(5-17)華胥国(かしょこく)
絹を後妻に迎えた履軒は、その翌年、再び引っ越しを行った。
五年間住んだ南本町二丁目の借家は、独居を前提としていたので、部屋数が少なく、手狭であった。
そこで、もう少し部屋数が多い借家をと探したところ、近所の米屋町に、古いながら格好の物件を見つけ、絹とともにそこへ引き移った。
履軒は、転居したこの借家を「華胥国」と名付け、みずから華胥国王を名乗った。二階にある方丈の部屋を「天楽楼」と銘打って書斎とし、この部屋の入口には「華胥国門」と書いた手製の扁額まで掲げた。
「徳二さんが、おかしなことを始めました」
絹を通じて、この話が懐徳堂にも伝わった。
「さながら、絹は華胥国の王妃様、ということになるな」
話を聞いた竹山は、そう言って哄笑した。竹山には、華胥国の意味が分かっていた。
華胥国とは、道家思想の書である「列子」に出典がある。
中国古代の伝説的な帝王であった黄帝が午睡中、華胥国という国の夢を見た。
その世界には、戦などは存在しない。人々は自然にしたがって暮らしていて、物欲がなく、身分の上下や愛憎、利害対立もない。いたずらに生を称揚しないかわりに、死を忌むこともなく、恬淡と日々を過ごしている。
午睡から覚めた黄帝は、今見た夢がまさに理想郷と呼ぶべきものであったと悟った。以後二十八年間、黄帝は善政を敷き、天下はよく治まった。黄帝が崩御すると、民は黄帝の治世を回顧して涙し、その悲しみが二百年間続いたという。
履軒は、自身が住む借家を華胥国に寓し、ここで自分の魂を解き放ちつつ、気ままに暮らすことにした。
これまでは、自分が思い描く理想を小出しにしながらも、どこか遠慮がちで、世間体を気にする側面があったが、五十歳を前にして、ようやく臆することなく、自分らしさを前面に出して生きていく肚が据わった。
ここに至るまでには、紆余曲折を避けて通れなかった。
幼少期から精励して儒学を学び、将来、懐徳堂の屋台骨を支える人物の一人になるつもりでいた。だが、甃庵没後、兄の竹山の陰に隠れて、自分の役割期待がしっくりせずに悩むことが多かった。高辻家に招聘され、勇躍京都へ赴任したが、生来の社交下手も災いし、華やかな公家の世界に打ちのめされて一年で職を辞した。帰坂後、懐徳堂から離れて水哉館を開いたが、妻子に先立たれて意気消沈し、再婚を経てようやく気力が回復してきた。
身内の死を多く経験したことも、履軒に覚悟をもたらす一因となった。
「わしもいずれは死ぬ。人間五十年にほぼ到達したわしは、もうあと何年生きられるかも分からない。いつまでも逡巡してはいられない」
残された時間はそれほど多くない。そう突き詰めて考えたとき、履軒は、世間体や毀誉褒貶から脱却することができた。自分の理想とする生き方を坦々と貫けばいい。
履軒はさっそく、黄帝が見た華胥国の夢の二次創作として、寓話の形で治政の理想を説いた「華胥国物語」を著した。
華胥国内にある郡国、南柯国の若い君主は、庶民が困窮した暮らしにあえいでいる実態を知ると、みずから質素倹約の生活に入り、租税は一割、田地の所有は一人一町歩までとして貧富の差をなくさせ、荒地を開墾させて新田を増やした。また、仏寺を廃して僧侶を還俗させ、子女の教育に当たらせた。こうして庶民の暮らしは豊かになったが、君主は相変わらず質素倹約の生活を続けていた。そのことを知った庶民は、租税一割の枠を超えて、進んで君主へ貢物を納めるようになった。
履軒は、為政者がみずから質素倹約を実践して庶民に範を示し、善政を敷くことを理想として描き出した。現実とは程遠いものの、あえて夢物語として理想を説いた。
また、仏教をはじめとした、神仏への信仰というものを履軒はかねてから否定していたが、「華胥国物語」で、仏寺を廃して僧侶を還俗させるという過激な施策を通じて、みずからの考えを明らかにした。
