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懐徳堂の人々 ―大坂の学問所―  作者: 宇山 了
第5章 儒者兄弟
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(5-12)竹山の江戸行き


 明和八年(一七七一)三月、竹山と履軒は、書生二人を含め四人で播州龍野へ旅立った。

 甃庵の兄で、八十四歳の伯元は、三年前まで現役の龍野藩医として仕えていた。その伯元から、老い先短い老躯の身ゆえ、生前にぜひ大坂の二人の甥に会いたいと手紙が届いた。

 これを受けて、二人はすぐに旅程を組んだ。せっかくの機会なので、伯父と会う以外にも、物見遊山を楽しんだり、孝子孝婦との面会も果たすことにした。旅に出る間、懐徳堂は休講にした。

 難波の港から船に乗り、尼崎で上陸、その後は陸路を進み、龍野に到着した。

 一行はさっそく伯元宅を訪れ、久方ぶりの対面を果たした。伯元宅には親戚一同も集まり、三日三晩、賑やかな宴席が続いた。

 竹山と履軒は一族の墓参をし、また、孝婦、貞婦として龍野藩から顕彰された()()()()()()の三人と対面した。

 それから二手に分かれ、竹山は赤穂へ行って祖父、玄端の墓参をし、履軒は美作国田殿(たどの)村にまで足を延ばして、孝子として公儀から顕彰された稲垣子華(しか)と面会した。

 当初の予定を済ませた後、一行は川舟に乗って網干(あぼし)で遊び、海舟に乗って投石(なげいし)の旧跡を訪れた。室津経由で龍野へ戻ると、親戚知人との別れを惜しみつつ、帰路についた。

 履軒は帰坂後、このときの旅を物語風に脚色して、和文で「昔の旅」という本を書いた。道中、竹山と履軒が詠んだ漢詩や和歌などもちりばめられていて、このときの龍野行きは、二人にとって忘れがたい思い出となった。

 履軒の妻、みわが女児を出産し、鹿と名付けたが、ほどなくしてこの世を去った。

 竹山の第七子、淵蔵は四歳になった。これまで、竹山の六子はみな二歳以下で亡くなっていたため、子女が四歳まで生育したのはこれが初めてであった。

 竹山の妻、順は、淵蔵を産んだ後、第八子の休吉を出産したが、二歳で夭死していた。次いで第九子の午吉を産み、一歳になっていた。

 順はさらに、この年八月、第十子の男児を出産し、七郎と名付けた。

 七郎生誕後、履軒の妻、みわも男児を出産した。七郎に次いで生まれた男児ということで、履軒はこの男児に八郎と名付けた。履軒は日頃、神仏など存在しないと言い放ってはばからなかったが、このときばかりは、八郎が病を得ずに無事成長することを神仏にすがりたい気持ちであった。

 大坂城大番頭で、竹山に城内での月三度の講義を要請していた堀田正邦は、その後、二条城在番に転じていたが、竹山あてに、「大日本史」の筆写を依頼してきた。

 「大日本史」は、水戸藩徳川家が藩の事業として編纂を行った紀伝体の史書であり、かつて石庵の弟の観瀾も、水戸彰考館総裁としてその編纂に携わっていた。神武天皇から南北朝時代までの百代の天皇の治世を取り扱い、本紀七十三巻、列伝百七十巻、志百二十六巻、表二十八巻、合計三百九十七巻に目録五巻からなる膨大な書物である。

 正邦は、「大日本史」を自藩の近江宮川藩にて所蔵するために、大和郡山藩柳沢家から「大日本史」全巻を借り受け、これを筆写することにした。筆写には、学識を備えた相当数の人材が必要だが、その仕事を、かねてから知遇を得ていた竹山の懐徳堂に依頼した。

 竹山は春楼と相談し、懐徳堂の弟子や書生らをできるだけ集めて、正邦の依頼に応じることにした。履軒もこの仕事に加わり、筆写者は合計三十七名、校訂者は春楼、竹山、履軒、それに加藤景範の四名が務めた。

「せっかくの機会ゆえ、懐徳堂の分も筆写しましょう」

 竹山がそう言い、春楼や履軒も同意したため、筆写は都合二部行うことになった。

 十一月から作業を開始し、翌年二月に「大日本史」二部の筆写が完了した。

 筆写した一部を宮川藩へ納めると、竹山は正邦から謝意を述べられ、そのお礼にと、今般東帰するゆえ、一緒に江戸へ参らぬかと誘われた。費用一切は宮川藩が負担するという。

 竹山はこれまで、江戸へ足を踏み入れたことがなかった。この機会に、江戸の儒者たちとの親交を深めるのも悪くないと考えた。

 竹山は、江戸行きを決断した。

 不在の間、竹山が受け持っている日講は休講とし、四月、京都から正邦らとともに江戸へ向けて出立した。

 殿様である正邦との道中であるため、その旅程は緩やかであり、江戸に到着したのは五月中旬であった。

 江戸での竹山は日本橋浜町の客舎に寄寓し、そこを拠点にして、渋井太室(たいしつ)、細井平洲(へいしゅう)南宮大湫(なんぐうたいしゅう)、井上四明(しめい)ら江戸の儒者たちと交友した。また、龍野藩の江戸屋敷を訪問し、龍野の旧知と会ったりもした。折に触れて漢詩も多数詠み、大川での舟遊びや、両国橋での納涼、上野寛永寺や、木母寺(もくぼじ)への参詣など、精力的に江戸滞在を楽しんだ。

 ところが、思わぬ事態が生じた。

 六月二日、竹山を江戸へ誘った堀田正邦が突然病を発し、急逝した。享年三十九歳。

 竹山は衝撃を受け、正邦を哀悼する漢詩を詠んだ。

 八月二日、竹山は、二条城番衆として京都へ赴任する旗本の佐々木新左衛門、長谷川主税とともに江戸を発ち、西帰することになった。

 だが、ここでも異常事態に見舞われた。

 前日降った大雨の影響で玉川が増水したため、品川宿で足止めを食う羽目になった。

 その後も、箱根の峠で暴風雨に遭ったり、富士川が氾濫して何日も足止めを食うなど、道中、大雨と大風とに難儀すること甚だしかった。大坂に帰り着いたのは八月二十七日であった。約五ヶ月間、大坂を留守にしたことになる。

 竹山は、今回の江戸の旅について、行きの行程と、江戸での滞在中の出来事を「東征稿(とうせいこう)」という書物にし、難儀した帰りの行程については「西上記(さいじょうき)」という記録にまとめた。


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