(5-16)竹山の悲願
安永八年(一七七九)、四十八歳になった履軒に、縁談話が持ち上がった。
竹山の高弟に、中村両鋒という学者がいた。両鋒には絹という名の妹がいて、二人は幼少時に両親を亡くし、孤児になった。
その二人を、醤油醸造業を営む商人、尼崎屋市右衛門が引き取って養育した。
懐徳堂の左塾部分は、もともと尼崎屋の所有地だった。懐徳堂が官許を取得した際、この土地が懐徳堂の増設地として供出され、尼崎屋には別途、代地が充てがわれた。
そういう経緯があって、懐徳堂と尼崎屋とは、石庵、甃庵の時代から関係が深かった。両鋒も、妹の絹も、幼少時から懐徳堂に出入りしていて、竹山、履軒とも親しかった。
このとき、絹は三十代前半で、独り身だった。
一方、履軒は、前妻のみわを亡くしてから六年が過ぎ、やもめ暮らしもようやく板についてきていた。
「蛆でも湧かなければいいが」
竹山は、そう言ってからかいつつも、内心、履軒を心配していた。
ある夜、竹山と両鋒が二人で酒を飲んでいたとき、履軒と絹を娶わせてみたらどうかという話題になった。
酒席の戯れ言のつもりだったが、翌日、両鋒が絹に打診すると、履軒のもとへなら嫁いでもいいと答えたという。
それを聞いた竹山は、それならばと、今度は履軒に絹との縁談話を持ちかけた。
「絹が来てくれるのなら、大歓迎です」
日頃のふてぶてしさは影をひそめ、履軒は照れて顔を赤らめた。
双方ともに承諾したため、履軒と絹は結婚することになった。竹山は、酒席での冗談が現実となり、驚きもしたが、二人のために安堵した。
お互いに旧知の間柄であり、若くもないため、支度金や婚礼の儀などは省くことになった。六月十八日、結納を取り交わした後、絹は、南本町二丁目の履軒宅へ移り住んだ。
この年、三十四歳になった混沌社の頼春水にも、縁談話が持ち上がった。
相手は、儒者の飯岡義斎の次女で、二十一歳の静子であった。静子は歌人でもあり、梅颸という号を有していた。
竹山は、この二人の結婚の媒酌人を務めた。
飯岡義斎にはもう一人、直子という娘がいるが、直子は後年、混沌社の尾藤二洲のもとへ嫁いだ。竹山は、二洲の婚姻の媒酌人も務めている。親友同士である春水と二洲は、嫁を通じて義兄弟になった。
安永九年(一七八〇)、竹山と懇意になった大坂西町奉行、京極高亶の手を経て、長年、懐徳堂が尼崎町と揉めていた問題が解決するに至った。
懐徳堂は、官許取得によって諸役免除となり、町年寄による町の管轄からも外れることが沙汰されていた。人別も町とは別証文で管理することになり、各種申請、報告等も町を通さず、直接町奉行所へ提出することになった。さらに、懐徳堂内へ帯刀身分の者を止宿させても構いなし、ということにもなっていた。
つまり、懐徳堂は「除地」であり、尼崎町内にありながら、町には属さない施設であると、竹山はそう認識していた。
ところが、実際にはそうなっておらず、町は懐徳堂が除地であると認めていなかった。
懐徳堂内に他人を止宿させ、居住させる際、竹山は、懐徳堂から町奉行所へ届け出を行うだけで済むと思っていたのだが、町年寄は、それはまかりならぬと主張して譲らず、やむなく、竹山は折れざるを得なかった。
また以前、懐徳堂の門前に女児が捨てられていたことがあった。竹山は女児を保護し、町会所へ届け出たが、町会所からは、
「捨て子の養育と、町奉行所への届出は、懐徳堂で行うように」
と言われたため、竹山は女児のことはすべて懐徳堂で引き受けることにした。
竹山は、捨て子を医師に見せて皮膚の瘡を治療し、また、捨て子の里親を探して、西成郡在住の百姓夫妻のもとへ養女に出すことまで決めた。
ところが、町会所から横槍が入った。
「里親については、それにふさわしい人物であるかどうかを町で検分する必要がある。それが旧来からの常式であり、懐徳堂で勝手に養子縁組を進められては困る」
捨て子の養育も、町奉行所への届け出も懐徳堂で行えと言われたから、竹山は責任をもってそうしたのに、今さら何を言うか、と内心腹を立てたが、極力感情を抑えて言った。
「この件に関しては、懐徳堂に一切をお任せになさったのではございませんか? 私はそう解釈したため、懐徳堂にて女児を保護して養育し、里親も選定したのです。当然、里親になるご夫婦の人物はきちんと見定めており、間違いはないと確信しております」
だが町会所は、先例がない、の一点張りで、竹山の主張を受け入れなかった。
竹山は、ここでも折れざるを得なかったが、その後、その女児は容態が急変して亡くなったため、養子縁組の話そのものが立ち消えになった。
竹山は、この捨て子問題ほか、官許懐徳堂の位置付けというものが尼崎町にはきちんと理解されていないことに納得がいかず、町奉行所へ相談に出向いた。
「官許取得以降、懐徳堂は除地になったものと認識しております。ですが、実態はそうなっておらず、事あるごとに懐徳堂は町から介入を受けている現状です。ついては、改めて懐徳堂が除地であるとのお墨付きを頂戴したく、伏してお願い申し上げます」
