(5-14)社倉私議(しゃそうしぎ)
「竹山先生には、経綸の才がある」
世間では、竹山を儒者として評価する一方、経営手腕に長けた側面を評価する向きもあった。懐徳堂の預人として堅実にその運営を行いつつ、以前、妻である順の実家、革嶋家の財政を後見するように請われ、その立て直しを実現させた。
龍野にいる竹山の知友の儒者を通じて、その噂が龍野藩七代目藩主、脇坂淡路守安親の耳に入った。
「非公式ながら、藩の経済政策について、竹山に意見具申してもらいたい」
安親は、側近の藩儒にそう漏らした。
その話が、藩儒から竹山へ伝えられた。
すると竹山は、中国宋代に朱子が行った社倉法を参考に、救民政策としての社倉について意見を述べることにした。
社倉とは、飢饉などに備えて米穀を蓄えておき、飢饉のときにそれを庶民に分け与えて危難を回避する政策である。竹山はそれを、龍野藩で運用可能な方法として提言した。
具体的には、毎年、藩と民間とがそれぞれ千石ずつを供出し、倉に備蓄する。蓄えた米は希望者へ貸し付けるが、後日、貸し付けた米高に利米を付加して返済させる。それを繰り返すと、利米の残高が徐々に膨らんでいき、やがて利米の貸し付けだけで社倉を維持運営できるようになり、新規に米を供出する必要がなくなる。
これは、含翠堂の運営方法を参考に、懐徳堂創設当初、その運営費用を賄うために五同志が考え出した方策に類似しており、竹山はそれを米に応用した形であった。
当時、五同志は毎年、出資金を拠出し、そのお金から懐徳堂の運営費用を差し引いた余剰金を基金として貸付運用していた。得られた利息は基金元本に組み込むが、それを繰り返すことで、やがて出資金の拠出なしでも運営費用を賄えるようになる。実際、懐徳堂では、すでに同志による出資金の拠出はなくなり、基金の貸付運用で得られた利息だけで運営費用を賄えるようになっていた。
安永三年(一七七四)、竹山は、社倉による経済政策について「社倉私議」という冊子にまとめ、龍野藩へ提出した。
この提言はすぐには実行されなかったものの、後年、竹山の弟子で、龍野藩儒となった小西惟冲によって藩政に用いられた。
安永五年(一七七五)、新たな大坂西町奉行として、旗本の京極伊予守高亶が着任した。竹山は、あいさつに伺候したい旨を西町奉行所へ打診すると、
「諸事改めることがあるゆえ、懐徳堂創設から今日までの事情を文書にて差し出されたし」
と、担当の同心経由で指示された。
以前、東町奉行だった鵜殿長逵宛てに、懐徳堂のこれまでの経緯を文書で提出したことがあった。竹山はそのときの事例に倣い、懐徳堂の創設から、官許取得、与えられた既得権などを整理、記載し、西町奉行所へ提出した。
ほどなく、西町奉行所から呼び出しがあり、新奉行の京極高亶と面会した。
「我が息子二人に、儒学の教授をお願いしたい」
高亶にそう要請された竹山は、月に五、六度、高亶の嫡男、八之助と、次男の八十五郎へ儒学を講義することになった。主に日中に講義を行ったが、ときどき夜講を行うこともあり、その際には高亶も竹山の講義を聴講した。
竹山は、高亶から信任を受け、西町奉行所へ自由に出入りできるようになった。
この年の正月、履軒の第三子、八郎が五歳で病没した。
亡妻のみわの忘れ形見であった八郎の死は、みわの死からようやく立ち直りつつあった履軒に再び大きな打撃を与えた。みわと、みわとの間に生まれた二男一女をすべて失い、履軒は一人ぼっちになった。
履軒は、八年間住んだ鰻谷町の借家を出ることにした。
「みわや子供たちとの思い出が詰まったこの家に住み続けるのは、つらくてかないません」
履軒は、竹山に思いを吐露した。竹山も、七郎のあとに生まれた第十一子の女児、三寿を、昨年、二歳で失っていた。
履軒は、南本町二丁目の借家へ転居し、水哉館を営みつつ、それ以外の時間は経書の精読と注釈作業に没頭した。没頭することで、図らずも一人身となってしまった悲しみを忘れることができた。
翌年、竹山は、漢詩の正調や変調、音韻について網羅的に整理し、詩作の方法を示した「詩律兆」を著し、刊行した。これは、漢詩に関する型をほぼもれなく扱い、それぞれの型の詩句例も示した事典のような本であり、竹山渾身の労作であった。竹山はこの著書で、荻生徂徠や服部南郭など、蘐園学派の詩についてその誤りを指摘し、厳しい批判を加えた。
「どうも兄上は、こと徂徠に対してはひどく辛辣ですなぁ」
「詩律兆」を一読した履軒は、そう漏らした。竹山は、「非徴」でも厳しい徂徠批判を展開している。履軒は、竹山の徂徠批判はお家芸のようであり、そうすることによって、朱子学を宗旨とする懐徳堂の位置付けをより明確にする意図があるのではないかと思った。