「仏教とは、死を恐れる者が、その恐れから逃れるために生み出したものだ」
履軒は、つねづねそう口にしていた。
世の中では邪教怪説が盛んに行われていて、それを信奉する人が大勢いた。履軒はそのことを憂え、憎んでもいた。
「目に見えぬものを信じることは不毛である。鬼神などは存在しないし、霊魂などというものもない。死後の世界も、空想の産物に過ぎない。人は生を享け、やがて死ぬ。寿命が尽き、死が訪れたのならば、安んじてそれを受け入れ、この世から消え去るのみである」
履軒は、無鬼論者であった。
目に見えるもの、手に触れられるものを信じ、そうでないものは一切信じない。
「物に格る(本質を極める)とは、みずから行ってその地を踏み、その事に臨み、実際に労をとることである。例えば農事の理を知りたいのなら、まず農具を手にし、みずから地を耕すことに如くはない。また、もし音楽の理を知りたいのなら、みずから笙を吹き、鐘を打ち、進退舞踏すること以外、ほかに方法はない」
履軒のそういう志向は、自然科学への傾倒へもつながっていた。
医師であり、天文学者でもある麻田剛立と知り合った履軒は、剛立が行った獣体解剖に立ち会い、それを踏まえて、詳細な人体解剖図を著した。さらに剛立から天文学を学び、みずから工夫研究して、天体図の模型まで自製している。
「天図」「方図」と名付けた円形の模型は、太陽系の惑星と月をそれぞれ円内に配置し、位置関係が分かるようになっている。木製の「天図」では、中心に太陽と地球、月を配し、その外側に各惑星の軌道を同心円状に丸い輪として順番に配置して、その輪を回転させることができるようにした。
履軒はまた、太陽暦に基づいて暦を作成し、「華胥国暦」と名付けた。
ほかにも、月の動きで潮の満ち引きが生じる様子を示した模型、「潮図」をつくったり、服部永錫という商人が作製した顕微鏡を覗き、蝿、蚊、虱、さらには自分の毛まで観察して「顕微鏡記」を執筆したり、動植物を写実的に描いた画集「左九羅帖」を著したりしている。
これらの活動は、物事の本質を理解するためには、実際に目にし、手で触れ、動かしてみることが肝要であるという、履軒の持論の実践形であった。
「いやはや、徳二は手先が器用なことだ」
米屋町にある履軒の「華胥国」に顔を出した竹山は、二階の書斎、天楽楼で、履軒が描いた人体図や画集、作製した天図や方図、潮図などを次々と手に取った。
「ようやく迷いが吹っ切れたようだな。おぬしの面差しから憂いの影が消えておる」
「そう見えますか? 実は近頃、日々の暮らしが楽しく感じられるようになりました」
「華胥国で、おぬしの思うように暮らすが良い。ただ、絹のことだけは大事にしなさい」
「心得ております」
履軒はそう答えたが、絹との関係について、不安を抱いていた。
絹は、華胥国などという履軒の道楽に戸惑いを覚えている様子であり、あまり好意的に受け止めていないように見受けられた。履軒はほとんど外出せず、水哉館で門下生を教える以外は天楽楼に籠り、ひたすら書物を精読し、考究と執筆とに明け暮れていた。
履軒は、自分が奇人であることを自覚していた。絹が夫の閉戸ぶりを奇異に感じる気持ちも分からなくはないが、奇人は、常人とは違う生き方しかできない。
なるべく絹と話をするようにして、奇人の生き方を理解してもらうしかない。履軒はそう心がけて、絹と接していた。
竹山と履軒の母、早が七十歳になった。二人は懐徳堂で、早の古希を祝う会を催した。
頼春水の妻、静子は昨年、長男の久太郎を出産した。
その春水が、安芸広島四十二万六千石の浅野家に三十人扶持の藩儒として召し抱えられ、広島へ赴任することになった。
一夕、竹山と履軒は、尾藤二洲ら親しい友人を集めて、春水との送別の宴を開いた。
「大坂の儒者がまた一人去る。寂しくなるな」
竹山はそう言い、履軒も、春水との別れを惜しみ、めずらしく大飲した。




