(5-13)履軒の妻みわ死去
豊後杵築藩三万二千石の松平家に、綾部璋菴という藩医がいた。医業の傍ら、天体に興味を抱き、独学で天文学を学んだ。夜間には天体観測も行っていた。
天文学への興味が高じ、さらに研究に時間を割くために、璋菴は藩庁へ致仕を申し出た。だが、藩庁はその申し出を認めず、受理しなかった。
やむなく璋菴は杵築を出奔、脱藩の挙に打って出た。璋菴三十九歳のときである。
大坂にたどり着いた璋菴は、父や兄の旧知である懐徳堂の竹山を頼った。
「何と大胆なことをなされたことか」
竹山は困惑したが、天文学を研究したいという璋菴の真摯な思いに感じ入り、当面、懐徳堂に寄宿させることにした。
履軒にも事情を話して璋菴と引き合わせたところ、二人はすぐに意気投合した。
竹山と履軒は、璋菴のために家を借り、そこで医院を開業するように取り計らった。
璋菴は、杵築藩からの追手を避けるために改名し、麻田剛立と名乗った。以後、剛立は、医業で生活の資を稼ぎつつ、余暇には天文学研究に没頭することとなった。剛立はのちに天文学の塾、先事館を開いた。
履軒は、自分よりも二歳年下ながら、学問研究のためにあえて脱藩までする剛立の胆力に敬意を抱いた。剛立は医学と天文学に通暁していて、自然科学についてあまり知見がない履軒にとって、剛立との会話はつねに新鮮であった。履軒は、剛立宅へ頻繁に出入りするようになった。
「今度、獣体解剖を行います。履軒殿もご覧になりませんか?」
剛立に誘われた履軒は興味を抱き、その解剖に立ち会うことにした。
獣体解剖当日、剛立はまず、寝台に仰向けに寝かせた獣体を開腹し、皮膜を除去した。次に肋骨を取り去って肺を露出させ、さらに肺を除去して心臓と隔膜とをあらわにした。
その後、隔膜を除いて肝臓を露出させ、腸を除去して腸膜を見せるといった具合に、剛立は次々と解剖の手を進めた。履軒はその傍らに陣取り、熱心に解剖の様子を観察し、剛立の説明を聞いた。
自宅へ帰った履軒は、世に出回っている人体解剖図を参考にしながら、実見した獣体解剖の様子も踏まえて独自に人体解剖図を十五葉描き、彩色を施した。これに解説文を加えて、「越俎弄筆」という書物を著した。
「この出来栄え、医師でもない履軒殿が描いたとはとても思えません」
剛立はそう言って、履軒を賞賛した。
履軒はまた、中国三国時代の蜀の丞相、諸葛亮孔明が得意とした陣法、「八陣」についての考究を行った。
「実際には『八陣』ではなく、『九陣』だった」
古来から「八陣」は、大きな八つの陣の一つ一つにさらに小さな八陣が組み込まれ、合計六十四の陣からなると伝えられているが、そうではなく、孔明の陣法は正方形の「九陣」であり、九つの大きな陣の一つ一つに小さな陣が九つ組まれ、合計八十一陣で構成されていた、というのが履軒の主張であった。
履軒は「九陣」を図解して解説文を付し、それ以外の種々の陣法についても、彩色した図解入りで紹介した書物を著し、これを「述龍篇」と題した。
深衣の手製や、人体解剖図の描写、陣形図の図解など、実際に手を動かし、実作することを通じてより深く物事の本質が理解可能になる。履軒はそう考えるようになった。
そんな矢先であった。
安永二年(一七七三)四月、履軒の妻、みわが風痎に罹り、看病の甲斐もなく息を引き取った。享年二十七歳。
履軒は、三歳になった八郎と二人、見渡す限り何もない大地にぽつんと取り残されてしまったかのような錯覚を覚えた。自分の生き方が定まらずに試行錯誤し、煩悶していた履軒を、文句一つ言わずに支えてくれたみわであった。そのみわを失い、履軒は何事も手につかなくなった。
履軒を心配して、懐徳堂から人が来たり、知友が励ましに訪ねて来たりもしたが、履軒の気落ちと気鬱は容易には晴れず、かなり長く続いた。