そう訴えた。だが、町奉行所は、町方と懐徳堂とで円満に話し合いの上、良きに計らうようにと述べるのみであり、懐徳堂が除地であることの厳密な適用判断はなされなかった。
そんな不満がくすぶったまま、年月が過ぎた。
先日、竹山が西町奉行所で高亶の子息への夜講を終え、京極家の家老と談笑していたとき、たまたま除地のことに話が及んだ。そこで竹山は、捨て子の話とその顛末について詳しく話し、懐徳堂が除地であることのお墨付きが欲しいと述べた。
この話が家老を通じて高亶の耳に入り、高亶から、懐徳堂と尼崎町との人別改めならびに捨て子の問題ついて、経緯の詳細を文書にて提出するよう指示があった。
竹山はすぐに文書をまとめ、西町奉行所へ提出すると、高亶は東町奉行の土屋守直とも協議の上、沙汰を下した。
「大坂学問所(懐徳堂)は、享保十一年の官許公認以降、諸役免除、人別は尼崎町とは別管理であること間違いなし。ここに改めて、学問所が除地であることを申し渡す」
この沙汰が尼崎町にも伝達され、竹山が長年抱えていた懸案事項がようやく解決を見た。
竹山が尼崎町と揉めていたとき、春楼に言われたことがあった。
「懐徳堂が除地であることを強調し、町との軋轢を生むようなことは、極力避けた方が良いのではないでしょうか? 確かに人別管理のことや捨て子の対処について町に不満を抱く気持ちは分かりますが、冷静に考えてみれば、それほど大きな不具合が生じる問題とは思えず、町との共存を優先した方が懐徳堂にとっても好都合ではないでしょうか?」
春楼の考え方には一理ある。そういう折り合いのつけ方というのもあり得るであろう。
だが、竹山があくまでも懐徳堂が除地であることにこだわり、町の管理から完全に抜け出したいと目論んだのには理由があった。
それは、懐徳堂を官許学問所に留まらず、官学、つまり、公儀が運営する学問所として存立させたいがためであった。これは竹山が長年温めていた腹案であり、悲願でもある。
父の甃庵は、懐徳堂の官許取得を成し遂げた。預人の後を継いだ竹山は、さらにもう一歩踏み込んで、懐徳堂を官立の学問所にまで高めたいと考えた。これは、父の業績を凌駕したいという素朴な野心という側面もあるにはあるが、官学とすることで、懐徳堂を畿内における儒学教育の一大淵叢となし、多くの子弟に儒学を授けて道を広め、世の中の情操を陶冶したいという竹山の熱い思いでもあった。
大坂には、有能な儒者が何人も在住している。柴野栗山、古賀精里はすでに大坂を去ったが、頼春水、尾藤二洲、細合半斎、岡白州、それに、竹山の弟子で、懐徳堂の助教をつとめている早野仰斎などは、関東の儒者と比較しても、その学識は決して引けをとらない。もちろん、履軒もその中の一人に数えられる。
懐徳堂が官学となった暁には、彼ら大坂の儒者を講師として招聘し、かつ、学舎をさらに拡充させて多くの門下生を集め、大々的に儒学を講ずる。竹山は、教頭として懐徳堂の運営責任を負う。
それを実現させることが竹山の夢であった。
町奉行所から除地のお墨付きをもらった懐徳堂は、「大坂学問所」から「大坂学校」へ改称することになった。各所へ提出する書類なども、すべて「学校」と署名することにした。
五十一歳になった竹山は、体重が二十四貫目ほどあった。肩回りがぶ厚く、一見、威圧感すらあり、長袖の儒者というよりも、北前船の屈強な船頭といった方が似合っていた。飯碗は丼鉢ほども大きく、これで二碗も三碗も飯を食べるのがいつものことであった。
「魁梧奇偉にして、健啖豪飲また匹敵なし」
頼春水は、竹山のことをそう評した。
「春水も驚愕するほどの鯨飲馬食かな」
履軒はそう言って、竹山をからかった。
以前、竹山が所用で京都へ行った際、二条河原で大相撲の京都場所が興行されていた。
当時、相撲界では、大関の谷風梶之助が、並外れた巨躯と怪力とで他の力士を圧倒していた。連敗することはほとんど皆無であり、勝率は九割を超えていた。谷風は、のちに横綱へ昇進した。
京都で酒席が催され、竹山も招かれてその席に連なったが、そこに、京都場所に出ていた谷風も参加していた。六尺三寸、四十五貫というその巨漢は、並みいる参加者を圧する存在感だった。
宴たけなわになると、余興として谷風と枕引きをすることになった。
幹事が挑戦者を募ったので、竹山は挙手し、谷風に挑んだ。
双方、枕の両端を持ち合い、幹事の掛け声とともに枕を引き合った。竹山は、谷風の剛力に引かれても手を離さず、ついに枕が破れてしまった。
枕を替えて再戦すると、竹山は谷風に引きずり回されながらも枕から手を離さず、ついに勝負は決しなかった。
これが縁で、以後、毎年夏から秋にかけて興行される大相撲大坂場所の合間に、谷風が懐徳堂へ顔を出すようになった。
「私は、谷風と枕引きをしても負けなかった」
竹山は、自身の武勇伝としてしばしば人にそう語っていた。




