

 世間では、学主は三宅家と中井家が一代交代で出すものだと言ったり、三宅家が創設し、中井家が相続したなどと噂する人がけっこういた。それを否定するために、竹山はあえて大原則を強調した。

「この原則を踏まえると、懐徳堂内に居住する資格を有するのは、寄宿生や一時滞在の者を除くと、懐徳堂の運営に携わる者とその家族のみ、ということになります」

 したがって、春楼亡き後、その二人の息子、幸蔵と永蔵、それに春楼の側室の梶が、このまま懐徳堂内の右塾に住み続けるのは、この原則に反していることになる。幸蔵も永蔵も、懐徳堂の運営には一切関わっていない。

 これが、竹山が最も言いにくいことであったが、意を決してそう主張した。

 また、かつて春楼が、懐徳堂蔵版の書物などを私有物のように扱い、泰然としていたことにも触れ、それは間違っていると指摘した。

 商人からなる同志の面々は、懐徳堂創設当時の五同志がみな故人となり、その後を子息が継いだり、別の商人が加わったりと、出入りがあったが、竹山の意見に対し、同志たちは賛意を示した。

 この覚書を盾にして、竹山は、幸蔵たちへ懐徳堂からの退去を求めた。

「何てひどいことを言うのだ‼」

 幸蔵たちは激昂し、竹山に反論した。

「懐徳堂は、我が祖父、石庵が創設した塾だ。三宅家は特別な存在であり、言わば永年客分扱いのはずである。それを出て行けとは何事だ!」

「懐徳堂は、官許を得た学校であり、学舎も備品もすべて公儀からの拝領物です。特別な存在などというものはありません」

「甃庵学主の時代は、父の春楼は懐徳堂の職務に就かなかった。それでも懐徳堂に住み続けたではないか!」

「確かにそうですが、あの頃は同志の方々の意見もまとまっておらず、原則通りではないことには目をつぶった形でした。ですが、原則は今も変わりありません。はばかりながら、幸蔵殿も永蔵殿も、懐徳堂の業務に関わっておられないため、堂内に居住する資格がない、と申し上げざるを得ません」

 竹山はきっぱりと言った。殴られることも覚悟していた。

 幸蔵と永蔵は、以前から親しくしていた加藤景範に相談した。景範は、懐徳堂の古参の門下生であり、有力な支援者だった。以前、孝子義兵衛を称揚した「かはしまものがたり」を執筆したほか、「大日本史」の筆写を懐徳堂で行った際、春楼、竹山、履軒とともに校訂者の一人に名を連ねるほどの学識も備えていた。

 景範は、幸蔵兄弟に代わって竹山へねじ込んだが、竹山の答えは変わらなかった。

 結局、春楼が没した翌年二月、幸蔵と永蔵、それに春楼の側室の梶は懐徳堂を退去し、讃岐へ転出した。讃岐は、かつて石庵が儒学を講じた地であり、また、石庵がつくった丸薬、返魂丹の主要な販路でもあり、三宅家にゆかりがあった。

 これ以降、三宅家と懐徳堂との関係は完全に途絶えた。

「三宅家と中井家との主導権争いで、結局、竹山が春楼の息子たちの追い出しに成功した」「人倫や仁徳を標榜し、孝子顕彰活動を推進する竹山にしては、むごい仕打ちじゃないか」

 など、しばらくの間、世間の風評は竹山に厳しかった。

「中井家とて、懐徳堂の運営に関わらなくなったら、退去することになるのは同じである」

 心情面で、苦いものが残らなかったと言えば嘘になるが、あくまでも懐徳堂という学校の位置付けと、その原則に基づいた措置であり、竹山は風評に耐えた。

 そんな竹山にとって、四男の淵蔵が十七歳、七男の七郎が十三歳、五女の刀自が七歳になり、三人とも大きな病に罹ることなく無事に暮らしていることは喜びであった。

 それに加えて、淵蔵と七郎は二人とも学問の筋が良く、特に淵蔵は、竹山さえ舌を巻くほどの勉強家であり、すでに一人前の儒者と呼んで差し支えないほどの学識を備えていた。

「淵蔵と七郎は、まるでわしと徳二のようである」

 竹山は、二人の成長に目を細めた。懐徳堂は誰の私有物でもないが、この二人がいれば、懐徳堂の将来は安泰であると、期待に胸を膨らませていた。


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