(1-5)帰洛
京都に戻った石庵は、しばらくは何もせず、傷心を癒すように無為に過ごしていたのだが、ある日、讃岐琴平の金毘羅大権現の近くで酒造業を営んでいるという五十年配の人物の来訪を受けた。
木村寸木と名乗るこの人物は、商用で京都、大坂へは頻繁に往来していると述べたあと、
「私どもの地元で、儒学の師を探しております」
と言った。
「石庵先生におかれましては、江戸から畿内へお帰りになられたばかりとは存じますが、ぜひ讃岐へお越しいただき、儒学の教化にご助力願えませんでしょうか?」
寸木の唐突な申し出に石庵は戸惑った。そもそも、なぜ自分が江戸から戻ったばかりであることを知っているのだろうか。石庵は、そのことを寸木へ問うた。
「実は、浅見絅斎先生から、石庵先生のことをお聞きしました」
寸木は、絅斎とはだいぶ以前からの知り合いだと言う。
石庵は、十三年前に破門されて以降、絅斎とは一度も会っていない。手紙のやり取りなども一切しておらず、没交渉である。
儒者は、他の儒者の動向に詳しい。恐らく絅斎は、石庵が江戸で名を成すことができないまま、尻尾を巻いて京都へ逃げ帰った、とでも他の儒者から聞いたのであろう。
「絅斎先生に儒者のご推薦をお願いしたところ、三宅石庵という、かつての弟子が京都に居るから、一度訪ねてみてはどうかと言われまして」
石庵はしばらく沈思した。破門したかつての弟子を訪ねてみよと寸木へ言った絅斎の意図はどこにあるのだろうか。
儒学を学んでも、みずから塾を開けるほどの学識を備える者はそう多くない。たいていは若年時に四書を通り一遍になぞり、「論語」と「孟子」の一部を暗唱した程度で職に就き、就職後は学問とは無縁で暮らす者がほとんどである。
絅斎は多くの弟子を擁してはいるものの、その中で儒者となった者はごく一部である。さらにその中から現時点、定職に就いておらず、手が空いている者は数えるほどしかいない。畿内か南海道の在住者という条件も含めると、破門したとは言え、寸木へ推薦可能な儒者としては石庵以外に選択肢がなかったのであろう。
消去法か、と石庵は思った。絅斎に名指しされたことを謝する気にはなれなかった。
その一方で、讃岐の地で儒学を講じることについては気持ちが傾いた。石庵は、しばらく休養した後、京都で漢学塾を開こうと考えていたのだが、世に知られた金毘羅大権現の近くに移り住み、そこで儒学を講ずるのも悪くないと思った。
江戸で暮らした八年間は気鬱なことが多かったものの、地元を離れて他郷で暮らす経験は、自分の身柄をやんわりと縛りつけているものを解き放ち、外へ目を向けるのに寄与したことは疑いようがなかった。
石庵は即答を避け、寸木には翌日また来てもらうように依頼したが、すでに石庵の意思は固まっていた。翌日、訪ねてきた寸木へ、讃岐行きを承諾すると告げた。
「ただし、讃岐へ永住することは考えていません。いずれ頃合いをみて、また畿内へ帰りたいと考えております」
「ごもっともなお話です。異存はございません」
住居や講堂など、必要なものはすべて寸木が用意すると言う。石庵は寸木から要請を受けてから十日後、京都を出発し、讃岐の金毘羅大権現近くにある住居へ移った。
寸木は、羽屋という酒造業を営んでいて、商売は堅実順風であり、裕福であった。寸木は商売の傍ら、俳諧を嗜んだが、石庵はその影響を受けて俳諧に親しむようになり、泉石という俳号をもつに至った。




